ポプラ社小説新人賞一次選考通過の、管理人自作小説を公開します。あらすじ付き【前編】
【以下本編つづき】
三
まだ陽気という言葉で片づけられる日差しを背に、小川唯は大きく伸びをした。梅雨入りもまだ遠く、幸い屋上で過ごすにはうってつけの気候が続いている。このままの天気が続くよう、唯は切に願った。屋上の入り口、半分日陰になっている範囲に本を敷いて座る。お尻が痛くなってきたら、外縁の柵にもたれ、立ったまま本を読む。唯が最近見つけた、お気に入りの過ごし方だった。学校の授業は、教師から目を付けられない程度の最低限の出席だけ気を付けた。多少参加していなくとも、成績は維持できている。父から文句を言われる理由もないのだから、学校サボりは自分だけに許された特権と言えるだろう。
唯は立ち上がり、スカートの裾を払った。灰色の埃が宙を舞って落ちる。歩みを進めて六歩。柵まで来ると、唯の通う高校のグラウンドを見下ろすことができた。最近になって喫茶店よりもこの場所に惹かれるのは、景色が決め手なのだろう。体調が悪いと言って休んだ優等生が、実は目と鼻の先で空から見下ろしていると誰が想像するだろうか。こんなに近いのに、どこよりも見つからない場所。秘密基地のような特別感が、唯の冒険心をくすぐった。
屋上に入りたくて、地元のインターネット掲示板で花火大会を見るための穴場を検索するという発想。閃いた時は、自分は天才だと思った。尚且つ学校の近くで見つかるとは。神様にまだ見捨てられてはいないのかもしれないと、したり顔になる。
厄介なのは、時々本当に体調が悪くなる時があることだ。出席日数をギリギリにして、体調不良で休むしかなくなった場合。留年確定の日数になったら、さすがに教師になんと言われるか分からない。それにこんな屋上でうっかり死んだりしたら、死体は鳥に食べられて白骨になってしまいそうだ。医学に関する本も読み漁った唯にとっては、人間はそう簡単に死なない図太さと、ちょっとした掛け違いで死に至る脆さの双方が既知の情報だった。何かの拍子で心臓が止まったらどうしようと、杞憂とも思える考えがこびりつくことがある。そんな時、唯は少しだけ、本を読みすぎるのも考えものだと後悔した。馬鹿らしいと思いながらも、用意しておいた水筒のお茶を飲む。これで、脱水症状で死ぬことはないだろう。
もう一度柵へ頬を押し当て、校舎の方を見ようと目を動かす。唯のクラスの教室は、何度やってもギリギリ建物の陰になって見えない。頬骨と柵が直接当たっているのではないかと思えるぐらいに寄り掛かっても視界は変わらないので、諦めてグラウンドへ視線を戻した。
恵太は今頃英語の授業だろう。また眠りこけてはいないだろうか。唯は時に、恵太のことも心配になった。あの好奇心の無さ、向上心の無さは、いずれ将来ボケた爺様になってしまう気がする。この際対象は何でもいい。新聞部の記事だって、依頼されたのならいっそのこと、やり遂げるという機会になってはくれないだろうか。唯の思いとは反して、恵太は竹内先輩からの依頼にも消極的なままだ。実のところ、恵太からすれば唯が引き受けたのはいい迷惑なのだろうが。私にも譲れない理由がある、と唯は心の中で弁明した。
忘れたころに厚みのある風が全身めがけて吹き付けてくる。唯は、乱された髪を簡単に整えため息をついた。変わらず考えるのは恵太のことだ。自分の飽くなき探求心を分けてやりたいとすら思う。実際に切り取って分け与えるわけにもいかないので、できるだけ新しく知ったことや面白いと思ったことを恵太に話すようにしていた。洗脳チックでもいいから、影響を与えられないか。明日は、このビルを見つけるまでのアイディアを話そうと思う。
物思いの中、重い鉄扉が軋む音に振り向いた。約束の時間から五分ほど経っているだろうか。ファミレスで待ち合わせした時と同じく、彼女は少し遅れてやって来た。
「ほんとにこんなとこ入れるんだ。斬新」
莉花が、物珍しそうにあたりを見渡し、後ろ手でドアを手放した。風のせいもあって、大きな音とともに激しく閉じる。
「意外といいでしょ」
「そうかも、意外と」
莉花が近寄ってくる。初めて見る制服姿は、身軽そうで活発な莉花の魅力がよく表れていると思った。以前見た黒光りするジャケットより、半袖から肌が出ているぐらいの方が似合っているのに。そう評論しながらも、服装とメイクで、あれだけ普段と違う自分を生み出せるのは羨ましい気もした。
唯がインタビューの時のことを詫びると、莉花はあっけらかんと笑って意に介していない様子だった。
「いつもここでサボってんの?」
「そう、学校を見下ろしながらサボるの。お手軽国王スタイルかな。あとはね、桜町通りもたまに行くかな」
「あはっ、意味わかんない。そのキャラでそのシュミ意外すぎ」
「柳さんは? いつもどこでサボってるの?」
「なにサボってるって決めつけてんの? まあ、サボってるけど」
唯が説明したように、莉花は柵に掴まって学校を見下ろす格好で笑った。
「てか、莉花って呼び捨てでいいよ」
曖昧に頷きながらも、同姓を呼び捨てにする文化が唯にはなかった。心の中で、ちゃん付けで妥協してもらおうと誓う。
二回目に会う約束を、学校の授業中はどうかと提案したのは莉花だった。唯が時々サボっていることなど、莉花は知らないはずなのに平然と授業を抜け出せばいいとメッセージを送ってくる。その時は驚いたが、顔を突き合わせてみれば莉花の正直さゆえのことなのだろうと思った。楽しいことも嫌いなことも、自分の感性に正直に表現する。莉花がサボりたいと思ったから誘った。それだけのことなのだろう。
二人はヘイトロッカのことはそっちのけで、思いつくままの話で盛り上がった。唯は不思議な感覚も同時に覚えていた。同性との会話の機会が思い出せないぐらい遠く失われている今、つい余計なことを話し過ぎてしまう心境にある。それは唯自身理解しているつもりだが、なぜ莉花はそんな相手に付き合ってくれるのだろう。唯が尋ねると、莉花は「私はバカだから、学校サボるの付き合ってくれるならなんだっていいんだって」と笑っていた。そういうものなのか、と変に納得させる大らかさがあった。
心の中で、意図していなかった方へ進んでいることが歯痒かったが、久しぶりの女同士の会話を止めるのが名残惜しい。もう一つだけ、この話題だけ、と続けていると、瞬く間に日が暮れ始めている。さすがに喋りすぎたと後悔したが、胸の中でひっそり詫びる他なかった。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「いいよ、唯って真面目そうなのに無茶苦茶だし。結構面白かったよ」
過去形になった莉花の言葉に、そろそろ本当に終わらせなければと我に返る。
「ねえ、そういえばあれはもう、大丈夫?」
「ああ、あれ。ひどくなる一方」
莉花はすぐに唯の指すものを察知したようで、途端に顔を曇らせる。メッセージ上でやりとりをするようになって、唯は莉花がヘイトロッカのファンから度々嫌がらせを受けていることを聞いていた。
「これ、見て」
莉花がスマホを差し出してきたので、言われるがままに受け取る。二階建ての一軒家が玄関前から写された写真だ。これといった特徴のない家に、莉花の意図が分からず顔を見る。
「私の家だよそれ。サイトの掲示板に晒されてるの。ありえなくない?」
「え、それほんと?」
「ほんとに決まってんでしょ。家は関係ないだろっての。マジでムカつく。頭おかしいんだよここの管理人」
「管理人? サイトの管理者がやってるってこと?」
「そういうこと。他に住所とかバレるわけないし」
脳裏に、唯自身がこのサイトに登録した時のことがよぎる。有料なわけでもないのに、やたらと連絡先や住所を入力する必要があり戸惑った。とはいえヘイトロッカのファンに接触するにはこの方法しかないと、渋々打ち込んだ記憶。偽りの情報で登録できないよう、身分証明書の写真まで送らされる徹底ぶりだった。男子禁制のため、という仰々しい赤文字が画面上の形のまま記憶に残っている。
「今さら分かったけど、遅すぎた。あのサイト自体、頭おかしい管理人が標的を探すためにやってんだって」
「標的って、なんの?」
口元を半分だけ歪ませて、付け足したような笑みで莉花は答えた。
「生け贄にする相手、ってところかな。知らないけど」
唯は背中を伝う冷たい感触に身をすくめた。奇しくも、恵太や竜海に使った生け贄という言葉。思いがけない一致と、莉花の不自然な笑みが唯の鼓動を早める。
「あいつ、自殺に追い込む相手をああやって探してるんだよ」
大丈夫、ただの偶然だと自分に言い聞かせる。常に平静でいないと、莉花の助けもできなくなってしまう。悟られないよう、懸命に邪魔な思考を振り払った。
「その管理人が、自殺を仕向けてるの?」
「絶対そう」
動揺で莉花の言葉を聞き逃していないか不安だったが、不自然な返しではなかったようだ。莉花は引きつった笑みこそ止めていたが、今は管理人への憤りが露わになっている。ため込んでいた鬱憤を解き放つように、莉花は詳しい経緯を話し始めた。
莉花がまくし立てた話によると、この一か月ほどで自殺を促すようなメールが一日に何度も来ていたそうだ。馬鹿げていると無視を続けていたが、ついには家まで来て写真を撮られ、サイトに掲示された。二年ほど前から、突然サイトに誰かの家の写真が載っていることがあったそうだ。載せた誰かの意図は分からなくとも、写真自体は何の変哲もない民家のため話題にもならず、忘れ去られていく。だがそれから一か月ほど経って、ヘイトロッカのファンが一周忌でまた後追い自殺をしたとニュースで報道されると、例の写真が注目を浴びた。遺族のインタビュー映像の、一瞬映った背景と写真の家とが同じ場所ではないかと、誰かが書き込んだという。同じ現象は昨年も続き、写真と自殺者の関連を莉花自身も認めざるを得なかったと、不服そうに話した。
メールに対して強気でいたという莉花も、写真を貼られたことでさすがに気味の悪さが強くなってきたのだろう。警察に相談するべきだという唯の提案をすんなり受け入れてくれた。唯はようやく一つ、安堵の息をつくことができた。
「でもその管理人って人、なんで莉花ちゃんを選んだんだろう」
「私が、死にたいって書き込んでたからだろうね。しかも何回も」
莉花が今度は自然な苦笑を浮かべた。
「なんでそんなこと、死にたくなるぐらい酷いことがあったの?」
頭が揺れる、そう思った途端、唯は背を柵に預ける格好でしゃがみこんでいた。不快な浮遊感の後、何事もなかったように莉花の顔を見上げることができた。
「別に。ちょっとそう思っただけ。あんなの本気にして、自殺するように言ってくるかな普通。イカれてるよね」
「書き込みを見て、狙われたってこと?」
「多分ね。しつこく押せば死んでくれそうな相手を探してるんだと思う。去年とかもそうやって、誰かを死なせてるんだよ絶対」
莉花は腕組みをし、姿の見えない悪意にぶつけるように舌打ちをした。
「でも、本当にそうなのかな」
「どういうこと?」
納得できないことがいくつかあった。莉花は唯の疑問に、表情を変えず耳を傾けている。
「いくら死にそうな人を選んだからって、そう簡単に死ぬ人がいるかなって。それに、一番分からないのは目的かな。人を死なせるのが面白いんだとしても、一年に一回ていうのが変だなって。そういう人って、エスカレートして間隔が短くなるのが大体だもん」
「なんか探偵みたいだね」
見開いた莉花の目に見つめられ、唯は中途半端にはにかむ。ミステリーでよく出てくる、犯罪者のプロファイリングをするシーンから知識を取り出しただけだ。感心されるのは照れ臭かった。
「でも、その答えは簡単だよ」
腕組みしたまま、莉花は吐き捨てるように続けた。
「目的は、ヘイトロッカの話題を作りたいだけだから」
「話題って」
大よその答えがチラついて、嫌悪感を覚える。フィクションでなく、そんなバカげた理由で人の命を使う者がいる。唯は、できれば自分の考えが外れていて欲しいと願った。
「毎年ファンが死ねば、そのたびにニュースで取り上げられるじゃん。ヘイトロッカが忘れられないように必死なんでしょ。死んじゃった奴は、その方法に乗っかったってこと」
他人事と言いたげな投げやりな説明は、唯の想像通りの話だった。頭が揺れる予感は明確な眩暈に変わりつつある。座っておいてよかった、と唯は思った。
「本当は、どうしたいのか自分でも分かんないんだよね」
莉花は柵を掴み、自分の足元より遥か先の、アスファルトが敷き詰められているはずの地面の方へ目を向けた。唯は横目でその様子を追うのを止め、膝を抱えて丸くなった。
「自殺したらね、トビガミって呼ばれるんだよ。なんでか、みんな飛び降りて死ぬから。それでヘイロが話題になって、喜んでる奴らから神って崇められる。どんな神様だっての」
唯の前に、唐突に莉花のスマホが差し出された。促されるままに見ると、画面いっぱいに、同じアドレスから来たメールの一覧が並んでいる。上から莉花の指が伸びてきて、その一つに触れる。開かれたメールは、一行のシンプルなものだった。
「つまらない人生にさようなら」
唯の反応を待たず、莉花は次々メールを開く。
「今日もつまんなかったでしょ?」
「痛くないよ」
「死ね死ね死ね死ね死ね」
「生きてて意味あるの?」
「ヘイロとトビガミは永遠」
「未来に楽しいことなんてない」
「七月六日が楽しみだねw」
淡々と流れる画面の一つ一つに、悪意に満ちた誘いが続く。
「七月六日……」
唯が突然出てきた日付を口にすると、莉花は「アキトの命日」と補足した。
簡素な文面だが、確実に煽り立てる意思を感じる。薄ら笑いを浮かべながら送る誰か。唯は、こみ上げてくる吐き気をなんとかこらえた。
「ムカつくけどさ、こいつに言い返せないんだよね。生きてる意味あるの? って聞かれたら、無いって答えると思う。そんな人生ならいっそ、飛び降りちゃえばアキトのためにもなるのかもね」
唯は黙って、ただ莉花の言葉をやり過ごすよう努めた。そうしなければ、正気を保っていられる気がしない。卒倒しそうな眩暈の中、風に負けてしまいそうな声をふり絞る。
「やめてよ、よくないよそういうの」
「あれ、ごめん私おかしいよね。あんなメールばっか来るからさ、私まで頭おかしいのがうつっちゃったのかも。ヤバイ奴って思わないでね」
取り繕うように、莉花は大げさに笑って髪をかき上げた。唯の異変に気付いたわけではないようで、気まずそうに柵沿いに歩き、景色を探す素振りをしていた。
「絶対に忘れないで」
気を失ってでも、これだけは伝えたくて莉花を見上げた。何事かと、莉花が振り返る。
「莉花ちゃんが生きてる意味はちゃんとあるし、これから先、いいことなんかいくらでもあるよ」
莉花は面食らったように一度動きを止めた。唯の言葉を確かめるように何度か頷くと、小さく笑った。
「ありがとう。いい奴だね、唯って」
莉花に引っ張られるように頬が緩んだが、唯は拭い切れない不安を隠していた。どうか、莉花に明るい未来を信じてもらえますように。今まで読んだどの本を引用しても相応の言葉がなくて、同じようなセリフを何度も続ける。今更になって、知識だけでは補いきれない、経験というものの不足を思い知らされたのが辛かった。
四
「桜町通り、か」
恵太は聞き捨てられなかったその名前を呟く。以前、竜海から聞いた幼稚と思える噂でも登場した地名。唯本人の言葉まで重なれば、むしろ信憑性の高い情報ということになってしまった。
幽霊女がストローで弧を描くと、存在を主張するようにカラカラと氷が音を立てた。熱心に莉花の話に相槌を打っていたかと思えば、ところどころ白けたような顔で目のやり場を探す。莉花の掠れ声と、幽霊女のせわしなさ。恵太は両方が気になって時々話を見失いそうになりながらも、頭の中で情報を整理し追いついた。
莉花が話し終えても、幽霊女は感想の一つも告げる様子はない。放っておくわけにもいかず、恵太が学校で逃げられた時以来の莉花との会話を試みることになった。随分生気が無くなったようにみえる莉花に、あえて軽い調子で言葉をかける。
「今の話だと、唯が死んだこととお前が関係あるかは微妙なんじゃねえの」
恵太は口にした以上に、莉花が自分を責めるのはお門違いなのではないかという印象を受けていた。いくら自殺や嫌がらせといった陰惨な話をされたとはいえ、唯はただ聞いた側の人間だ。命を絶つという選択に繋がることなどあり得そうになかった。
「分かんないけど、これ」
目を合わさず、莉花がスマホをテーブルの上に出した。以前逃げ出した後ろめたさがあるのだろうか。恵太に対して、莉花が接し方を手探りしているように見えた。莉花の態度を煩わしく思いながら、恵太は示された物を見た。
「唯のストラップだな」
画面の上に、笑った顔のままのピエロが寝かされている。学校で恵太が莉花を追った時に見たのは、やはり唯のストラップだったのだ。
「屋上で会った次の日、唯と最後に会った時にこれを持っててほしいって言われてさ」
「ストラップを? なんでだ?」
「分かんない。理由は聞いてもただ笑ってた。意味わかんないけど、面白い子だなって思ってもらったよ。そしたら何日かして、あんなことになった」
「死んだ、か」
頷き、莉花は初めて紅茶を口に付けた。カップで半分隠れた顔の向こうで、幽霊女の顔色を窺っているのが分かる。遺族を前に、生前最後の様子を話すというのは相当な重圧なのだろう。もっとも、その遺族は偽物だが。
「自殺って聞きました。信じられなかったけど、ストラップのことが気になってよく調べてみたんです」
莉花は幽霊女の方を遠慮がちに見ながら続けた。
「ピエロのズボンに、これが入ってました」
指先で持てるぐらいの四つ折りにされた紙片が、幽霊女の前に差し出された。逃げるように莉花の手が引っ込む。幽霊女はたっぷりと時間を置いて、興味がないとでも言いたげに手を伸ばす。その仕草一つ一つが、無言で莉花を責める姉のように見えた。この二人に、出会う前にどんなやりとりがあったのだろうか。手段さえ分からない恵太には知る由もない。
「生きて」
久しぶりの幽霊女の声は、ことさら張りのない呟きだった。一言とともに、テーブルの真ん中に置かれた。『生きて』というボールペンで書かれたらしい三文字が、紙面に並んでいる。
「きっと、私が病んでることばっかり言ってたから。ごめんなさい、きっと唯が悩んで」
結論の代わりに、莉花は「ごめんなさい」と再度繰り返した。
「それで唯が悩んで死んだってのかよ。あり得ないだろそんなの」
当然と思える感想を述べたが、莉花は跳ねのけるように「ごめんなさい」と「ごめんね」を繰り返す。「ごめんね」は初め恵太に言っているのかと思ったが、次第に唯に言っているつもりなのだろうと気付いた。
「大丈夫、唯はそれぐらいで死んだりしないから」
幽霊女が静かに声をかける。幽霊女が唯のことを語るのは気に食わなかったが、同時に頼らざるを得ないとも思えた。莉花の気持ちを抑えられる人物は、他に思い浮かばない。莉花は返事こそないものの、顎先まで伝い続ける涙を拭き、呼吸を整えた様子だった。仕上げに「ごめんなさい」ともう一度だけ告げた。
「大体、ヤバイのはそのサイトの管理人ってやつだろ」
恵太が口を挟む。莉花よりも管理人とやらの陰湿さの方が遥かに腹立たしかったし、恐ろしくもあった。
「そいつ、普通に人殺しだろ。早いところ警察に突き出して」
言いかけて言葉を止めた。何事かと、莉花と幽霊女が同じように恵太へ視線を集めてくる。
人殺し。自分の言った言葉が、肌を粟立たせた。
「唯を、殺した?」
口にして、もう一度言葉を止める。馬鹿げた考えだ、ありえない。自殺だということは唯が死んですぐに耳に入ってきたことだ。
だが本当なのか? ただの一つでも、唯が自殺する理由があっただろうか?
「何言ってんの? 管理人は私を狙ってたの。唯が死んだのはさすがに関係ないって」
莉花が顔をしかめて異を唱える。
「でも、唯もあのサイトに登録してたんだろ? 管理人と関わりが無いわけじゃないってことだよな」
「そりゃそうかもだけど」
「だってそうだろ。唯には自殺する理由がないんだぞ。例えば……唯が管理人を止めようとして、そのせいで殺されたってことなら、あり得るかもしれない」
決して与太話ではないと思えた。幽霊女は背もたれに全身を預け、距離を置いたような態度のまま口を結んでいる。
「でもそれなら」
恵太が声を大きくしたところへ、莉花が控えめに口を挟んだ。
「やっぱり私のせいだ。私があんな話をしなきゃ、唯と管理人が関わることもなかった」
「そう思うなら、管理人を捕まえて聞こうぜ」
「それ、マジで言ってる?」
莉花が、なおも涙が溜まっている目で見つめてきた。恵太はその目から、微かな期待感を読み取った。
「マジだよ。その管理人ってやつが原因だろ? 警察任せなんかじゃぬるいって。メールで呼び出して、全部聞き出してから警察に突き出せば解決だろ」
想像すると痛快だった。唯を死なせた犯人を、竜海やクラスの連中で囲んで罪を認めさせるのだ。
「いい加減にして」
重い静かな声に、高揚は抑えつけられた。
「何考えてるの? 唯は自殺だって言ってるでしょ。その子が警察に相談したなら、それでその話は終わり。余計なことしないで」
幼稚な妄想と切り捨てんばかりに、幽霊女が割って入ってくる。もともと、この女が首を突っ込む必要などなかったはずなのに。理不尽な横槍に腹が立った。
「なんであんたがそんなこと言うんだよ」
「決まってるでしょ。私は姉なのよ」
幽霊女の強い意思は、周囲の客の喧噪に負けずはっきりと届いた。莉花がこちらを怪訝そうに窺っている。本物の姉ならば、当然配慮すべき相手だろう。だが、この女はただの不審人物だ。堪り兼ねて全て莉花にバラしてしまおうと決めた。
今にも声に出すその間際、幽霊女の目配せに気づいた。注意深く見ないと気付かないぐらい微かに、首を横に振っている。口元が「任せて」と動いた気がした。
「もうやめなって、自殺じゃなかったらって私だって思うけど、お姉さんに悪いよ」
声を詰まらせながら、莉花がなだめてくる。
違う、こいつがウソを言っている。言いたくても言い出せない。この幽霊女が、どうやって莉花を呼び出したのかも分からないのが不気味だった。何者なのかも含めてはっきりするまで、様子を見るべきなのか。恵太は寸でのところでそう判断した。
「莉花ちゃん、でいいかな?」
「は、はい」
突然名前で呼ばれ、目を見開いた莉花が顔を上げる。
「妹と仲良くしてくれてありがとう。それに、今日来てくれたことも。お礼を言うね」
遮るように、莉花が首を振った。
「私のせいで、唯は」
おもむろに幽霊女の手が伸びる。莉花が微かに身を強張らせたのが分かった。恐らく莉花の予想とは違い、幽霊女の手は莉花の頭を軽く撫でた。
「大丈夫。唯のメッセージを見たでしょ。それだけ考えて」
机に広げられたままの用紙が目に入る。
生きて。唯が意図してかしないでか、最後に残したメッセージ。きっと唯が、莉花に一番必要だと思った言葉だ。だがなぜ。
「ありがとうございます、私なんかのために」
莉花の絞った声は、恵太の耳にはほとんど入らなかった。
なぜ、唯が死ななくてはいけなかったのだろう。『生きて』と人に送っておいて、数日後に自分が死ぬとは。唯が自分の意思でやったとは、到底納得できなかった。
五
莉花がいなくなった席の食器を、店員に片づけてもらった。紅茶と水だけのテーブルは簡単にまっさらにされ、一息つく間もなく幽霊女と二人だけの空間になる。聞きたいことは山ほどあったが、この場を離れてしまいたいと逃げ腰になっている自分にも気づいていた。
待ち合わせの相手が来て笑顔で迎える若い女、店の外から、店内の様子を覗き見て入ろうか思案している学生。自分が今抱えている戦いは、あいつらには一生分かりっこないだろう。そう思うとたまらず、全てが疎ましくみえてくる。
友人が死んで、その理由もはっきり分からない。ようやく掴めそうな糸口は、正体も分からない女に堰き止められる。
恵太は弱気を振り払うようにかぶりを振った。なんとか自分を奮い立たせて、テーブルを指先で軽く叩く。
「よし、どういうことか説明してくれよ」
「やっと復活した?」
待ちくたびれたと言いたげに、幽霊女が身を乗り出した。常に余裕を感じるのが癪に障る。
「まず、どうやって莉花を呼び出したか教えろ」
「言ったでしょ、幽霊はいろいろできるの。あれはテレパシー」
悪びれもなく言い切った。声を荒げたくなるが、それで事が運ぶような相手ではないとも思い知らされつつある。
「真面目には答えてくれないんだな?」
「私はずっと真面目だよ。デタラメだって言うなら、あの子に聞いてみたら?」
確かに、莉花に聞いた方が早いかもしれない。連絡先を聞きそびれたのが悔やまれるが、学校にいれば会うのは時間の問題だ。
「じゃあ次。なんで唯の姉だなんて嘘ついたんだよ」
「そりゃあ、いくらテレパシーができるからって、怪しい人からじゃ来ないでしょ? 唯の姉です、妹が仲良くしていた人に話を聞きたくて。そう伝えたってわけ」
「あいつ、完全に騙されてるぞ。あのままにしとくつもりか?」
「そうね」
幽霊女は口元に手を当て、答えを探すように視線を彷徨わせた。
「ほとぼりが冷めたら、本当のことを言ってもいいんじゃない? 今言ったら、余計混乱させちゃうのは分かるでしょ。あの調子じゃね」
改めて、この女の目的はなんなのだろうという疑問が顔を出す。遺族を装うという悪質な手を使ったかと思えば、その相手を気遣うような素振り。莉花にかけた言葉もそうだった。本当の遺族がかけるような、いたわりの言葉。この女に得があるとは思えないのが、余計に不可解だった。
「それで、なんでサイトの管理人を捕まえるのがダメなんだよ。ほっといて莉花にまで何かあったらどうするんだ」
「あのね、恵太くん」
急に名前で呼ばれ、妙な緊張が走る。整った形の目で、幽霊女が顔を近づけてきた。
「唯ちゃんは、自殺したんだよ」
説き伏せるように言い、元の位置へ居直った。本当に魔法でも使われている気がして、恵太は軽く自分の頬を叩いた。そうしないと、言いくるめられてしまいそうだった。
「あんたは何も知らないだろ」
「あんたじゃなくて幽さん、ね。もしくは幽霊」
「じゃあクソ幽霊。あんたは何も知らないだろ」
クソという冠を気にすることもなく、幽霊女はイタズラっぽく笑って見せた。
「唯ちゃんは自殺だよ。私は幽霊だもの。死んだ人のことを、間違うわけないじゃない」
「なら教えろよ。唯は、なんで死んだんだ? 自殺なら、その理由はなんだよ」
恵太は自分の喉の震えに気づいた。探しても一向に見えてこない出口。どれだけその出口を渇望しているか、自分の体に教えられていた。
「それは、君が見つけるべきじゃないの」
「逃げんなよ。幽霊なんだろ」
「怖いよ、その顔」
言われて、眉間に力が集まっていることに気づく。それを緩める義理は無かった。幽霊は微かに鼻を鳴らして、初めて目線を恵太から外した。
「はー、分かった。白状するよ。唯ちゃんがなんで死んだかは分からない。でも自殺は間違いないの」
「幽霊だから分かる、か」
「そういうこと。ごめんね、悪いけどそれ以外に言いようが無いもん」
結局、振り出しに戻された。脱力感に見舞われ、返す言葉も見つからない。だらりと手をぶら下げ天井を眺めると、憤りの唸りが漏れた。
「落ち込むのは早いんじゃない? せっかく私が、きみの手伝いを続けてあげようっていうのに」
「手伝い?」
恵太は渋々首をもたげ、幽霊女を見た。
「そう。唯ちゃんが死んだ理由を知りたいんでしょ? 私はどうせ死んだ身で暇だし、もう少し付き合ってあげる」
どうやら冗談ではないようで、幽霊女は真顔でこちらの返事を待っている。
「勝手にどうぞ」
受け入れていい存在なのか、考えるのも億劫だった。
六
恵太は授業が終わるたび、用もなく廊下を歩くようになった。校内で妙な噂が立たないように、できるだけ立ち止まらずに莉花の姿を探す。いくら恵太がいる階だけで百人以上の学生がいるとはいえ、莉花がトイレにでも教室を出れば容易に会えるはず。という恵太の考えは裏切られ、捜索初日の今日は見つけられなかった。通りすがりの一瞬だが、教室内にも莉花の姿は無かったように思う。学校を休んでいるとみて間違いなかった。
莉花のことは一旦諦めて、恵太は帰ってから竜海に電話をした。唯と莉花の関係や、幽霊女のことを自分以外にも知っていて欲しかった。知って、全て投げ出してしまいそうな自分を突き動かしてほしかった。
一通り聞き終えた竜海は多くを語らなかったが、幽霊女に関しては「病んでるんじゃないか」と嫌悪感を示していた。自分と大よそ同じ感想を聞けたことに、恵太は安堵感を覚えた。
電話を切り終えてから、次にすべきことに思いを巡らせる。恵太は思い立ち、電話を切ったばかりの竜海へ向け、付き合ってほしい所があるとメッセージを送った。場所の確認もなしに了解と返事。莉花や幽霊女とのやり取りと比べると、清々しいほどのシンプルさが貴重なことに思えた。
翌日も莉花に会えないまま、放課後に竜海と合流した。そのまま校門から右手に出て壁沿いに歩き続ける。真裏まで抜けると交通量の多い、大きな道路に出るがその手前。開発が進んだ新しい道路側と対照的な、灰色のビルが並ぶ。どれも似たような作りで、手狭なベランダから所々すだれが垂れ、シャツなどの洗濯物がかけっぱなしになっていた。もう何十年も止まっている気さえする景色の中を、印刷屋の看板を目印に路地へ入る。恐らく、ここまでは莉花が話していた通りに進むことができていた。
険しい顔で空を睨む恵太の後ろを、竜海はポケットに手を突っ込み、ノシノシ音が鳴りそうな緩慢さで付いてくる。『なんだか分からないけど付き合ってやるか』と心の声が聞こえてきそうだ。
恵太は空に向かって手をかざしたが、目を凝らした甲斐はなかった。
「なあ、お前も探してくれよ」
「せめて何探してるのか教えてくれたらな」
竜海は目標物も知らないのに、恵太と同じくビルの上に向け目を細め出した。調子が良すぎて、つい雑に扱いたくなってしまう。結局、何を探しているか伝えるより先に目的の物を見つけることとなった。
「あった」
風に振られる風見鶏、を目印に目的地はもう一つ先。赤茶色のマンションの入り口が姿を現す。
「誰の家だ?」
素朴な竜海の疑問に、恵太はようやく答えることにした。
「唯がいつも、サボりに来てたところだってさ」
歩みを止めず、マンションの中に入ろうとしたところだった。想定外の物に面食らい、立ち尽くす。数字が並ぶパネルに、インターフォン。開く様子のない自動ドア。
「マジかよ、入れねえじゃん」
「唯から聞いてたんじゃないのか?」
返事の代わりに舌打ちが出た。オートロックのことどころか、マンションの存在自体唯からは知らされていないのだ。
お手上げムードの沈黙を、機械音が破った。無防備な背中側から表れた音に、恵太の心臓が跳ねる。一目で宅配便業者と分かるユニフォーム姿の男が、小包みを抱えて入って来た。帽子の脇から跳ねた茶髪が若さを連想させる。恵太たちが場所を空け渡すと、貼り付けてある伝票を見ながら、荒い手つきで番号を押し始めた。急いでいるのか、まだ出ぬ配達相手を急かすように小刻みに体を揺らしている。恵太が空になった頭のまま見つめていると、男の横目と視線がぶつかった。二度、三度と鬱陶しそうな目線が送られてきて、慌てて他所を見た。客観的に見れば、自分たちの存在が不審なのは明らかだ。恵太は一旦作戦を立て直そうと、一歩後ろへ足を引く。
「おいおい、マジでカギ無いのかよ」
竜海が不自然なまでに声を張り、恵太の注意を引いた。無表情のまま、意味ありげに目線は離さない。その意図に気づき、恵太も出しうる一番自然なセリフを意識した。
「そうなんだよ、家の中に置いて来たみたいだ。マジで最悪」
「マジかー、そりゃ最悪だな」
宅配便の男は二人が立ち尽くす理由に納得したのか、インターフォンに視線を戻した。番号ボタンの横にかけたままの手が、トントンと手持ち無沙汰を埋めるべく動いている。
何とか自分たちがいる正当性を確保したと思ったのもつかの間、コール音と空白が繰り返される。時間が経つほど、疑念が再び顔を出すのではないかと焦りが募る。無言でいることが重圧に思えた。
「くそー。弟が取ったんだな」
「あー、お前の弟すぐそういうことするよな」
苦し紛れの小芝居に、竜海の合いの手が差し伸べられた。恵太はどうにかして、架空の弟のイメージを手繰り寄せた。
「弟の部屋のエロ本、キッチンに置いておいたからきっと腹いせだなー」
我ながら漫画のような兄弟像だと思った。竜海も同じことを思ったのか、上がる口角を隠すように顔を伏せた。
「マジかー、それはやりすぎだぞ」
声が上ずっている。恵太もつられて笑いそうになってきた。ギュッと瞬きをしてにやけ顔をこらえていると、インターフォンの呼び出し音が女の声に変わった。宅配の男と短いやりとりをして、オートロックのドアが開けられる。ガッツポーズをこらえて後を追おうとしたが、男の予想外の動きに阻まれた。開いた自動ドアを一歩超えたところで、くるりと恵太たちの方を振り返ってきた。進めず戻れず、身動きが取れない。正面から対峙しただけで、浅黒い配達員に威圧感が生まれた気がした。
「君らの演技さー、棒すぎ」
気だるそうに耳を指で掻きながら、男が言い放つ。調子に乗りすぎたことの後悔と、弁明のセリフを考えなければという思いで頭がいっぱいになった。何も浮かばなくて、逃げ出したくなる。
「君らって、あの女の子の仲間?」
「えっと」
唯の顔がよぎったが、肯定していいものか分からない。
「すげーよな、高校生っしょ? そんで堂々と学校サボって酒飲んでるとか、君らかっけえよ」
「酒?」
思わず口を挟んだ。唯のことを言っているに違いないのに、その単語は見当外れとしか思えなかった。
「そう酒。酒が最強に羨ましいんだよな。こっちは仕事中なのに、あんな昼間っからほろ酔いで歩かれたらたまんないよ。やべ、考えたら飲みたくなってきた」
舌なめずりの代わりのように、男は手を口元に当てにやついた。
「つーか、入るんなら早く入れよ。お客さん待たせてるんだから」
男は親指を立て、その背後に向ける。恵太は戸惑いながらも、後ろの竜海の気配を確かめながら足早に自動ドアの境界線を越えた。男は二人の様子を振り返ることもせず、一階の廊下へと進んでいった。
エレベーターを見つけ上向きの矢印を押すと、恵太と竜海は壁にもたれずにはいられなかった。
「なんか分かんねえけど焦った」
恵太が率直な感想を漏らすと、竜海もごつい体を伸ばし、解放感を噛みしめているようだった。
「あいつ、結構やるな」
竜海が溜め込んだ息を吐き出す。
「どっちが? 唯? 宅配便?」
「どっちがって……両方だな」
「確かに」
エレベーターが降りてくる音とともに重くなった体を起こし、二人でも窮屈な箱の中に流れ込んだ。わざわざ他人に見つかる危険を冒し、オートロックのドアを突破して溜まり場にするとは。恵太は、唯の考えは常人では届かないところにあると、改めて思い知らされた気がした。
七
予想外の鉄扉の重たさに、恵太は手だけで開けることを諦め体ごともたれかかることにした。軽く手でなぞり、それほど埃が溜まっていないことを確かめると、一気に体重をかける。不意に扉は抵抗力を失くし、恵太はドアの向こうに転げ出そうになった。強い風を全身に受け、ドアの重みの正体に気づく。
「風すげえな」
恵太の後に続いた竜海が、呑気な声を上げる。恵太は真っ先に柵に向かい、学校を見下ろせる位置を見つけた。学校の半分は建物で隠れるため、少しでも広く見下ろそうと思うと必然的に場所は限られる。唯が立っていた場所に、自分も今辿り着いたに違いなかった。
「アイツ、やっぱり意味わかんねえ」
こうして足取りを追うと何か閃くかと思っていたが、甘かったと知る。分かったのはサボるための唯の異様な行動力と、屋上で酔っぱらっているという想像もしなかった目撃情報だ。自分が知っていたはずの唯の姿は全て嘘で、騙されていたのではないかと不安になってくる。
「やっぱ自殺なのかなー」
学校を見つめたまま、風の音に紛れないよう声を張る。竜海は柵には寄ってこず、辺りを見回しながら答えた。
「分からんけど、そうなんじゃないか」
もう何度繰り返しているか分からないやり取りでも、恵太には意味のあることだと信じたかった。願わくば、竜海も同じ気持ちであってほしいと思う。
「俺に言っても、どうせ分かんねえと思って黙って死んだのかな」
「そんな風に考えてもしょうがないだろ。もっと良いように考えろよ」
地面に刻まれた溝の上を歩こうとしているらしく、竜海は両手でバランスをとってから答えた。
「俺、莉花の話を聞いて自殺じゃないんじゃないかって思ったんだけどさ、やっぱり自殺な気もしてきたんだよな。学校の奴らは俺ら以外無視して、学校サボって酒飲んで、急に都市伝説みたいなバンドの話に首突っ込んで、嫌いだって言ってる観覧車に乗って、次の日に何も言わないで死ぬ。意味分かんねえけど、やりたい放題なのが唯なのかもって気がしてきた」
恵太が言い終わったところで、竜海は溝の端に着き、恵太から数歩離れた柵に手をかけた。
「お、ようやく新しい女を探しに行く決意ができたか?」
「なんでそうなるんだよ」
「疑問が解決したのかと思って。それなら次は新しい出会いに向けて進むのみだろう」
「お前、ブレないな」
柵にもたれたくなったが、ズボンにいつのまにか白い筋が付いていることに気づいた。はたくと滲むように広がって薄れる。恨めしそうにその跡を見つめ、恵太は少し柵と体に隙間を作った。
「冗談だっての。好きな女に死なれたのに、平気で次に行ける奴は男と認めないからな」
「好きだったのかもよく分かんねえけど」
「ここまで来て、好きだったと認めない奴も男とは認めない」
竜海に言い切られると、見た目だけは熱い体育会系部活のノリのようだった。恵太には苦手なむず痒さだ。さらにダメを押すように、竜海は続ける。
「葬式の時に泣いてた奴らより、恵太の方が唯のこと思ってるのは間違いないしな」
馬鹿正直な言葉。恵太はむず痒さが増すばかりの気がして吹き出しそうになった。やめてくれ、そういう空気は苦手なんだ、と言えば竜海は余計に躍起になって逆効果だろう、と想像する。
「そうかもな」
とだけ返しておいた。高く唸る風に、恵太は目を細める。
「それで、これからどうするんだよ。恵太がこの問題を解決してくれないと、俺も彼女作りづらいからな」
「作りづらいんじゃなくて、彼女できないだけだろ」
「ははは、その余裕、後悔しても知らんからな」
二人にはスタートからゴールまで分かり切った、予定調和の会話。古典のような安心感に、恵太は後押しされた気がした。よし、と背中を伸ばしてコンクリートを踏みしめる。
「桜町通りに行く」
唯の周りに浮かんでくる噂。莉花の話では、唯自身がたまに行くとも言っていたという場所。
酒とクスリ、桜町通り。恵太たち高校生にとっては、非合法のものという意味で共通点があった。桜町通りがどんなところか知らなくとも、連想される構図は誰もそう変わらない。真っ先にエロとキケンが思い浮かぶ場所。追うほどに謎を振りまいていく唯の背中が、その町で見え隠れしている。行けるところまで行くしかないと、恵太は腹を括った。
「なんか、姫を助けに行く主人公みたいだな。いいぞ恵太、ボスを倒せ、姫をさらえ」
取って付けた役のように拳を突き上げる竜海を、船出を見送る群衆の一人みたいだ、と恵太は思った。
「姫もう死んでるけどな」
とんだ自虐だと、言いながら思う。
「そんなこと言うぐらいなら、姫を助けるのかさらうのかどっちかにしろよ、ぐらいのツッコミが欲しいところだ」
意地でも湿っぽい話にさせないと言いたげに、竜海は強く胸を叩いた。叩いた手を胸に置いたまま、思い出したように「って言っても」と呟く。
「桜町通りってヤバイ感じしかしないな。実際のところ、行ってどうするつもりなんだ?」
「そりゃ、行ってから考えるんだよ。歩いてたらなんか見つかるかもしれないだろ」
一転して竜海は、顎髭でもさするかのように顔をさすって思案している。押しきるように、恵太は言葉を続けた。
「聞き込み調査とかさ、ビラ配りとか」
いくらでもあると思った案は、それ以上続かなかった。竜海の口が動くのが見え、開きかけたところを塞いでやりたくなった。恐らく竜海が言おうとしていることを、恵太自身も知っている。
「そりゃ、ノープランすぎる」
やはり予想通りの言葉だったので、塞いでやればよかったと思う。特に反論もない。
「ノープランでも、唯の情報で残ってるのってそれぐらいだろ」
「そうかもしれんが、それだけじゃダメだろ。あんなところで聞き込みなんかしてたら、いよいよ事件にでも巻き込まれそうだ」
「お前、桜町通りに行ったことあるか?」
「いや、無い」
恵太は項垂れ、視線を落とした先の地面へ吸い込まれそうな気がした。不快な浮遊感を振り払うように頭を振る。恵太自身も行ったことが無い場所だ。役立たず、と竜海と自分自身を呪う。
「仕方ないな。つーか、それしかない気はしてたんだけどさ」
「なんのことだ?」
一息分、もったいつけてから答えを告げた。
「最終手段があるんだよ。胡散臭いけど」
胡散臭い通りには、胡散臭い女で対抗しよう。そんな理屈を導き出すまでもなく、あの幽霊女のことが頭にまとわりついていた。
『私の力が必要でしょ?』そんな声が、耳元から聞こえてくる気さえする。望むところ、と恵太は幽霊の声に心の中で返した。
八
もったいぶることもなく、幽霊女はあっさり電話に出た。「なに?」と、ありふれた応答からは何の感情も読み取れない。恵太は座りなれた自分のベッドに腰かけ、力を抜いた。
「助けてくれ。あんたの力を借りたい」
目的だけ、率直に伝える。
「私年上なんだけど? 享年で二十五歳だよ? 死後はノーカウントだとしても、まあまあお姉さんなの」
「なんだよ、敬語やめろって自分で言ってただろ」
「ため口でも、『あんた』って呼ばれる筋合いはない」
悪態が口をついて出そうになったところを、恵太は眉間を抑えてこらえる。思いついた言葉「めんどくせえ」「うぜえ」は、いずれも頼み事をする側としてはさすがに不適切だと判断した。
「すんません幽霊さん、この間の約束を守ってもらいたいんだけど」
「それでよし。それで、何して欲しいの?」
取ってつけたような謝罪を、受け入れてくれたらしい。この辺の基準が、恵太にはまだ掴めない。
「桜町通りで、聞き込みをしようと思う。一緒に来て欲しいんだよ」
「桜町通り? あんなところに何かあるの?」
「莉花の話に出てきただろ。それに、唯をあそこで見たって奴がいるんだよ。なぜか知らないけどフラフラだったらしい」
恵太の予想通り、桜町通りと聞いて幽霊女は戸惑っている様子だった。受話器の向こう側から、「桜町通りねえ」と、呟きが聞こえる。
「うん、いいよ」
間をとった割に、調子の軽い声。
「いつ行くの?」
恵太が切り出すより早く、具体的な内容の段に話を進められた。好都合とばかりに恵太はあぐらをかき、そそくさと作戦を持ち出す。
「今度の日曜日で考えてる。予定は大丈夫か?」
「幽霊に予定なんかないよ。大丈夫」
どうあっても幽霊として話を通したいらしい。恵太は約束を取り付けられたことに満足し、それ以上触れないことにした。
「でも、なんで日曜日? 明日じゃダメなの?」
「明日学校だぞ。俺は死人じゃねえんだよ」
「なおさら明日の方がいいんじゃない? 明日金曜日でしょ? 夜遅くなるなら、次の日休みの方がいいと思うけど」
夜遅くなる? 幽霊女の言葉を、反芻してみる。根本的な食い違いの可能性に気付いた。
「まさか、夜に行こうとしてるのか?」
「当たり前でしょ? え、昼に行くの?」
「俺は昼だと思ってた」
「唯ちゃんって昼にいたの?」
「いや、夜だって聞いた」
「じゃあ、夜に行かなきゃ意味ないんじゃない? 昼と夜じゃ、全然違う街になるんだから」
幽霊女の意見はもっともか、と頭を掻くと同時に予感めいた不安がちらついた。
「夜って、大丈夫なのか? あの辺って結構ヤバイって有名だぞ」
何度か耳にした覚えのある、桜町通りの話が朧気に浮かぶ。声をかけられて付いていったら身ぐるみを剥がされたとか、バイトしていた先輩が外国に売られたとか、ドラッグをやっていないと入れないクラブがあるとか。大抵の高校生は、好奇心よりも慎重さが勝つ場所だ。
「さあ、もしかしたらヤバイかもね」
幽霊女の声は、なぜか笑いを噛み殺したように上ずって響いた。罠にはまる様を見て楽しむように、ニヤリと鳴った気がしたのが不気味だった。
「行ったことあるのか?」
「まあね。私に任せてたらいいよ。それで、明日の夜でいいの?」
「ああ」
恵太は迷った素振りが見えないよう答えた。唯の情報が見つかるかもしれない方法を避けるのは、逃げのような気がした。心の中では、未知の領域に対する不安が拭えていない。幽霊女に危機感が無い様子なのも、嫌な予感に拍車をかけていた。
九
ゲームセンターから外へ出て、洪水のような音のぶつかり合いを足早に遠ざけた。夕暮れも省略して暗くなっている大通りが、恵太の頭を惑わせる。過剰な光と音から解放された先は、予想していたより随分早く夜の街へと顔を変えていた。通りを進み、約束の大型ドラッグストアの前に立つ。あと一分ほどで約束の時間だろう。辺りを見回すと、近づいてくる黒髪の女を労せずして見つけた。人混みの中から現れると、大抵の女より頭ひとつ高いことに気付く。
「ん、ちゃんと制服は着替えて来たのね。あとは髭でも生やしてみる?」
「そんな簡単に生えねえよ」
幽霊女が当然のように顎を触ろうとしてくる。顔だけ避けて、目的地の方へ目線を向けた。
「行こう」
「やる気あるじゃん。結構怖がってたくせに」
「怖えよ。つか、怖くないのかよ」
「怖いわけないじゃん。もう死んでるのに、何を怖がるの?」
その理屈だと、確かに怖くはないのだろうが。こちらは幽霊という設定ではないことを察してもらいたい、と恵太は肩をすくめる。
見慣れた繁華街のエリアは、残すところ目前の通り一本分となっていた。歩行者天国の左右両側に、判で押したようなチェーンの飲食店や居酒屋、服屋、雑貨屋が続く。気まぐれに行先を変え、店に吸い込まれていく人にぶつかりそうになる。幽霊女との慣れない二人歩き。煩わしさに顔をしかめる恵太を尻目に、幽霊女は歩みを乱されることなく進む。幽霊だから周りと干渉しないのだろうか、と考えている自分に気づき苦笑した。
最後の通りの終わりが見えてくる。そこから先は、遠目に見ても明かりのない路地だった。シャッターが下りた建物や、誰が住んでいるのか想像しづらい一軒家。端までの距離に比例するように人が減り、同じ方向に進む影が不気味に見えるほどになっていた。若い男と女が、それぞれスーツ姿で距離を空けて歩いている。路地の端はすぐに大きな車道に面していて、目の前を車が走り抜けていく。一見十字路になっている大通りの斜め向かいに、五本目の道が細々と伸びていた。信号が変わって車道の向こう側へと進むと、恵太達以外にいた二人の姿はどこかへ消えていた。
「さあ、恵太くんには未知の領域だね」
からかうように幽霊女が笑う。この余裕の根拠が、恵太には想像できない。唯も幽霊女も、女は分からない奴だらけだ、と頭を抱えたくなった。
幽霊女が躊躇わず進むので、恵太も負けじと先を歩こうとした。ここから桜町通り、という看板でもあれば心の準備のしようもあったが、どうやらそんなものは無いらしかった。暗闇の雑居ビルから張り出すスナックの看板が増えてきて、すでに桜町通りに踏み込んでいると知る。あまり繁華街の路地裏と変わらない光景に、恵太は肩の力が抜けるのを感じた。
「さて、どこで聞き込みをするかだけど、やっぱりもっと人がいる方かな」
幽霊女は恵太の意見を待たず、どんどんと奥へ進んで行った。前を歩こうと思っていたが、いつの間にか幽霊女に行く先を委ねる形になる。呼び込みの男と目があったが、高校生だと気づかれたのか他の通行人へ声をかけていった。幽霊女は迷うことなく方向を決め、何個目かの角を左へ折れる。視界が未開の道路と向き合った瞬間、恵太の足は無意識に止まった。
「ちょっと、止まらないでよ」
「あ、ああ」
振り向く幽霊女に、なんとか返事をした。どこを向いても眩むような電飾が飛び込んできて、必ず一緒にいかがわしい単語が並んでいる。まともに見ることができたのは『無料案内所』という一際大きな文字だけだったが、健全な場所ではないだろうことはすぐに察しがついた。
「お兄さん、おっぱいどう?」
競り市ばりに威勢のいい声に目を向けると、黒染めしたニワトリのような頭の男が笑っていた。
「いや、いいです、大丈夫です」
「いいってことは、いっちゃうってこと? よし、じゃあちょっとこっち行こうか」
「いや違うって、行かないっての」
聞こえていないのではないかと思うほど、男はお構いなしに恵太の腕を引いた。店先の方向に連れて行こうとしていると分かり、ようやく危機感が湧いてきた。血の気が引く中、首根っこを捕まれ軽い痛みとともに動きが止まる。
「ちょっと」
幽霊女が恵太の服の襟元を掴み、男を見据えていた。
「私の客なんだけど」
男と幽霊女がぶつけ合う視線を、かいくぐる様に恵太は首を引っ込めた。それがするべき行動なのかは分からない。男は値踏みするように、幽霊女の下から上へと視線をなぞらせる。
「マジかよ、ごめんね。早く言ってよ」
とる態度を決めたのか、スイッチを押したように男は笑顔を作り直し、恵太から手を離した。軽くなった分、幽霊女の方へよろけそうになる。
「ほら、行くよ」
首を掴んでいる手から、幽霊女の握る力が伝わってくる。再度力が込められたかと思うと、男から引き剥がすように歩き始めた。
「なあ、こういう所で働いてた人?」
「そんなわけないでしょ。一回言ってみたかっただけ」
「言ってみたかったって、『私の客』ってやつを?」
「ふふん、ちょっとカッコよかったでしょ。ほら、この辺で止まってるとめんどくさいから、さっさと行くよ」
幽霊女は一瞬だけ勝ち誇ったように笑みを浮かべると、宣言通り速足になった。首根っこを掴んで女が男を引きずっている。異様な光景のはずなのに、お構いなしに何度も呼び込みに声をかけられた。周りを見れば、外国人が若い女を担いでいたりカップルが地面に寝そべっていたりで、自分たちの異様さはこの場では些細なものなのだと気づかされた。
「いい? 声をかけられたら無視するのよ。相手してたらどんどん図に乗るから」
「分かったから、手を離せって」
幽霊女はさっそく手を離し、前を見据えた。変わらずかかる声に、目もくれないで突き進む。恵太もそれに倣って、後を追った。呼び込みにも的確に声をかけられる幽霊などいてたまるか、と妙な自信を得ていた。
「これ、どこに向かってるんだ?」
周りの音に消えないよう、前を行く幽霊女へ声を張る。
「もう少し先まで」
幽霊女は一瞬だけ振り返ると、また足を進める。これ以上奥へ行くといよいよ後戻りできなくなるのではないかと、沸き立つ不安が恵太を包んだ。学校で聞いた桜町通りの情報が、頭の中で飛び交う。幽霊女は怖がっていないが、外国に売られたという話さえあるというのに。
もしヤバイことに巻き込まれそうになったら逃げて警察を呼ぼう、そう思ってスマホを確認する。電池の残量を示すゲージが赤くなり、残り十五パーセントと表示されていた。途端に心細くなって、幽霊女を呼び止める。
「ちょっと待ってくれ」
不思議そうに眉を上げて、幽霊女が振り向いた。
「なあ、まだ奥に行くのか? そろそろ場所決めようぜ」
幽霊女はようやく止まり、相変わらず余裕のある笑みを見せた。
「そうね、呼び込みがいるところは抜けたし、作戦を練ろうか」
幽霊女の言葉で、恵太は初めて群がるほどいた呼び込みの連中がいなくなっていることに気付いた。いかがわしい店も飛び石で残っているが、チェーン店など安全地帯と呼べる場所も増えている。恵太は見知った飲食店の暖色に、これまでにない頼もしさを覚えた。
「どこか、唯ちゃんが関係ありそうな店あった?」
「なんだよそれ、分かんねえよ」
「あれ、探してって言ってなかったっけ?」
幽霊女が、彫りの深い目を丸くさせた。
「え、もしかして探すためにここまで来たのか?」
嫌な予感。否定してくれる期待を込めて、恵太は聞き直した。
「そうだよ。だって闇雲に聞き込むの、無理があるでしょ」
「せめて先に言ってくれよ」
異様な光景と緊張感に晒され続けた疲労もあって、恵太は崩れ落ちそうになる。よろけたところで、足元で寝ている中年を見つけ踏ん張った。顔の横に吐いたものが流れ出ているのが目に入り、数歩離れる。
「じゃあ、何も分かんないなら私が決めていいよね?」
「なんかアテがあんのかよ」
重たい自分の体を、引きずるように起こし顔を上げた。
「大体ね。それじゃ、行こうか」
幽霊女は進みかけていた方向へさらに歩いていく。アテがあるはずもないと踏んでいた恵太は、口を半開きにしたまま追従する他なかった。
迷うことなく、アルファベットを綴るネオンの前で幽霊女は止まった。青く筆記体で記されているのが店名だろう。恵太は筆記体を思い出すのが億劫で、店名を読むのを諦めた。いかがわしい店ではないらしい、ということ以外恵太には中の想像がつかない店構えだった。
「なんでここなんだ?」
「幽霊の直感」
続けての質問も制止も許さず、幽霊女はドアを開けてしまった。奥まで暗闇が続いているように見えたが、店内に踏み入れると見渡すのに苦労しない程度の明るさが保たれている。奥にテーブルの席も見えたが、幽霊女は迷わずカウンターを選んだ。
二人が座るとカウンターの奥から「よいしょ」と女の渋い声がした。いかにも、重い腰を上げて来ましたと言わんばかりだ。てっきりバーテンダーが出てくるものだと思っていた恵太には、予想外の展開だった。
五十代か、もしかしたら六十代だろうか。大きな赤い石が胸元で光っているが、他の装飾は化粧も含めて控えめに見えた。それでも、形の良い鼻筋とぱっちりとした目元は若いころモテただろうと感じさせる。髪は茶色に染めているが、さすがにややボリュームが寂しく見えた。動きの緩慢さといい、本当は想像のさらに上の年代なんだろうか、と恵太は想像した。
「飲み物これね」
白い手が伸びて、メニュー表が恵太達の前に差し出される。ようやく営業モードに入ってきたのか、ニコリとファンデーションの匂いがする笑顔が添えられた。メニューを受け取った幽霊女は難しそうな顔で、一つ一つを指でなぞっている。
「恵太は何にする?」
いつの間にか呼び捨てになっていることには触れず、恵太はオレンジジュースをと頼んだ。
「ママさん、オレンジジュースとスクリュードライバーをお願い」
「はいよ。ちょっと待っててね」
慣れた手つきでシェイカーを振る姿に、恵太と幽霊女は思わず見とれた。外見と動きの差に、期待を感じて目が離せなくなっている。カクテルが注がれる様は淀みがなく、アンドロイドを見ているような気分だった。二人の口から、揃って感嘆の声が漏れる。
「そんなにババアの作る酒が珍しい? はい、おにいちゃんはジュース」
細長いグラスに注がれたオレンジジュースは、店内の淡い照明を反射している。華奢なガラスが容易く壊れてしまうように思えて、恵太は指先だけで受け取った。
「あの、ママさん。ここに高校生の女の子が来ませんでしたか? それか、近くの店でそういう話を聞いたとか」
幽霊女がカウンターから背を向けようとする『ママさん』を呼び止める。ママさんという呼び名も、妙に高く座りにくい椅子も新鮮で、恵太はちょっとした冒険気分になっていた。
「高校生? 来るような所に見えんでしょう。おにいちゃんも、イケメンじゃなきゃ追い返してたわよ」
恵太の方を見て、陽気に手を仰ぐ。改めて、高校生がいるべき街ではないと警鐘を鳴らされている気がする。強面の男につまみ出されるような展開にならなかっただけ、運が良かったのかもしれないと思った。途端に湧いた居心地の悪さをこらえて、恵太は食い下がる。
「黒い髪に、眼鏡をかけてたはずです。それで、多分一人……だったんじゃないかと思います」
一人だったと言い切りかけて、恵太は語気を弱めた。桜町通りで見たという奴の話が本当だとして、その時一人だとしても、直前に誰かと別れた可能性だって十分ある。というより、恵太が直前まで見ていた通りは、唯が一人で歩いて来られる所とは思えなかった。
「なに、家出でもしたのかいそのコは」
ママさんの目が丸くなる。いえ、と恵太は小さく否定した。
「悪いけど、うちには来てないよ。さすがにそんなコが来たら、ババアでも覚えてるわ」
笑い飛ばそうとして思いとどまったのか、複雑そうな笑みを浮かべて二人を見比べてきた。幽霊女が同じような顔で「そうですね」と薄く笑う。
「おにいちゃん、ご飯食べたの?」
「いや、まだです」
「裏メニュー作ってあげようか。美味しいものでよけりゃ、簡単に作れるから。待っててな?」
提案というより、もう決定事項のようだった。ちょうど空腹感もあって、恵太には拒否する理由も元気もない。ただ財布の中身は、少し使えば電車賃も危うい。幽霊女にだけ聞こえるよう、「金ない」と囁いた。
「そんなの気にするな若者」
間髪入れず答えた幽霊女は、なぜかやたらと逞しくみえた。幽霊女は裏メニューとやらの他に、ナッツの盛り合わせとピザを注文する。ドリンクと合わせるとすでにファミレスでデザートまで満喫できる金額になっていて、恵太はますますこの場に自分が溶け合わない気がした。
「さすがに外しちゃったか」
ママさんがカウンターの奥へと消えていったところで、幽霊女がこぼした。
「マジで直感だったのか?」
「うーん、根拠ゼロってわけでもなかったんだけどね」
恵太のジュースと同じオレンジ色だが、カクテルとなると飲み方も変わるのだろうか。幽霊女は唇を濡らすように静かに口を付けた。
「まあ、これもいい機会じゃない」
「いい機会?」
「そう。私たち、お互いのことあんまり知らないでしょ? 私は唯ちゃんのこともちゃんと知らないし。こうして喋って情報交換すれば、いいアイディアも浮かぶかもよ」
得意げにグラスを傾ける幽霊女を見て、恵太はここに辿り着くまでの疲労感が一気に押し寄せてきた気がした。
「情報交換って言っても、幽霊はなんも知らないんだろ」
「お、やっと幽霊って呼んだね」
恵太の言葉の変化に目ざとく反応する。恵太としては、呼び名での不毛な争いに辟易しているだけだった。幽霊の言葉には応えず続けた。
「こんなヤバイ所までわざわざ来てるんだぞ。何か新しいこと見つけたいんだよ」
「ヤバイところ?」
幽霊はなぜか、吹き出すのをこらえるように口を片手で覆った。
「ヤバイところだろ? ヤクザがいたり、海外に売られたり、薬漬けにされたり」
「そんなわけないでしょ」
カクテルを一気に流し込み、幽霊は愛おしいものを見るように目を細めた。
「意外と可愛いこと言うのね、今時の高校生って。ドラッグだなんて、どこの世界の話をしてるの」
「どこって、桜町通りのことは学校でも有名だぞ」
「ねえ、今通って来たところにそんな危ない場所があるように見えた?」
「いや、呼び込みがうるさい意外は別に」
来た道を思い返す。確かに、ヤクザらしい姿も闇に溶けるようなクラブもなく、せいぜい酔っ払いが謳歌している程度の街並みだった。
「でも、まだこの先があるだろ?」
幽霊は今度は手で覆わず、高らかに声を出して笑った。
「残念だったね、桜町通りはここで終わり。今見て来たので全部よ」
「え? 嘘だろ?」
「嘘じゃないよ。だったら外見てもう少し先に進んでみたら?」
狼狽えて聞くその案は、妙案に思えて恵太は席から離れようとした。すぐに腕を掴まれ幽霊が顔を寄せてくる。
「ちょっと、本気で見に行く気? 帰りに見てみればいいでしょ」
それもそうだ、と心の中で納得し腰を下ろし直す。
「こんなとこ、ただの飲み屋街だよ。それか、風俗街」
風俗街と聞いて、できるだけ見ないようにしていた看板の文字が頭に浮かぶ。どれも方向性の違いはあれ、等しくいかがわしい。そこを変人とは言え若い女と一緒に通り抜けて来た意味を思うと、冷たい汗が噴き出てくる気がしてオレンジジュースでごかました。
「はい、お待たせ」
ママさんの声とともに、二人の前に注文していた品物が並べられていく。
「ごめんね、忘れてた」
と茶目っ気たっぷりに首を傾げ、ナッツも一緒に出された。幽霊がカクテルのお代わりを告げ、ママさんはまた引っ込んでいった。
「自由なお店だよね。嫌いじゃないけど」
恵太の前に、幽霊が茶碗を差し出した。目玉焼きと豚の角煮がご飯の上に乗っていて、どうやらこれが裏メニューらしい。途端に空腹感を思い出して、恵太は遠慮なく頂くことにした。
「しっかり食べなよ。まだまだ夜は長いんだからさ」
横目で声の主を見やると、ほんのり桜色の頬をしていた。
黒髪の隙間から覗く桜色を見つめていると、幽霊が髪をかき上げ指を耳になぞらせる。その仕草を見ている間、恵太の思考は完全に止まっていた。
十
店内に時計が無いことがもどかしかった。もう、どれほど時間が経ったのか分からない。帰りの電車の心配はまだ必要ないだろうが、もっと差し迫った問題があった。気力の限界が来つつある。何杯目か分からない酒が、この瞬間にも幽霊の喉を通り過ぎていく。恵太は横目でその姿を確認しながら、ごくさりげなくスマホに手を伸ばした。
「はい、時間を見ようとしない」
一体どこに目がついているのか、何度挑戦しても幽霊に見破られては一喝される。腕時計を着けて来なかったことが、心底悔やまれた。
「ねえ、唯ちゃんのこと好きだったの?」
この質問も何度目か分からない。無間地獄のような時間は、大よそ幽霊が質問をしてそれに恵太が答えることで成り立っていた。幽霊は情報交換と言っていたが、情報は一方通行にひたすら恵太から幽霊へと流された。始めこそ幽霊の艶やかさに微妙な緊張感もあったが、今では憎たらしい顔にさえ見えてくる。美人は三日で飽きるとはこういうことか、と恵太は投げやりな感想を思い浮かべた。
「だから、好きとかじゃないと思うんだって。多分」
繰り返される質問への答えは、終始これだった。
「多分って何よ。好きか嫌いかって聞いてんでしょ。じゃあ、唯ちゃんは恵太のことどう思ってたの?」
「それは、分かんねえけど。ただの暇つぶし相手だろ」
唯が考えていたことは、今も何一つ理解できる気がしていない。幽霊はつまらなさそうにそっぽを向いた。
恵太の回答に対する幽霊のコメントは、段々と変化してきていた。始めは控えめだったが、今や馴れ馴れしくさえある。酔いが回ってきてのことなのだろうが、生まれて初めて接する酔っ払いとの一対一は、恵太には精神修養か何かに思えてくる。
ママさんに助けを求めようとその姿を探すが、後から入って来た客の相手に追われているようだった。
「もう、煮え切らないな。分かった、じゃあここからは私の話を聞きなさい」
返事はしなかったが、幽霊は待つ様子もなかった。
「キミには前から言いたいことが山ほどあったの」
荒い波が引くように、一転して幽霊は声を落とした。時計ばかりが気になりながらも、調子を変えられると自然と耳がそちらへ向いた。
「大事な友達が死んで悲しいのは分かるんだけどさあ。ちょっと今のキミは情けないんじゃない?」
「なんだよ情けないって」
「いい? 唯ちゃんは死んじゃったけどキミは生きてるんだよ? 唯ちゃんができなかったことを、まだまだできるってことでしょ。それなのに、ちょっと唯ちゃんのこと羨ましいって思ってるでしょ」
「羨ましい?」
意味が分からず、そのまま言葉を返すしかできなかった。酔いのせいでデタラメを言っているのかと疑う。
「そう。こんなつまらない世界から死んでいなくなって、羨ましいって思ってる」
「なんだよそれ、勝手なこと言うなよ」
「じゃあ聞くけど、唯ちゃんが死んでから一度でも、死にたいって思ったことない?」
幽霊の口ぶりは、全てお見通しとでも言いたげな決めつけに満ちていた。強い眼差しに、本当は覚えがあった感情と向き合わされる。確かに、何度か口にしたことがある『死にたい』という感情。
「どう? あったでしょ?」
「あったけど」
声を絞り出して、息を吸い込む。言い返したい言葉が次々に浮かんで、どれからぶつけていいか迷うほどだった。恵太は噴出すような熱を感じた。声に乗せて、一気にぶつける。
「そんなのあんたに関係ないだろ。なんでいきなり説教なんだよ。それに、いつまでも死にたい死にたい言ってるわけじゃねえよ」
吐き捨て、視線を逸らすように正面を向き直った。ママさんが心配そうに見つめてきていることに気づき、慌てて目を伏せた。
「私がなんでキミに付きまとうのか教えてあげる」
恵太の熱は吸い込まれてしまったかのように、幽霊は涼しいままの目で言った。
「ムカついたからよ」
心臓を掴まれたような感覚。急に顔を出した敵意。黙っていたら握りつぶされてしまいそうだった。なんであんたにムカつかれなきゃいけない、と咄嗟に返そうとしたが脳裏には全く違う理屈がよぎった。この理不尽さを説明できる、ただ一つの答え。
「死んでるから、か?」
まさか、と恵太は思ったが幽霊は淀みなく頷いた。
「そういうこと。死んでしまった私からすれば、死にたいなんて言ってる奴は全員ムカつくの。それがたとえ、大切な人を亡くした後でもね」
恵太は幽霊が死んでいること自体、ありえないと否定してしまいたかった。何度か開きかけた口はうまく動いてくれない。もし本当に幽霊が死人だったら? 確かに恵太のことは腹が立つのかもしれない。そもそも、幽霊がしてきたことは未だに説明がつかない。莉花を呼び出した方法も、こうしている動機も謎のままだ。
「この際、私が本当に幽霊かはもうどうでもいいよ」
恵太の逡巡に、幽霊の声が割り込んでくる。あれだけ死人だと主張してきたのに、今度はあっさりと矛先を下した。何を信じていいか分からず、恵太は耳を塞いでしまいたくなる。
「ただ、唯ちゃんの気持ちになって考えて」
唯の気持ち。停止しそうな思考の中で、辛うじて耳に残ったその言葉を、ただ頭の中で繰り返した。
「別に、何も答えが分からなくたっていいじゃない。唯ちゃんが死ぬ前の日にも会ってるんでしょ? そんなの大切な人だって思ってたからに決まってるじゃん。唯ちゃんを信じてあげてよ」
唯を信じる? 自分は唯を疑っているのだろうか。だとしたら何を疑うというのだろう。頭がぐらつき、考え続けるのが難しくなる。
「キミに今必要なのは、唯ちゃんの死を追うことじゃないでしょ。自分の生きる道をしっかり見つけることだって。唯ちゃんが生きてたら、きっとそう言うでしょ?」
打ち付けるような強烈な違和感。それが恵太に正気を取り戻させる。
「でももし、自殺じゃなかったら」
「だから、唯ちゃんは自殺したんだって!」
幽霊は突き放すように苛立ちの声を上げた。速く重い、地響きのような鼓動。自分の胸から起こり、恵太に違和感の正体を決定付けさせた。莉花と話していた時もそうだ。唯の自殺を疑うと、この女が邪魔をしてくる。目的はなんだ。この女は何かを、隠しているのではないか。
幽霊は声を荒げたことを後悔したように頭を抱えている。つい先ほどまでなら、調子に乗りすぎた酔っ払いの仕草といったところだろうか。今の恵太には、見過ごしていいものか分からなかった。
「あのコ、死んじゃったの?」
予想外の方向からの声に、思わず声を上げそうになった。幽霊も反応して、のそりと顔を上げる。二人の正面に、眉毛をハの字にしたママさんがいた。
「嘘だと思ってたんだけど、本当に死んじゃったのね」
「唯のこと知ってるんですか?」
恵太は目を見開き、ママさんの一言一句聞き逃すまいと身を乗り出した。
「おにいちゃんは、あのコのお友達でしょ? 恵太って、よく話に聞いてたわ」
「はい、そうです」
恵太が答える。幽霊は気まずそうに押し黙り、この店に来た時とは二人の様子は真反対になっていた。ママさんは短く唸った後、カウンターに手を付いて顔を寄せて来た。
「お客さんのことは本当は言わないんだけどね。亡くなっちゃったのなら、お友達に聞いてもらった方がいいと思うから」
「ママー、水割りちょうだい」
「あんたは飲みすぎだから、もうおしまい」
テーブル席の中年男は注文を跳ね除けられたというのに、怒る様子もなく同席者の方へ向き直った。得意げに胸を張ったママさんは、唯が来た時のことを話し始めた。
十一
お酒を振る舞ってもらえるかどうか、それが問題だ。ハムレットの一節になぞらえて、唯は直面している課題を整理した。整理といっても、その一節が全てだった。どうすれば、桜町通りでお酒が飲めるか。いくつか代案を立てたものの、やはり最初の計画を進めることにした。もう四回目になる、ディミアンへのトライだ。他の案と言えばどれも、結局桜町通りの中で別の店を探すことになる。この通りにも慣れてきたとはいえ、今更知らない場所を歩くのは避けたかった。それに、あのママさんほど寛容に受け入れてもらえるお店などそうそう無いことも予想できた。
桜町通りに入り、容易くディミアンの前に立つ。ブルーのネオンで書かれた店名が、今日も薄明かりを作っていた。四月になってもまだ春らしさはなく、夜はコートが恋しいような肌寒さ。唯は躊躇なく、暖でもとりに来たかのようにドアに駆け寄った。初めて来た時は店の前で何度も右往左往したっけ、と軽く懐かしさを覚える。ママさんに見つけてもらいやすいようわざとゆっくり階段を下りると、カウンターから旅館の出迎えのような笑顔が向けられた。
「あらいらっしゃい。そこにどうぞ」
ママさんが手招きしたのは、いつも唯が座る馴染みになっていた席だった。L字のカウンターは、六席ほどある長辺の部分に大半のお客さんを迎え入れる。入ってすぐの短辺側には、二席しか用意されていない。これまで見る限り、ディミアンに来るお客さんのほとんどは六席のカウンターに陣取るようだった。奥のテーブル席は、一度四人組が座っているのを見たきりだ。
唯は手招きの方へ吸い込まれるように進み出て、すぐに二の足を踏んだ。招かれた席には恰幅のいい作業着姿の中年二人がいて、一斉に目が合ったからだ。ママさんは埃をハタキで払うような勢いで、有無を言わさず二人に移動するよう促した。唯が申し訳ない気持ちで会釈すると、スーツの二人組は豪快に笑い声をあげる。ご機嫌そうにグラスを持って、長辺側のカウンター席へと移っていった。重そうに上げられた腰で、三席先で降り立つなりグラスの酒を飲み直している。
「まったく、デカいのが二人も狭いところにいたんじゃ暑苦しいでしょうに」
「そりゃないよママ、俺の努力を認めてよ。自粛をちゃんと実行したんだから」
「自粛、ですか?」
好奇心に負けて、唯は茶色い作業服姿の男の方へ首を伸ばした。場に合わないと疎まれたとしても、気になったことをやり過ごす方が嫌だった。
「そうだよお嬢ちゃん。この前ここでオッサンと揉めてママに迷惑かけたからさ。隅っこで大人しくしてたんだよ」
「くだらないこと気にしなくていいの。酔った時の喧嘩なんてどっちもどっちなんだから。ねえ?」
ママさんに促されるがままに、唯は曖昧に笑って頷いた。
「ご注文は? お嬢ちゃん」
ママさんは冗談めかして、初めての呼び名で呼んできた。
「オレンジジュースを」
「あら、お酒はやめたの?」
分かりやすくママさんの口がすぼまる。意外そうに口元だけで「そうなのね」と口ずさんでいるのが分かった。
「さすがママさん、こんないたいけなコまで酒飲みに育てたの」
カウンター自粛中オジサンの手前の、もう一人の作業着の男が称賛するようにビールジョッキを掲げた。
「なにを馬鹿なことを。未成年に酒を出すほどボケちゃいないよ」
「へ? でも今そんな話だったでしょ」
手前側の男が、気の抜けた声を上げる。説明するべきか迷っていると、ママさんが「飲みすぎでおかしくなってるんじゃないの」と言いオレンジジュースを渡してくれた。自粛中オジサンが「そうだそうだ」と手を叩く。本当は飲みすぎは自粛中オジサンの方だろうな、と思いながらも唯はただ笑っておくことにした。
中年二人がママさんと盛り上がり始めたところで、唯はオレンジジュースを見つめゆっくりと口にした。グラスから離した口が緩んで、にやけ顔になるのを抑えられない。自分のしていることの可笑しさと、わずかでも目的に近づけているのかもしれないという達成感。自分が追い求める、母の見ていた世界とはこんな視界、匂い、味、会話だっただろうか。きっと違うな、と自嘲気味な吐息と笑みが出る。何度思い返しても変わらない、母の最期が唯の頭をよぎった。
母ほど身勝手な死に方を、唯は他に知らない。中学二年の時の冬休み、クリスマスも年の瀬もあまり関係のない家で、母が作ってくれたシチューを一人で食べたことを覚えている。必要以上に広い自分の部屋のベッドで寝ていると、玄関の開く音に起こされた。まだ寝入りに近い感覚に、午前一時か二時あたりだろうかと考えていた。何度か枕の上で居所を探し、ただ一つ聞こえる物音に聞き耳を立てる。以前、酔って帰った母が玄関先で打ち上げられた魚のようにのびていることがあった。唯は目を開けるかどうかの基準をそこに設定した。玄関を過ぎる足音がすれば、リビングにはソファーがある。そこで寝てもらえれば、風邪を引くこともないだろうと。
あの時起きていれば結果は違ったかもしれない、という後悔は無意味だと分かるまでに一年以上かかった。
次の日の朝、唯は母だったものと対面することになる。唯の想像通りソファーの上で毛布にくるまっていた姿は、酔って寝ているようにしか見えなかった。真っ先に父の出張先に電話をしたのは、もう手遅れだと気付いていたからだろう。父に言われてようやく救急車を呼んだらしいが、そのあたりはよく覚えていない。
唯は小さく咳をして、自分の居場所を確かめた。きちんと、ディミアンのカウンターに座った自分は存在している。母を思い出すと決まって起こる感覚。自分があることを確かめていないと、この世から消えてなくなってしまったのではないかという錯覚に陥る。
気付けば店内は、唯からみて反対のカウンターの端に男が一人いるだけになっていた。唯はママさんが出してくれるお任せ料理を食べ終え、頃合いを計る。ちょうどママさんが唯の方を気にしてくれたので、思い切って声をかけた。
「ママさん、お酒やっぱりダメかな?」
「ほら、やっぱり諦めたわけじゃなかったのねえ。ダメっていつも言ってるでしょ」
ママさんは立ったまま煙草をくゆらせ、細長い煙を吐いた。その目の優しさが、唯の後ろめたさを倍増させる。
「でも、どうしてもお母さんの気持ちが知りたくて」
前回訪れた時、唯は苦肉の策として正直に自分がお酒にこだわる理由をママさんに話した。死んだ母が見た世界を、自分も体験したい。いつか父にも同じことを話した。初めはとりあってくれなかったが、あまりにしつこかったからだろう。とうとう願いを聞き入れてくれ、ついには母の仕事場だった会社がある街に引っ越しまでしてくれた。
「もうあと三年か四年でしょ? それまで待った方がお母さんも喜ぶわ」
もっともな話だった。その常識的な意見を覆すために、最後の手段に出ることにする。
「私、もうすぐ死ぬんです」
「どういうこと?」
疑い半分、気掛かり半分といった様子で、ママさんが眉を上げる。後戻りするわけにもいかず、言葉を続けた。
「病気で余命半年って言われてて。だから二十歳になるまで待てないんです」
我ながら卑怯な嘘だ、と唯は思った。ママさんは一歩も動かなかったが、じっと見つめられると逃げ出してしまいたくなる圧力がある。それが彼女の経験に基づく洞察力ゆえなのか、勝手に自分が後ろめたさを感じているからなのか、唯には分からなかった。
「そう」
短く言い、煙草を灰皿に押し付ける。
「しょうがないコね。何が飲みたいの」
「いいの?」
唯は自分の声が上ずるのが分かった。
「もうババアは疲れたわ。ただし、今日だけね」
「ありがとう。ごめんなさい、無理を言って」
桜町通りのバーでお酒を飲む。それが母の楽しみだったと、教えてくれたのは父だった。母の真似事に必死な自分に、そんなことを教えればどういう行動に出るかは父も承知の上だっただろう。それでも教えたのはきっと、娘が壊れるのを防ぐためだ。
唯は目を閉じ、もう一度開いたのを合図に物思いをやめた。ママさんが許してくれたこの機会を楽しもうと決める。父から聞いた、母が好きだというお酒の名前の記憶を手繰り寄せる。いくつか浮かぶ横文字からどれがいいか、ママさんに注文を相談してみることにした。
十二
常連らしい客に呼ばれ、離れていくママさんの背中を恵太は声もなく見送るしかなかった。唯のことが一つ分かったのに、また分からなくなったことの方が多い気がする。
「唯ちゃん、やっぱり来てたんだね」
幽霊が半ば独り言のように言う。ママさんの話の前に声を荒げたことを、無かったことにしようという意図に感じられて引っ掛かった。咄嗟に反発する。
「それより、さっきの話が途中だろ。なんで唯が自殺だって言い切れるんだよ。マジで、一体何者なんだ?」
「しがないお役所勤め。いや、元お役所勤めか」
幽霊は憂鬱そうに肘をついた。恵太は訳が分からず、幽霊の横顔を覗き込む。
「何者か、って言ったでしょ。私が死ぬ前にしてた仕事は、役所で困っている人を助けることだったの。それが私の正体」
「なんだよそれ。俺はそんなことが知りたいんじゃなくて」
「大学の頃は楽しかったな。夢があったから、一生懸命勉強した。私、カウンセラーになりたかったんだ」
恵太の言葉は簡単に塗りつぶされた。声を張るでもない、幽霊の確かな思いに押し通された感覚だった。
「一番なりたかったのはスクールカウンセラー。学校で悩みを抱えている子の支えになりたいと思って、心理学とか結構勉強したんだよ。ま、後から思えば意味があったのか分かんないけど」
幽霊は酒のせいなのか、時々眠たそうに小さく頭を振りながら話を続ける。
「カウンセラーって割に合わない仕事でさ。それ一本の仕事でやってける人って意外と少ないの。親に『現実見ろ、安定した職をもて』って何度も言われてるうちに、結局根負けしちゃった。ま、役所でも人の悩みを支えたりすることはできるだろう、って軽く考えたところもあったのかもね」
他人事のように言って、幽霊はカウンターに頬を付けた。恵太の方を向き、真横になった赤ら顔。脈絡なく喉の奥で笑い声を漏らす。
「困ってる人の支えになるんだって、一生懸命働いたの。朝は仕事の準備をして、昼は窓口にいて、夕方はトラブルを抱えている人の所に訪問に出かけて、夜は一日の記録をつける。家に帰ってソファーに座ってたら、いつの間にか朝になって、それの繰り返し。それでも残った仕事は、休みの日にやるの」
「マジかよ、そんな大変なのか役所って」
恵太は迷ったが、渋々ながら会話に参加することにした。今の幽霊に何を言っても、恵太の疑問の答えが得られるようには見えなかった。
「さあ? 休みの日まで仕事してたのは私ぐらいだったけど。私がお節介で勝手に仕事を増やしてるの。行く必要のない訪問に何度も行ったりね」
幽霊は重たそうに顔を起こし、グラスを軽くあおった。その液体が水だと分かって、恵太は安堵し自分も水を飲んだ。
「なんでそんな、する必要がない仕事なんか」
「信じてたんだろうね。何度も伝えれば分かってくれる。人の気持ちだって変えられるって。でも結局変えられなかった。上司や同僚はみんな、そういうもんだって知ってたから、入れ込んでまで訪ねて行かなかったんだろうけど。私だけ気づいてなくて、馬鹿みたい」
恵太は似合わない弱さを見せる敵を前に、かけるべき言葉を探した。幽霊に対して抱いた疑念は、自分の思い違いだったという結論にしてしまいたい誘惑が巡る。この女の真意が分からない。逡巡の後に出たのは、気遣いの言葉だった。
「別に馬鹿ってことは無いんじゃねえの」
恵太が呟くと、幽霊は複雑そうに眉を下げた。躊躇うように小さく「どうだろうね」と漏らすと、恵太を見て今度ははっきりと言った。
「馬鹿だよ。だってそれで死んじゃったんだから」
恵太は眼を見開いたが、幽霊は気づく素振りもない。
「それが私が死んだ理由」
自分で言って、確かめるように頷く。
「でも本当は」
言いかけて、幽霊は何かに気付いたように動きを止める。恵太はその顔から目を離せず、思わず覗き込んだ。目が合って、幽霊が感情を隠すように笑うのが分かった。
「内緒」
「なんだよ、気になるだろ」
「思い出したくないことがいろいろあるってこと。死ぬ間際の話なんだから、分かるでしょ?」
恵太はなんと返していいのか分からなかった。死ぬ間際の話を、死んだ当人から聞くという状況自体がデタラメのはずだ。一方で拭いきれない感触。嘘を言っているように見えない幽霊の姿が、恵太の戸惑いを大きく膨らまし続けていた。
十三
月曜日が待ち遠しかったのは、人生で初めてかもしれない。恵太は「あー、参った」と呑気な調子の独り言を口にしてみた。思いつきでの試みだったが、平凡を意識する必要性に駆られてのことだ。何もしないでいると、頭の中が唯で埋め尽くされる。幽霊で埋め尽くされる。週末の間、恵太の頭が休まることはなかった。
スマホには、竜海からもうすぐ行くというメッセージが来ていた。恵太は自分の席で竜海の到着を待つことにする。ゲームでもして気を紛らわそうとしたが、すぐにその指は動きを止めてしまった。頭の中で、ママさんの声が響いていた。
桜町通りで聞いた話は、恵太の想像の遥か外だった。死んだ母親の真似をして酒を飲みたくて、わざわざ高校生には魔境とも思える通りに繰り出したという。そして病気であと半年しか生きられないという唯の話。恵太には、唯がなんとか酒を出してもらおうと考えた作り話だとしか思えなかった。だがそこまでして、酒にこだわった理由が分からない。ママさんの言う通り、そう遠くない未来に叶うことなのだ。
あるいは。恵太は瞼を抑え、考えを方向転換した。本当に何かの病気で半年しか生きられなかったとしたら。生きているうちに母親と同じ行動をしたいと、思うものなのかもしれない。ママさんの話だと、唯が酒を飲んだ晩、桜がまだ咲かないと話していたらしい。四月の最初だとして、唯が死ぬ二か月ほど前だ。病気が進行して予定より早く死んでしまった可能性を思い浮かべる。だがそれなら、自殺という話はどこから来たのだろうか。
貫くような寒気に、恵太は思わず身を縮めた。あの女がどこからか、見張っているのではないかと不安になった。舌打ちをして、想像の中の視線を振り払う。あの幽霊という女。あいつが自殺だと嘘を信じ込ませようとしているのだとしたら。目的はなんだ? それ以前に、あいつは一体誰なんだ? とうとう今度は、唯が行っていた店まで当ててしまった。桜町通りの恐らく何十件とある店の中で、一度で当てることなど人間に可能なのか?
そこまで考えたところで、手元から馴染んだ振動が伝わってきた。竜海から教室の前に着いたとメッセージが届き、恵太は足早に入口へと向かう。
一刻も早く金曜日に起きたことを話したかったが、昼食が終わるまでは触れないでおくことにした。誰かに聞かれたら、無責任な噂が飛び交う格好の材料になるのは予想できる。まずは昼食を調達するのが先だ。恵太の逸る思いを反映するように、自然と売店に向かう足もせわしなくなっていた。
「ちょっと待て、何急いでるんだよ」
事情を説明するのも煩わしい。ただ急ぐように伝えようと、振り向いたところで恵太は動きを止めた。竜海の肩越しに、駆け寄ってくる莉花の姿が目に入る。
「こんにちは。元気してた?」
定型文のような挨拶を、伏し目がちにしてくる。よそよそしさが滲み出ている気もするが、以前のような警戒心は感じなかった。
「よお、そっちこそ元気?」
恵太がどう返すか迷ったことで、古い友人に会ったような態度になった。
「まあね。いつまでもヘコんでてもさ。生きて、って言われちゃったし。どうせなら、元気に生きないとね」
ファミレスのテーブルに置かれた、唯のメモが脳裏に浮かぶ。
「誰だ?」
事情を知らない竜海が、莉花に背を向けたまま小声で説明を求めてきた。恵太は短い検討のあと、「そのうち話す」とだけ告げた。何をどう解釈したのか、竜海は顔を紅潮させ二人の顔を何度も見比べた。
「なあ、そういうことか?」
「何が?」
恵太にとっては面倒なことに、莉花の方が早く反応を示した。竜海が莉花に近寄っていく。
「こんなつまんない奴だが、よろしく頼む」
竜海が肩に手を置くと、察したように莉花は言葉を濁した。
「そういう期待は、ちょっとね」
「いや、女子が一緒にいてくれるだけでありがたい。こいつ、女に興味がもてなくなってるんだよ」
「なに? 坂井ってこっち系の人?」
莉花が手の甲を口元に当て、おどけた声を出す。
「そんなわけないだろ」
恵太がため息交じりに返すと、何を思ったのか、莉花が顔を近づけて来た。「ふーん」と訝しがる吐息が、恵太の反論を躊躇わせる。どんな結論が飛び出すのか、恵太は待つしかできなかった。
「じゃあ、インポってやつ?」
「はあ?」
咄嗟に返したのは、良くない響きだと本能的に感じたからだ。恵太はその言葉の意味がすぐには思い出せず、中途半端な顔になった。
「そっか、インポテンツか。若いのに大変だね坂井も」
二回目の登場で、恵太はようやく理解した。と同時に、竜海が堪えきれない様子で吹き出した。
「すごいな。そんなこと俺は言えないぞ」
「そう? でもインポはインポなんでしょ?」
「待てって、俺はそんなんじゃないぞ」
「あれ、それって絶好調ってこと?」
莉花が白々しく首をかしげる。恵太が口を開け閉めするだけの時間を、楽しそうに見つめていた。満喫したと言わんばかりに、話題を変えたのは莉花だった。
「ごめんごめん冗談だよ。そりゃ、いろいろあるよね」
莉花が目を伏せるとともに、三人がそれぞれ唯のことを思い浮かべたのだろう。示し合わせたように目を逸らし、あるべき態度を探した。
「まあ、リハビリだと思ってしばらくは学校に来ようと思うよ」
努めて明るく、莉花が顔を上げた。
「気づいたら案外、私友達少ないの。ロックから少女漫画までいけるから、たまには声かけてよ」
下ネタもな、と恵太は言いかけたが止めておいた。
「お前、あのサイトの管理人のことは大丈夫か」
さりげなく聞いたつもりだが、内心は腫れ物に触る思いだった。唯が死んだ直後のような、世の中の全てに怯えた顔の莉花が戻って来ないとも限らない。
「あれね、とりあえず警察には行ったよ。いまだに死ねとか言ってくるから、さっさと捕まってほしいし」
莉花は力強くふんぞり返った。恵太の胸中を見透かし、もう心配ないと強調しているかのようだった。内心、管理人が唯の死に関係している可能性も気になっている。だが恵太にはそれよりも先に、確かめるべき一つの疑念が浮かびつつあった。
恵太は頭を垂れ、一旦疑念を追いやる。顔を上げて、まずは莉花に確認できる情報を聞いておくことにした。
「それと、もう一つ聞きたいんだけど」
「なに? 別に何個でもどうぞ」
「この間、唯のお姉さんと三人で会っただろ? あれ、どうやってお姉さんと連絡とったんだ?」
「どうって?」
莉花は不思議そうに、視線を宙に彷徨わせた。
「普通にお姉さんから電話が来たよ? 最初はビビったけど、さすがに断れないじゃん」
「普通にって、どうやってお前の番号を調べたんだよ」
恵太が一番知りたいのはそこだった。方法が分かれば、幽霊の正体が掴めるかもしれない。
「それは、知らないけど。ああっ!」
突然莉花が叫ぶので、竜海が顔をしかめた。
「なんだよ、驚かすなよ」
「しまった、口止めされてたんだった」
「どういうことだ?」
枝毛をいじるような仕草で、莉花は視線を逸らした。何かを誤魔化したのは明らかだった。瞬時に顔が強張った恵太の様子から察したのか、莉花はあっさりと態度を変え観念した様子で手を広げた。
「分かったよ。ごめんね、お姉さん。わざとじゃないの」
その場にいない、幽霊へ向けての簡単な詫びを済ませて莉花は恵太に向き直る。
「お姉さん、唯のスマホから調べたって言ってたよ。でも勝手に調べて電話するような家族って思われたくないから、このことは内緒にしてって言われたの」
恵太の喉の奥から引きつった声が漏れた。
「そんなわけないんだよ。だってあいつは」
唯の姉なんかじゃない、そう言いかけて口を閉じる。唯の姉が偽物であることを、恵太もあの場で言えなかったのだ。騙していたという意味では自分も同罪だという思いが、恵太に言葉を飲み込ませた。
「恵太、もういいだろ」
竜海の声に、恵太は顔を向ける。
「難しいことばっか考えんなってことだよ。飯食おうぜ」
「そうだね。私も買いに行くところ」
竜海の厚い腕が恵太の首根っこに巻き付き、半ば無理やり引きずっていく。
「分かったから離せって」
恵太は竜海の腕を平手で叩きながら、売店へと足を向けた。背後から、明るく茶化す莉花の声が聞こえる。唯へのメッセージに対する、莉花の答えのようにも見えた。自分は、何か唯へ答えられることがあるだろうか。その先を思い描けず、恵太は唇を噛んだ。
十四
恵太はベッドの上であぐらを掻き、自問自答した。結局竜海にも莉花にも、金曜日にあったことは話せなかった。二人が前を向き始めているのに、唯のことを持ち出すのは水を差す行為に思えたのだ。本当は自分も、一緒に進むべきなのだろうか。
「唯ちゃんを信じてあげて」
幽霊の声が蘇る。あれは一体どういう意味なのだろう。デタラメや悪意のある言葉にはどうしても思えなかった。
そしてもう一つ。唯の足取りを追うことで恵太が得た、消せない疑念。確かめるためにとる手段を、恵太は決めていた。
スマホを手に取り、幽霊の電話番号を見つめる。ほとんど考えることなく、勝手に手が動いていた。コール音が始まった後になって今更、思考が働き始める。もしも幽霊の、唯が自殺だという話が嘘だったとしたら。相手は全ての元凶なのかもしれない。こうして電話をかけることも、思惑通りの可能性だってあるのだ。今にも電話を切ろうかと迷いが生じた時、あの気だるげな声がした。
「もしもし」
反射的に耳にスマホを押し当てる。じっとりと耳元が湿っていることに気づいた。
「もしもし? どうしたの」
何も話し出せず、ただその声が耳を通り抜けていく。抑揚のない、まるで本当に感情を失った死人のような声。ママさんの店で声を荒げたのは、お酒のせいだったのだろうか。それも違う気がする。恵太には、今の抑揚のない声が作られたもののように思えた。
「なあ、教えてくれよ。あんたは一体何者なんだ」
ようやく出せたのは叶う可能性の低い、縋りつくような願いだった。
「何者ってどういうこと?」
「とぼけんなよ。莉花に聞いたんだよ。あんたから電話がかかってきたって。あんた前に言ったよな。テレパシーを使ったって。あれは嘘だったってことだろ」
「それがどうしたの?」
重く、揺らぎのない声。嘘である証拠を突きつけられたとは思えない態度。虚を突かれた恵太は、続けるべき言葉を見失っていた。ママさんの店で一瞬見せた、恵太への敵意が脳裏にちらつく。自然とスマホを握る手に力が入った。
「それよりも、大事なことがあるんじゃないの?」
恵太の予想に反して、拍子抜けするほど穏やかな口調が語りかけてくる。
「唯ちゃんが死んだ理由、まだ知りたいんでしょ? それを確かめる方が大事じゃない?」
「なんだよそれ、この間と言ってることが真逆だろ。答えなんて分からなくてもいいからとか言ってたクセに」
「言ったでしょ。キミに付きまとうのはムカつくからだって。キミがやりたいのが唯ちゃんの死の真相を確かめることなら、勝手にすればいいじゃない」
恵太は眩暈さえ起きそうな気がした。訳が分からない。ほんの三日前に言っていたことと、こうも主張が変わるものだろうか。あの時、幽霊が恵太に向かって声を荒げたのは、本当にただの酔いのせいだったとでも言うのだろうか。
「あれはどういう意味なんだよ。唯を信じろってのは」
「そのままよ。それは自分で考えることでしょ」
冷たく言い放たれた幽霊の言葉。恵太は声も出せず、唾液の塊を喉へ押し込む。唯を信じる。その言葉が頭の中で繰り返されるたび、恵太には全く違う思いがこみ上げていた。
ずっとしまっていた、胸の底にこびりついて消えない怖さ。誰でもいいから聞いて欲しいのに、誰にも言えなかったこと。
唯を信じろという幽霊に、恵太はなぜか背中を押されたような気がした。
「俺は、自分が信じられないんだよ」
張り付めた喉から、ようやく声を絞り出した。幽霊の返事があったかも定かではないが、恵太は続けた。
「唯が死んでも、悲しいのかも分からない。涙も出てこない。そんな薄情な奴なのに、好きだとか言えるわけないだろ。唯を信じる資格なんか、無いだろ」
一息に感情を吐き出した。電話口の向こうから、相づちの代わりに微かな息遣いを感じる。感情を押し殺しているような、震えを隠すような。
「そう」
ようやく短い感想。
「いろいろ考えてたのね」
恵太は話したことを後悔しそうになった。決して、いろいろでまとめられるほど簡単な感情のつもりではない。だがすぐに不満の矛先は自分へと変わった。こんな、得体の知れない相手に話す方がどうかしているのだと。
「私、コーヒーがすっごく好きだったの」
恵太は一瞬、自分が何か聞き間違いをしたのかと思った。
「でも、昔付き合った人がいて。その人がコーヒーを止めろってしつこく言うの。私、一時期不眠症気味だったことがあるんだけど、彼が言うにはコーヒーの飲みすぎが悪いんだって。私が飲もうとするとしつこく怒ってきて面倒だった」
幽霊は淡々と、ゆっくりと、自分の記憶をなぞるように続ける。恵太は幽霊の真意が分からないまま、その言葉を追った。
「それだけのせいじゃないけど、結局その彼とはダメになっちゃった。それは仕方ないんだけどね。厄介なことに、コーヒーが飲めなくなったの。飲もうとすると、彼の引きつった顔が浮かんできて。全然おいしくないから、結局飲むのやめちゃった」
「なんだよ、急に」
脈絡のない身の上話に、恵太は困惑した。弄ばれているのか、幽霊の気が触れたのかも分からない。幽霊は、そんな電話越しの戸惑いは一向に気にしない様子で続けた。
「意識していなくても、心の奥底で引っ掛かっているものがあるとね。人間はそれに簡単に縛られちゃうんだな、って思った昔の話よ」
分かるような分からないような、もどかしい感覚で恵太は前髪を握りこむ。
「何かないかな。トラウマとか自己暗示とか。恵太の中で、感情を抑えこむ理由になっているもの」
「そんなこと言われたってな」
どうやら幽霊が真剣らしいことは伝わってきた。だが突拍子もない内容に、恵太の頭は追いつくのでやっとだ。
「それも幽霊だから分かるのか?」
「さあね。幽霊だって神様じゃないし」
幽霊の余裕たっぷりな笑みが見える気がした。恵太は頭を掻き続けたが、それらしい考えは出てこない。大体、幽霊の話が恵太の疑問の答えになっているとは微塵も思えなかった。
「まあ、そう簡単に分かったら苦労しないよね。いいよ、またゆっくり考えてみて」
柔らかな声に我に返る。ムカつくと言い放った矢先のアドバイス。恵太は、また何を信じていいのか分からなくなりかける。
「幽霊、一つ頼みがある」
それでも、自分を支えている一つの予感を口にした。
「唯のお父さんに会いに行こうと思う」
答えはそこにある。唯の足跡を追ってきたことで、恵太が導き出した結論だった。これから言うのは、同時に幽霊の正体を暴くために仕掛ける罠。恵太は自分の考えを整理し、一度口を結んでから開く。
「幽霊も一緒に来てくれ」
恵太は頬の湿りを拭い、スマホを耳に押し付ける。予想では、幽霊は断るはずだ。
「分かった。もともと最後まで手伝うって約束してたもんね」
わずかな躊躇いもない、当然という意味合いすら含んでいそうな返答。玉になった冷たい汗が、一つ二つと恵太の頬を滑り落ちた。
「ああ」
恵太は生気のない返事をするのがやっとだった。幽霊が唯の行動パターンも把握している親族なら、行動に説明がつくのではないかと恵太は考えていた。親族なら、唯の父親と会うのは是が非でも避けるはず。それが恵太の用意した罠だった。
十五
「ここまでやって、自分の気持ちを信じられないなんてこと、ありえないでしょ」
呆れた口調の幽霊は、恵太ではなく太陽の光を穏やかに返す建物の方を見上げていた。恵太は入口に辿り着くまでに通って来た、街路樹のような中庭を振り返る。石畳の両脇を木漏れ日が覆い、どう歩いても常に川のような水の流れる音がする。噴水から湧き出る水をイメージしながら歩いていると、本当に噴水があるのを見つけて恵太は苦笑するしかなかった。
唯の父親に招かれた自宅。それは、唯が父親と一緒に住んでいた家ということになる。ただでさえどんな出で立ちで臨もうか悩んでいたところだ。裕福さを連想させる景観の美しさにより、恵太はさらに浮き足立った。
唯の父親と連絡をとるのは、そう難しい行程ではなかった。告別式の際に供花に書かれていた大学に問い合わせると、唯の父親の方から折り返しの連絡をくれたのだ。
どんな反応をされるか不安だったが、会って話をさせてほしいと頼むと自宅へと招いてくれた。
小川彰高、大学の准教授。専門分野は応用生理学。恵太は会う前に少しでも相手のことを知っておこうと、ネットで検索をかけた。応用生理学というものも調べてみたが、どうやら人間の体に関係する分野らしい、ということが分かっただけだった。
事前の申し合わせ通り、玄関から彰高に電話をかける。待つように言われたと幽霊に告げると、幽霊は静かに頷いた。恵太の懸念に反して、土壇場で逃げ出す素振りもない。
鈍いブラウンの玄関扉は、装飾に合わせて透明の隙間がある以外は中が見えないようになっている。不意に、エントランスに続くと思われる自動ドアが開く。恵太は姿勢を正す隙もなかった。
「君が、坂井君ですか」
告別式の時に見た、黒縁の眼鏡と真面目そうな真ん中分け。相手が高校生だというのに背中は少し丸く、威張るのが苦手なタイプに見えた。温厚さをまとったその目は、ごく落ち着いている印象だった。
「すみません、家まで来てしまって。僕が坂井恵太、こっちが」
「あの、山岸といいます。この度はご愁傷様でした」
幽霊が深々と頭を下げたので、恵太も慌てて追従した。
「わざわざ訪ねて来てくれるなんて、娘も喜んでいると思います。ひとまず、家に案内しましょう」
彰高は、幽霊を初対面として迎え入れた。幽霊が唯の親族ではないことを、恵太は改めて受け入れるしかなかった。
言われるがままに、彰高の後を付いていく。エントランスの中も中庭と同じように、鉢植えの緑と水路が視界の端を彩っていた。生活感を見せない空間を抜け、彰高が案内する部屋へ入る。
「よかったら、挨拶してやって下さい」
玄関に迎え入れるなり、彰高は恵太たちを奥へと促した。ソファーやテーブルが使用感なくたたずみ、天井ではシーリングファンがゆったりと回る。モデルルームのようなリビングの先に、彰高が指す部屋はあった。
ドアを開けた瞬間、目に入ってくる仏壇。というより、仏壇以外には何もなく、部屋の半分以上は空白を持て余したような場所だった。幽霊と並んで、仏壇の中の唯に手を合わせる。唯の写真の横にもう一つの遺影を見つけ、恵太はママさんの話を思い出した。唯の母の死後に、唯の願いで引っ越したという話。恐らくこの仏壇は、もともと母親のためのものだったのだろう。そこに二つ目の遺影が並んでしまった彰高の気持ちを想像し、恵太は無意識に拳を握っていた。
世間話も憚られる気がして、恵太たちは彰高の案内するリビングのソファーへぎこちなく腰を下ろした。敬語も相まって、彰高の対応は速やかであり事務的とも感じられた。もっとも、娘を亡くしたばかりの父親に愛想を求められるはずもない。
「大したことはできませんが」
彰高は三人分のコーヒーを並べると、ローテーブルを挟んだ向かいのソファーに腰かけた。静かに一口すすり、口を開く。
「それで、私に話したいこととは」
彰高はどちらともなく、恵太と幽霊を見比べて切り出した。恵太は土壇場でなんと言うべきか迷い、躊躇った。それでも、他の言い方など無いことは何度も頭の中で検討して分かっている。父親にその疑問をぶつけることがどれほど残酷か、知ったうえで選んだ手段だ。後戻りするわけにはいかなかった。
「唯、さんは自殺をしたと聞きました。でも、俺にはいくら考えてもその理由が分からない。どうしても、なぜ唯が死なないといけなかったのか、聞いておきたかったんです」
言い終えると、久方ぶりに呼吸をするように息を吸い込んだ。彰高の方を見ることができず、恵太はローテーブルの彫刻が付いた足を見つめた。
「唯は、確かに自殺しました」
彰高の、感情の種類を感じさせない声。視線を下に向けたまま、恵太は口を真横に噛みしめた。
「ですが、その理由は私にも分からないんです」
コーヒーとカップが触れ合う音。他の音は、この世界から消えてしまったように何も聞こえない。
「すみません、わざわざ来てもらって申し訳ないですが、他にお話しできることは無いんです」
彰高の答えは、恵太の予想通りとも言えるものだった。なぜだろう、恐らく彰高は分からないと答えるだろうと思っていた。思えばあの葬式の日、彰高の態度を見た時から何かが引っ掛かっていたのかもしれない。娘を急に亡くしたにも関わらず、落ち着き払っていた姿。娘の死因について触れようとしない挨拶の言葉。あの時はショックが大きすぎたせいかと思っていたが、今になって恵太は確信している。彰高は何かを、隠していると。
「それは、本当ですか?」
昂る感情が抑えきれず、声が震える。冷静になれ、と自分に言い聞かせた
「本当です。遺書もありませんでした」
一拍あって彰高が淀みなく答える。
「唯さんは、何か言い残してなかったですか?」
「何も、特には。何せ娘と男親だと、なかなか話す機会もないんですよ。最後にゆっくり話したのなんていつ以来だったか」
「恵太?」
恵太の異変を感じたのだろう、心配そうな幽霊の呼びかけが聞こえる。恵太は大丈夫だ、と心の中で繰り返す。彰高の嘘を暴くヒントなら、ちゃんと唯がくれていた。
「それって嘘ですよね。唯が言ってました」
恵太は目を伏せたままだったが、気配で彰高が体を強張らせたのが分かる。
「死ぬ前日、明日は一番大切な人と会うって言ってたんです。それってお父さんのことですよね」
それが、恵太の結論だった。莉花との話でもママさんとの話でも、恵太の話は出てもそれ以外の誰かの話は出てこない。特に、ママさんに関しては唯の知り合いに話が漏れることも本来はあり得ないのだ。恋人であれ友人であれ、一番大切とまで言う相手の話が出てこないのは不自然だった。だが、家族のことなら言わなくても不思議ではない。もしも最後の日に会った相手が彰高だった時、その事実が意味するのは。
恵太はゆっくりと顔を上げた。思い詰めたように、手を口に当て考え込む彰高の姿があった。唯と似た仕草だ、と場違いな感想がよぎった。
「あの日の前日、君は唯と会ったんですか?」
考え込む彰高の第一声は、恵太からすれば意外なものだった。まず始めは、会ったことを否定するのではないかと予想していた。
「はい。会いました」
事実だけを述べながらも、恵太は戸惑っていた。彰高の質問が予想外だったからだけではない。一瞬、彰高の口の端が持ち上がったように見えたからだ。
「どこまでも困った娘だ」
今度は隠す様子もなく、彰高は腕を組んで笑った。幽霊が眉をひそめて恵太の方を見てくるが、そうしたいのは恵太も同じだった。何が起きているのか、理解が追い付かない。その異様さに呑まれないよう、恵太は言葉を止めないようにした。
「どういう、意味ですか?」
彰高の笑い声は消え入り、何かを懐かしむような微笑みだけを残している。
「失礼しました。こうして君が来ることも、全てあの娘の計算通りだったんじゃないかと思えてしまって」
穏やかな笑みを絶やさぬまま、彰高は言った。
「全て、話します。唯がなぜ死ななくてはならなかったのか、聞いてもらえますか?」
恵太はどんな顔をしていいのか分からなかった。なぜ急に態度を変えたのか、彰高の真意が見えない。ただ気圧されるように頷いたが、ついに唯の死の真相が明かされるという現実感は微塵もなかった。
「ミトコンドリアというものを知っていますか?」
あまりに唐突な単語に、恵太はほとんど聞き取れないような声で「いえ」と答えた。同時に、頭の中で「違う」という警鐘が鳴り響く。
違う、知らないわけじゃない。どこかで確かに、聞いたことがあるはずなのに。恵太は既視感の理由が分からず、体が芯から揺さぶられる感触をこらえる。
「人の細胞の中にある器官です。細かく言うといろいろありますが、簡単に言うと細胞が呼吸をするためには、ミトコンドリアの活動が必要なんです」
恵太の脳裏に、唯の姿が浮かぶ。そうだ唯が以前、同じような話をしていたことがあった。だが薄ぼんやりとした記憶があるだけだ。どんな顔で何を話していたのか、手が届きそうで届かない。恵太はもどかしくて頭を掻きむしってしまいたかった。
「唯は、ミトコンドリアがうまくはたらかない体質による、心臓の病気を抱えていました。根本的に治す方法が無いとされている、難病です」
莉花のインタビューの時の唯の異変、学校を頻回に休むようになった事実。彰高の言葉が耳に届くたびに、恵太は息がしづらくなるのを感じた。
「あの子は、自分の心臓がいつ止まるかと毎日怯えていました。そして、いつか思うようになったんです。いつ死ぬか分からないのなら、最後の日を自分で決めようと。それがあの子の考えでした」
彰高は決められた台詞を朗読するように、淡々と語った。
「そんなの……それは、止めることはできなかったんですか?」
恵太より先に、幽霊が口を挟んだ。恵太と対峙していた時と同じ、静かだが揺らぎのない声。
「私も、もちろん止めようとしました。ですが長い時間を経て出した答えです。あの子の心は、そうしないと壊れてしまうと」
わずかに、彰高の声が掠れた気がした。
「あの子は、昔から本が好きでした。なんでも疑問があれば納得がいくまで調べる子でした。幼い頃から、おままごとの道具よりも本をあげた方が喜んでいたような子です」
唯らしい、と本当なら温かく故人を偲ぶところだろうか。惜別を分かち合うためでなく、死の真相を突き止めるための説明となっていることが恵太には疎ましかった。
時々言葉を選ぶように留まりながら、彰高は話を続ける。
「だから、あの子の母親が同じ心臓の病気で亡くなった時、自分にも遺伝している病気の存在に気付いてしまった。自分で調べて辿り着いてしまったのです」
「遺伝……」
恵太は誰に向けるわけでもなく声を漏らした。
「ミトコンドリアは、母親からの遺伝情報で作られます。と言っても、母親が病気だからと言って必ず子どもが病気になる訳ではありません。だからこそ、唯が自分も母親と同じ病気ではないかと言い出した時、私は検査を受けさせました。唯の心配が杞憂に終わると信じて」
恵太は、徐々に全貌を理解しながら腑に落ちない感覚も抱えていた。この後の彰高が話すであろう結末も、朧げながら見えてきている。だが、全て納得できるとも思えない。
「検査をしたら、実際には心臓の病気が見つかったと?」
幽霊も同じ気持ちなのか、娘を亡くした父親への同情とは、違った感情がある目に思えた。どこか警戒心を孕んだ、険しい目。彰高はそれに気づいてか気づかないでか、前だけを見据えて続けた。
「そうです。そして実際に、唯の体には異変が起こり始めていた」
「もう、残された時間が多くなかったということでしょうか」
幽霊の問いに、彰高は静かに首を振った。
「いえ、そんなことはありません。医師の説明では、根治は難しくとも、すぐに致命的なことになる可能性は低いとのことでした」
「そんな、それじゃなんで自殺なんか」
恵太の心の叫びを形にするように、幽霊が声を上げた。
「あの子がなぜその決断をするに至ったか、あの子が何に苦しんでいたか、聞いて頂けますか?」
彰高は目を閉じ、一つ息を吐く。恵太にはそれが、心の中で唯と対話している姿に思えた。
恵太と幽霊が頷くと、彰高は唯の過去を振り返り始めた。
十六
よく晴れた日だ。唯は以前調べた、天気と自殺の関係の話を思い出す。統計的に見て、曇天や雨の日は晴れよりも自殺者が出る割合が高くなるそうだ。バルコニーから暖かい日差しと青空を確認し、唯は部屋へと戻った。リビングのソファーに体を埋め、最後の日が晴れであったことに満足感を得る。天気にさえ抗って、自分は今日死ぬのだ。そのための準備だって十分にしてきた。あとは、その時を静かに待つだけだった。
もうすぐ、父が薬を持ってくる。できるだけ苦痛を感じないように作ったそれを、注射器で打つのだそうだ。そうすれば眠ったまま、二度と目が覚めないらしい。父が席を立ってから、随分と長い時間が経った気がする。きっと、決心がつかずに動けないでいるのだろう。父に一番残酷な役目を負わせなければいけないのは、唯の最後の心残りだった。
目を閉じて思い出す。いつだって父には、迷惑ばかりかけてきた。あれは小学生の頃。珍しくケーキを買ってきてくれたと思ったら、唯がチーズケーキしか食べないのを忘れていて喧嘩したことなど、後から思えば些細なことだった。全ては、母が自分勝手に死んでしまってから崩れたのだ。
母が定期的に病院に通っていることは知っていた。時々父と母が、唯がいないと思って体調の話しているところを見たこともあった。それは深刻な様子ではなく、今度の休日にどこに出かけようかという話題と大差なく交わされているように見えた。
幼心に感じていた。母は、病気なのだと。だがそれは、テレビで見たことがあるような不治の病や余命いくばくといった悲劇めいたものではなく、薬を飲んでいれば平気なものなのだと信じた。その証拠に、母は気を失って倒れることもないし、酔っぱらってご機嫌で帰って来ることもある。いつも口数が少なく冴えない顔をしている父の方こそ、病気を隠しているのではないかと思っていたほどだ。
その解釈は自分が編み出した詭弁に過ぎなかったと、母が倒れたあの日初めて気が付いた。いや、実際には詭弁でもなかったのかもしれない。唯と同じか、それ以上に父も動揺し、痛々しいほどに嘆き悲しんでいた。
唯は知ってしまった。突然、大切な人に去られることの苦しさを。永遠に続くと思っていた日々を、無言で奪うという罪の重さを。唯は、母を恨んだ。理不尽だと分かっていても、恨まないと、大好きな母と過ごした時間が蘇って、現実を生きられる気がしなかった。恨んで嫌いになろうとした。だが、記憶の中の母はどうあがいても優しく、自分を騙すことはできなかった。
自分の病気のことを知ったのは、母が死んでから半年ほど経った時だ。皮肉なことに、少しずつでも母の死を受け入れ、自分の好きなことに時間を費やせるようになってきたのがきっかけだった。母が死んだ病気のことを、知っておきたくなったのだ。心臓の病気だった、と一言で片づけられるのは納得がいかなかった。学校の図書室でもそれが載っているような本はなく、唯は家の近くの図書館で、両手でやっと抱えられる大きさの本を調べて見つけることになる。母の症状が、ミトコンドリア病という珍しい病気を思わせるところがあること。そして、それは母系の遺伝子が原因という説があると。
正式に検査で自分の病気が分かってからの日々は、思い出したくもない。父も医者も、すぐに発症するものではないと強調していた。だが頭にあるのはいつも、母に訪れた最後の瞬間だった。死神に魅入られたかのように、母の心臓は気まぐれに動くことを止めたのだ。次の一拍の鼓動ですら、保証されているかは分からない。頭の中を支配するのは死への恐怖と、自分が母と同じ罪を犯してしまうことへの自責の念だった。
唯は、学校へ行くことを止めた。自分と親しくなれば、死んだ時に辛い思いをさせてしまう。絶対に、自分と同じ辛さを人に味あわせはしない。そう自分に言い聞かせて、他人と距離をとっていった。
ただ自分の運命を呪う毎日。自分の部屋のベッドで、神様がいるのなら、心臓がいつ止まるのか教えてほしいと願った。そうすれば、もう怖がらなくていいのに。毎日そんなことを考え、昼も夜も分からない生活を続けるうちに、唯は一つの考えに至った。
神様に運命を任せる必要などない。
自分が死ぬ日を、自分で決めるのだ。
その日までを精いっぱい生きる。その日までに、父にありったけの想いを伝える。だから、どうか悲しまないで欲しい。
そう思った途端、視界が音を立てて開けた気がした。目の前を塞いでいた壁を打ち壊す、小気味のいい破壊音。
唯は、足をもつれさせながら部屋を出て父にその考えを話した。今思えば、今以上に心が壊れていたのだろうと思う。
父は決して咎めなかった。もしかしたら、本気だと思っていなかったのかもしれない。父の顔からは、久しぶりに娘と顔を向き合わせて話せたことへの安堵感が滲み出ていた。
それから、十七歳の誕生日の前日を最後の日に決めた。誕生日に死ぬのは、物悲しい気がしたからだ。明確な理由があった訳ではない。ただ、一度そう思うとその日までは生きられる気がした。
本を読めるだけ読んだ。残された時間が少ないとなって、堰を切ったようにやりたいことが浮かんだ。学校が懐かしくなって、久しぶりに行ってみようと思った。母がしていたように、お酒を飲んでみようと思った。校内に自殺をしようとしている人がいるかもしれないと知り、なんとしてでも止めようと思った。時として莉花が漏らす生への軽薄さに、傷つき眩暈がすることもあった。それでも、とにかく生き続けて欲しいと願った。
最後と決めた一年半、思っていたよりも悪いものじゃなかった、そう噛みしめて唯は頷く。このフカフカのソファーの感触も、もうすぐ感じなくなる。目を閉じると、廊下の軋む音が近づいてくるのが分かった。父がようやく、決意を固めたのだろう。
もう、話したいことは話しつくしたつもりだ。それでも、別れが惜しくなる。最後にもう一度、謝ろう。こんな弱い娘でごめん。もっと、一緒に生きてあげられなくてごめん。
唯は、低く鈍い音を聞いた。初めは、いつしか自分の視界の壁を壊してくれたあの音かと錯覚した。間もなく、その発信源に気づく。締め上げるような、窮屈な痛みとともに。
ゆっくりと近づいてくる、廊下を進む音に意識を集中させる。早く、もう時間がない。自分の胸倉をえぐるように抑え、まだ耐えてと懇願した。
扉が隙間を作り、父の姿があった。霞む目が、辛うじて父を捉えた。何も持たない、両の掌が映る。唯は声にならない声で、小さく笑った。
「唯!」
消えそうな意識の中で、駆け寄ってくる父の腕に抱かれた。何度も自分を呼ぶ声が聞こえる。ごめんなさい、と言ったつもりだけど、ちゃんと父には届いただろうか。
目の前が暗くなっていく。父の手を汚さずに死ねるなら、きっと悪くない終わり方なのだろう。
まさか、自分が死ぬと決めた日に本当に心臓が止まるとは。いつかの、心臓が止まる日を教えてほしいという願いを、神様が聞いてくれていたのだろうか。薄れゆく意識の中で、唯は思った。
最後に、彼のことを思い出す。残される者の辛さを知りながら、生け贄と称して関わってしまった罪。許されないことだと、自分を責め続けてきた。それでも、もしまだワガママを言う権利があるのなら。唯は最後の願いに思いを馳せる。変えられない運命の中で、確かに残した希望。
呪い続けた運命に抗うために、あえて希望を自分の意思の届かない賭けへ委ねた。この賭けに勝ったとしたら、自分が生きた意味はあったのだろう。
唯の思考は、そこで途絶えた。父の温かな腕の感触と、咆哮にも近い泣き声だけを感じていた。
第四章
一
話し終えると、彰高はソファーの上で丸い背中をさらに丸め、疲れ切ったように顔を覆った。幽霊も、もう異を唱えることなく静かに唇を結んでいた。
「自殺じゃなかったんですね」
恵太はなんとか一言を発した。本当は、何を思えばいいのか分からない。唯が抱えていた苦しみに気づけなかったことを、悔いるべきなのだろうか。だが、あまりにも遅すぎた。悔やんだところで何も変えられないという徒労感が、何物にも勝っていた。
「私は、頬を張ってでも唯に生きろと言い続けるべきだった。それができなかった時点で、父親失格です。私が死なせたようなものだ」
彰高は顔を覆う指の隙間から、暗闇を覗き見るように床を見つめていた。額や頬に当たる指が、痛々しいほどに食い込んで見える。
「だから、自殺だなんて言ったんですか? 自分が死なせてしまったという責任を背負っていくために」
幽霊が遠慮がちな上目遣いで彰高を見据えた。どこか責めているような、刺々しい態度は影を潜めていた。
「その通りです。結果的に病死であっても、私がしようとしていたことは変わらない。許されてはならないんです」
その声は大きく震えていた。唯が死んだ直後の葬式でも、唯の死に様を話す時も見えなかった感情が、抑えきれずに体の震えに変わっているようだった。
「でも、それって間違いだと思います」
幽霊が力強く言った。
「私は正直、全て唯さんとお父さんの気持ちが理解できたわけじゃありません。でも、唯さんがお父さんに感謝していたのは確かなことだと思います」
諭すように、沈痛な面持ちの彰高から目を逸らさずに続けた。
「唯さんは、自分が死んだら遺された人が辛い思いをするからと言って、人との関係を断つほど優しい子だったんですよね」
恵太は、他のクラスメイトと話そうとしない唯の姿を思い出していた。唯の思いも知らず、苛立っていた自分がとてつもなく浅はかでくだらなく思えた。
「そんな優しい唯さんが、今のお父さんの姿を望むはずがないと思います」
幽霊が言い、視線を下げると言葉のない時間が訪れた。それぞれに、唯のことを考えていたのではないかと思う。沈黙を破ったのは彰高だった。
「ありがとう。少し、一人にさせてもらえますか」
わずかに頬が緩んだ。唯の父親らしい、知的さと穏やかさが宿っている気がする。恵太は幽霊と目を合わせ、この場を後にすることにした。体を起こしかけ、恵太は動きを止める。
「なんで、急に本当のことを教えてくれたんですか?」
「ああ、それはですね」
彰高が目を細める。
「最後の日に、唯が言っていました。一人だけ、本当のことを話そうか迷った人がいるから、もし訪ねて来たら全て教えてあげて欲しいと」
彰高が眼鏡をくいと持ち上げる。
「あの日の前日に会っていたということなら、間違いないでしょう。てっきり、友達のことを言っているのかと思っていたんですが、男の子だったとは」
彰高が心底意外そうに言うので、恵太は何か説明した方がいいか迷ったが彰高の言葉に遮られた。
「唯がお世話になりました。良かったら、また遊びに来てやって下さい」
束の間の迷いの後、恵太は言いかけた言葉を飲み込み「はい、また来ます」と頷いた。幽霊も一緒に会釈をして部屋を出た。
玄関ホールから外に出ると、忘れていた陽の明るさに目を細めた。慣れるまで手をかざした後、恵太は大きく伸びをして歩き始めた。
「唯のお父さん、元気になるといいな」
同意を求めて幽霊へ振り返った。幽霊は心ここにあらずといった様子で「そうだね」と、気のない相づちだけ返してくる。さすがに疲労感があるのだろうか。恵太は努めて軽く振る舞うことにした。そうしていないと、唯にしてやれなかったことへの後悔に押し潰されてしまう気がした。
「ありがとな、その、お父さんにいろいろ話してくれて。俺だったら何て言ったらいいか分かんなかったし」
「うん」
二人で並木道を歩いた。石畳の足先からも温められて、滲む汗を感じる。言葉を失くすと、葉っぱの緑色の匂いがして心地よかった。
「ねえ」
のどかな行進を破ったのは、幽霊の力ない声だった。
「聞かないの? 私が誰なのか」
「ああ、それ」
恵太は足を止めた。
「ま、案外悪いやつじゃないんじゃねーの」
自分で言って、どこかで聞いた台詞だと思う。恵太はすぐにその正体に納得した。莉花が自分を称した時と似ていたのだ。叶うのなら、もう何も聞かずに幽霊が言おうとしている重大な、恐らく後ろ暗い何かを許してしまいたかった。
「それじゃダメだよ」
幽霊は恵太の考えを見透かしたように否定した。端整な顔が、微かに苦く歪む。
「君は、全てを知るべきだから」
恵太は息を吐き、幽霊が語る全てとやらを受け入れることにした。そうするべきだと、本当は分かっていた。
二
山岸遥は長い黒髪をかき上げ、運動部の生徒が散らばる校庭を見下ろした。太陽にさらされる生徒たちは、日差しを当たり前のものとして構う様子はない。そんな気概など、自分はいつの間にかどこかに置いてきてしまった。速やかに日差しのない、来たばかりの入り口の方へと戻る。物陰に避難して、顔を手で仰いだ。
「あれ、もう外は見なくていいのかよ」
恵太が声をかけて来た。突然現れた見ず知らずの女を、幽霊と呼ぶよう強いられるという、理不尽な被害者の高校生。初めて会った時より、ひたむきな顔を多く見せてくれるようになった気がする。彼に幽霊と呼ばれるのは、きっと今日が最後になる。
「屋上なんていつ以来だっけ。暑くてびっくりしちゃった」
この暑さは予想外だ。思えば、木陰と水脈に守られていた唯の家と、遮るものの少ないアスファルトの屋根の上では条件が違って当然だろう。
屋上に連れて来て欲しいと願ったのは遥だった。唯がよく居たというこの屋上が、恵太が全てを知るのに相応しい場所だと思ったのだ。
真実を知った時、彼はどんな顔をするのだろう。私がしてきたことは正しかったのだろうか。一つ確かなのは、私はどんな非難も受けるべきということだ。遥は頭の中で確かめる。
恵太が近寄ってきて、日陰の中に並んで立った。
「うわ、ここ涼しいじゃん」と恵太が呑気に呟いている。遥は構わず、意を決して口を開いた。
「そろそろ、本当のことを言わないとね」
「なあ、その前に」
恵太が鼻先を掻きながら、言いづらそうにこちらを窺う。何事かと、遥は無意識に瞬きを繰り返した。
「これって、俺が怒られる話?」
「え?」
「いや、俺のことムカつくって言ってたからさ。メチャメチャにキレられるのかと思って」
「何言ってんの。そんな話じゃないよ」
遥は全身の力が抜けそうになった。思っていたより空気の読めない奴なのかと、嘆きたくなる。
「じゃあ、幽霊がなんかしたって話?」
「なに。なんでそんなこと聞くの」
ごまかすような薄ら笑いを浮かべていた恵太の顔から、一瞬感情が消えた気がした。
「ここ来るまで考えてたんだけど。幽霊が、ずっと死にそうな顔してるから。まあまあヤバイことなのかな、と思ってさ」
遥は言葉に詰まり、何も返せなかった。
「先に言っとくけどさ、多分大丈夫だって。幽霊がいなかったら、ここまでやれなかったと思う。だから」
遥は顔を上げた。恵太は、不自然なぐらいに笑って手を広げた。
「あんま暗い顔すんなって。いつもみたいになんかこう、堂々としてろよ」
「何それ、急に大人みたいなこと言って。生意気」
遥がか細くなった声で強がると、恵太は受け止めるようにただ笑う。その声が優しければ優しいほど、これからする告白が怖くなる。どんな顔をしていいか迷ったが、結局つられて少し笑ってしまった。
本当は弛緩した空気に身を委ねたかった。遥はそれを振り切るように、強張る口元を無理やり開く。
「私ね、幽霊なんかじゃない」
「そりゃま、そーだろうな。信じてねーよ、最初から。でも、だとしても分かんないことだらけだ。そもそも、なんで幽霊なんて名乗ったんだよ」
恵太が軽口ぶって歯を見せる。あくまでも責める気持ちはないと、意思表示をしているようだった。
「あれはね、罰のつもりだったの」
「罰?」
裏返った声が返ってくる。
「そう。安易に死にたいなんて思っていた、自分への罰」
遥は浅はかだった日々を思い出す。嫌悪感で目を閉じそうになるのを振り払った。
「バーで、私が死んだ理由のことを話したでしょ?」
「ああ」
「あの話は嘘じゃないよ。でも、死にたくなったのはその時じゃない。私はね、体も心も疲れきって、仕事を辞めたの。それで、カフェでバイトをするようになった。そうしたらね、自分の生きる意味が分からなくなったの。何のために一生懸命勉強して、頑張ってきたんだろうって。そんな毎日を繰り返してたら、死にたいって思うようになった」
遥はこめかみに力を入れ、湧き上がる憤りを押さえつける。ディミアンで言えなかった、くだらない真実。唯がいなかったら、今もその浅はかさに気づけていなかっただろうと思うと、背筋がうすら寒くなる。
「唯ちゃんはね、そんな私を救ってくれたの」
「唯を知ってたのか?」
恵太が意外そうな声を上げると、遥は小さく頷いた。
「それも不思議だったんだ。唯から、知り合いの話を聞いたことはほとんどなかった。だから、幽霊がもともと唯と知り合いだったとは思えなかった。唯とはどういう繋がりがあったんだ?」
「唯ちゃんは、私が働いてたカフェによく来てたの」
いつも、一人で来ていた。窓の桟に小さな木の人形が腰かけている席がお気に入りで、いつからか先客がなければそこに案内していた。高校生がお茶をするには少し贅沢な値段設定で、一人で何度も来店する唯は自然と印象に残った。ゆっくり話す機会はなかったが、コーヒーを持っていくといつも本を読む手を止め、はにかんで頭を下げる姿が可愛らしい子だった。
「唯がよく行ってた喫茶店って、もしかして」
「そう。君と体の大きな男の子が二人で来た店」
恵太が息を呑むのが分かった。
「あの時、俺たちのことを見てたのか?」
「ここまで言っても思い出せないか。意外と、他人の顔って覚えてないものね。私は、君たちのテーブルに二回も行ったんだけどな」
不満そうに言いながらも、幽霊を名乗る上で遥の一番の懸念はそこだった。眼鏡を外して髪型を若干変えはしたが、恵太が顔を覚えていたら言い逃れは難しかっただろうと思う。
絶句している恵太を気にかけつつ、遥はさらに話を進める。まだまだ、伝えなくてはいけないことが残っている。
「あの時、私は自分が許せなくて仕方がなかった。唯ちゃんが死んだと知ってね。唯ちゃんがどれだけ生きたかっただろうって思うと、死にたいなんて考えてる自分がすごくちっぽけに思えた」
自分のことを殺したいぐらい嫌いになった。何か気が付けることはなかったのだろうかと自分を責めた。答えが出ないまま過ごしているときに現れたのが、彼だった。
「君の名前が聞こえた時、本当に嬉しかった。自分にもできることがあるんだって思ったの。でも、それも一瞬だったけど」
「一瞬って、どういう意味だ? それになんで俺の名前を知ってたんだ。唯から聞いたのか?」
恵太の矢継ぎ早の質問に、遥は一つだけ答えた。
「あの時、君が、死にたいって言ったのを聞いちゃったんだ。君、自分で言ったの覚えてる?」
「言った……かもしれないけど」
恵太は目を細め、俯いて記憶の糸を手繰り寄せるかのように唸っている。
予想通りの反応。遥の思った通り、そこに深い意図はなかったのだ。軽々しく希死念慮を口にする恵太を見つけたあの時。殺したいほど憎いと思っていた自分と恵太が重なった瞬間だった。
「まあ、そんなところだろうね。だから私はムカついたの。唯ちゃんが思いを託した相手がよりにもよって、死にたいなんて軽い気持ちで言い出すなんて」
「思いを、託す?」
恵太が遥の言葉を拾い、不思議そうに見つめてくる。
遥は胸が狭く、呼吸がしづらくなるのを感じた。目の端が滲んで、感情の爆発を抑えられるか不安になる。許されることではないと知りながらずっと隠し持っていた、唯の最後の意志に手をかける。
「ごめんなさい。これは、君のものなの」
片手で握りしめたそれを、遥は恵太に差し出した。
三
恵太は差し出された物の意味が理解できなかった。遥の手にあるそれは、恵太が受け取るべきものとは到底思えない。
「それ、幽霊のだろ。なんで俺に?」
一瞬なんと呼ぼうか迷ったが、呼び慣れた名で呼んだ。差し出されたのは、遥がいつも使っているスマホだった。
「本当に? よく見てみてよ」
促され、恵太は手に取って表も裏も見比べる。白いプラケースに入れられたそれは、言われてみれば見覚えがある気もした。懸命に頭の中の映像を呼び起こし、見つけた。小さな手に包まれているその瞬間が脳裏に浮かび、思わず声を上げそうになった。
「唯のだ。なんで、今まで気づかなかったんだ」
その答えを恵太はすぐに理解した。トレードマークのピエロが無くなっているからだ。唯のスマホはいつも、あのピエロがくっついているのが当たり前だった。それが莉花の手に渡り、何も付けられていないスマホは恵太の見慣れないものと化していた。
「これ、なんで幽霊が」
「唯ちゃんが、喫茶店に置いて行ったの。初めは忘れ物だと思ってたんだけど。でも、何日待っても取りに来ないから、悪いとは思ったんだけど中を見たの。登録されてる連絡先をあたって、本人に知らせられたらって思って。そうしたら」
遥は声を詰まらせ、目を逸らしてから言った。
「中身は、君の目で確かめたらいい」
「でも、それならなんで今まで持ってたんだ」
「言ったでしょ、ムカついたからだって」
遥は自分の肘を抱き、庇うように俯いた。吐き捨てるような言葉とは裏腹の、本心を押し殺している姿のように思えた。
「ムカついたからって、亡くなった人の大切な持ち物を隠し持ってたのよ。そのうえ君を騙して、連れ回したりして。最低でしょ。だから君は、私を許したりなんかしなくていい」
恵太は言葉に詰まった。遥は責められるべきなのだろうか。遥とのやり取りを思い出す。唯を信じろと、柄にもなく声を荒げていた。傷心の彰高に、前を向くよう説いた。その彼女に、悪意をもって恵太を騙そうとした意思があったとは思わない。そう結論づけようとしたときだった。
「さようなら。これで、会うのは最後だね」
扉に向き直り、ドアノブに手をかける遥を、恵太はただ見ていた。遥の突き放したような冷ややかな口調は、恵太をほんのわずかな時間凍り付かせた。振り向くこともなく扉の向こうの暗がりへ消えていく姿に、ようやく我に返った。
「おい、幽霊。待てよ」
恵太が何度か呼んだ声は、遥に届かなかっただろう。遮るように、冷たい鉄の扉が恵太と幽霊の境を仕切っていた。
恵太はしばらく扉を見つめた後、握ったままのスマホに目をやった。
四
恵太は今頃、スマホの中身を確認しているだろうか。
エレベーターを下り、遥は屋上を見上げた。始めた時に描いたものとは、随分違う形になった幽霊生活もこれでお終いだ。見上げても恵太の姿はおろか、屋上の大部分が見えないことを知って、遥は歩き始めた。
恵太と連絡をとるただ一つの手段は唯のスマホだった。それを返した以上、会うこともないだろう。遥は何度か鼻をすすり、今日までのことを思い返した。
きっかけは、唯が去った後の席で見つけたスマートフォンだった。落とし主として現れるはずの唯を待っていたのに、一週間待ってもやって来なかった。カフェの店長に持ち主に心当たりがあると伝えると、休憩時間に中身を見て連絡先を調べるように言われた。悪い気もしたが、探しているかもしれない。連絡先だけ見て早く返してあげた方がいいと考え起動させたその画面の異様さに、遥は強烈な違和感を覚えた。吸い込まれるようにその異様さの元に触れた時、遥は全てを知った。
すぐにあるべきところにスマホを返さねば。そんなことを考えながら、まだ残っていた午後の仕事時間を過ごす遥の前に、恵太が客として現れた。会話の内容から、恵太こそが自分の探している相手だという確信はすぐにもてた。スマホを返そうと近づいたところで、思いとどまる。恵太が、友人を連れていたからだ。渡す物の趣旨を考えると、一人の時に渡した方がいいだろう。タイミングを窺って、もし一人になるチャンスがなければやむを得ずスマホを返そう。そう考え、まずは機会を待った。そして見てしまう。店員として席に向かった時、恵太が「死にたい」と言い項垂れている姿を。
遥の中で、積もっていた何かが弾けたのはその時だった。唯という、他人を傷つけることを何よりも恐れた心優しい女の子。彼女の必死な戦いも知らず、軽々しく死にたいと口にした自分も恵太も、許容できるものではなかった。
唯によれば、恵太という名の彼から、唯の遺したそのスマホに電話がかかってくるのだという。それもどういうわけか、その番号は幽霊に繋がる番号だと伝わっているらしい。
遥に一つの閃きが降りた。唯の用意したこの設定に乗せ、自分を幽霊としてしまうのだ。そうすることで、過去の自分を殺してしまいたかった。生きているのか死んでいるのかも分からない日々を過ごしている自分には、幽霊という呼び名がお似合いだと思った。そう呼ばれることが、戒めになる気がした。
そしてもう一つの目的。恵太に、死にたいと言ったことを撤回させる。初めはそれだけだった。だが遥は恵太と過ごすうちに、それ意外の感情が生まれていることに気づいていた。恵太に、前を向かせたいと思った。唯の死因を探して奔走しながら、唯の考えが分からないと嘆き、唯も、自分すらも信じようとしない姿。その矛盾が、傷心の深さを感じさせた。
思えば、意地になっていたのかもしれないと、遥は長い息を吐く。幽霊として過去を捨てた自分は、今度こそ人を変えられる。そして、人は変われる。その可能性を信じたかったのかもしれない。
遥は、少し頬が緩むのを感じた。恵太はきっと、変わりつつあるのだろうということに気づいて。そして自分は、何一つ変われなかったのかもしれないと気づいて。
幽霊になると決めてからは、いくつか不安要素もあったが大方想定通りか、それ以上につつがなく進んだ。
まず、自分が自殺したという偽のニュース記事の画像を作っておいた。ネットで検索すると、作るためのツールは驚くほど簡単に見つけられた。そのデータを唯のスマホに移しておく。恵太と会う時は、唯のスマホだけを持っていくと決めていた。自分のスマホの中を見られ幽霊でないとバレたら、恵太と行動を共にするのは難しくなるだろうと考えた。
恵太から電話を受け、話を聞く。莉花という女の子にコンタクトを取りたいという恵太の希望は、唯のスマホを持つ遥には容易に叶えられるものだった。唯の姉と名乗り、莉花に連絡を取る。莉花には、遺族が勝手にスマホを調べたと知れると体裁が悪いので、連絡先を知った方法を人に聞かれても内密にして欲しいと伝えた。目的を達するまで、正体を知られる訳にはいかなかった。
桜町通りで唯の足取りを探したいと恵太が言い出した時、明確な計画は無かった。あの繁華街の中で、本当に行ったかどうかも分からない店を見つけることなど不可能に思えた。だからこそ、同行して現実を突きつけようと考えた。唯の痕跡を辿ることが困難だと分かれば、唯が死んだ現実を受け入れ次に進むことへ繋がる。それが、遥の考えの大半だった。
遥は今までのことを思い起こしながら、ふと足を止める。当てもなく歩いているつもりだったが、無意識に親近感のある景色を求めて学校の塀沿いに辿り着いていた。遥からすればゆかりの無い、唯が屋上から見下ろしていたという学校。高く白い壁で囲まれていて、中の様子は漏れてくる部活中らしい生徒の声から想像するしかない。
なるほど、と遥は思った。まだまだ、彼らは守られた世界に生きているのだろう。大人が思うより、当の本人たちも気づいていないほど、時に彼らの情報はバランスが悪いのだ。その気づきが、横にも縦にも店が連なる繁華街の中から、一軒の店に絞りこむという難題の突破口だった。
恵太は、桜町通りを過剰に警戒していた。もっとも、ドラッグや売春まがいの噂が過剰という話だ。実際に高校生が一人で大っぴらに歩いていたら、酔っ払いに絡まられるぐらいの面倒ごとや補導だってありえるだろうが。
恵太が警戒していた根拠は、全て学生たちの噂話によるもののようだった。であれば、唯も同じ認識だったのではないかと考えた。長い距離は歩かず入口に近ければ近いほど入りやすいだろう。桜町通りは途中で細かく枝分かれはあるものの、メインの通りは遥と恵太が通った一本道だ。細く暗い路地に入るよりも、明るく人が多い方を選ぶと想像した。後は、遥たちから見て入口になった側と、出口になった側のどちらから唯が入ったかだ。両方とも、最寄り駅からの距離は同じぐらい。条件として違うのは、ディミアンがある側がより開けた道に面しているということだろうか。恵太と一緒に入口に使った側は、一旦細い路地を通ってくる必要がある。危険と噂される通りに踏み入るには、開けている方が抵抗感が少ないのではないかと考えた。
とはいえ、唯がそこまで把握して入る場所を選んだかは分からない。遥からすれば、ママさんが唯のことを話し始めた時、人違いではないかと思ったほどだ。幽霊が想定していたのはせいぜい、唯の目撃情報に辿り着けるかどうかという程度で、唯が来た店そのものとは予想もしていなかった。
結果的に、遥の選択は当たっていたということになる。ダメ元とは言え、少しでも確率を高くしようと想像力を働かせたのは、自分なりの良心の呵責だったのかもしれない。終始どっちつかずだった自分の優柔不断さに、遥は肩をすくめた。
遥かが校舎を見上げながら歩いていると、自転車に乗る女性に無遠慮な視線を送られていることに気づいた。前から近づきすれ違っていくまで、訝し気な目で見てくる。学校を見て感傷に浸ることぐらい許されないのだろうか、と愚痴りたい気持ちを抑えて視線を校舎から外した。帰り方を考えるのも煩わしく、ひとまず大通りを目指して歩くことにした。
ディミアンに入った目的の本命は、恵太に考えを改めさせることだった。そのためには面倒な大人として説教も辞さない、という覚悟で臨んだつもりだった。景気づけに軽く口にしようと思ったアルコールが、必要以上に感情を煽ったのは否定できない。面倒な大人の役をするつもりが、本当に面倒な大人になってしまったと、あの後家に着いてから反省しきりだ。
恵太が唯の父親から真相を聞いたことで、自分の役目は終わったと思った。そんなものがあったのかも分からないが、もう、幽霊が恵太と関わる理由はなくなったのだ。遥が嫌悪していた、軽々しく死にたいと口にする恵太はもういない。あるのは、自分を薄情だと責め、唯を信じたくとも信じられないと苦しむ姿だ。それを救えるのは、唯と恵太自身に他ならないだろう。
スマホを返して詫び、幽霊は恵太の前から消える。死にたいと願っていた幽霊は過去のものにして、山岸遥として改めてやり直す。それが、遥が最後に選んだシナリオだった。
大きな通りを目指したことが功を奏してか、小さな商店の並びが見えた。ほとんどの店のシャッターが下りているが、本屋と帽子屋、和菓子屋が開いているのが分かる。どれを見ても、フサフサのはたきを持ったお年寄りが出てきそうな気がした。一生通りがかることがなかったはずの、町と町の隙間にある店に出会えたことが妙に愛おしく思える。遥は立ち止まり、和菓子屋に寄ってみることにした。恵太が、唯の願いを受け入れられるよう願いながら。
五
恵太は遥に渡された、光を発しないままのスマホを見つめていた。以前は、唯がこの場所で使っていた事だろう。それが今、自分の手の中に残されるとは。胸の奥の、締め付けるような感覚を受け入れながら、恵太はスマホを起動させた。
黒い画面に浮かび上がるように光る、ただ一つのアイコン。ビデオの再生ボタンに見える。恵太は眉をひそめた。通常あるべき、電話やカレンダーといった表示が何も見当たらない。戸惑いながら画面の背景に触れてみると、隠されるようにしていた電話帳などのアイコンが飛び出してくる。暗がりのホーム画面にただ一つ残していた、再生ボタンに唯の確かな意思を感じた。吸い込まれるようにそれに触れると、画面が切り替わって唯の顔が現れた。画面の中の小さな唯が、何やら話し出している。恵太は微かな風の音も煩わしく、音量を上げるボタンを押し続けた。
「こんにちは、恵太。それともこんばんは? 絶対、おはようじゃないでしょ」
唯だ。あの日、前触れなく恵太の世界から消えてしまった唯が、自分の名前を呼んでいる。あれから一か月も経っていないのに、懐かしさで胸がいっぱいになる。
「どう? 本当に幽霊に繋がったでしょ、あの電話番号。まあ、こうして喋っている私は今はまだ生きてるんだけどね。こんなまどろっこしいやり方しちゃったから、恵太の元に届くまで面倒だったかもね」
悪びれず、唯は自分のことを幽霊と言って笑う。本当に、なぜこんな遠回しな方法をとったんだと、恵太は文句を言ってやりたくなる。お陰で妙な幽霊が間に入って、恐らく唯が想定していた何十倍も面倒なことになった。幸い、現れた幽霊との出会いは悪いものでもなかったが。
「恵太、私が急に死んじゃってびっくりしたよね。実は私、病気でどっちにしろそのうち死んじゃうの。その変はさ、ウチの親に聞いてみて。お母さんはもう死んじゃってるから、お父さんにね。」
「もう知ってるっての」
恵太の乾いた呟きは、時折唸る風の音に紛れて消えていった。唯は考えながら話しているのか、目を伏せてなかなか次の言葉を始めようとしない。
「無茶苦茶だな、ほんと」
恵太は無意識に沈黙を埋めていた。ようやく唯が話し始めて、また耳を澄ませる。
「何から話そうかな。ねえ、なんで恵太のことを、生け贄って呼んだんだと思う?」
「ああ、少しは分かった気がする」
「私、十三歳の時にお母さんが死んだの。私が見つけたんだよ。ヒドイでしょ? 残された方は辛いんだよ。ずーっと、どんなに頑張ったって忘れることなんてできないんだから」
唯が、微かに声を詰まらせる。恵太が見たことのない、抱えようのない重圧と戦う唯の姿がそこにあった。
「だから、決めたの。私は死ぬまで誰とも関わらないって。仲良くなると、後で辛い思いをさせるだけだって。私のことなんかで傷つくの、誰だって嫌でしょ?」
彰高から聞いた話と同じだ。二度目の話であっても、唯に対して苛立っていた事実が恵太に後悔を迫る。恵太は渇いた喉へ、無理やり唾を押し込んだ。
「でも、学校に行くと辛くなっちゃってさ。誰とも話さないのも嫌だなって。だから、仲良くなってもいい人を一人だけ探すことにしたの。ごめんね恵太。本当は、今もそれで良か
ったのか分からないの」
「それで生け贄か」
「そういうこと」
返ってくるはずのない返事に、恵太は目を見開く。
「もう分かったでしょ? 一人だけ犠牲になってもらうから、生け贄ってこと。でも結局、竜海や莉花ちゃんとも関わっちゃったんだけど」
恵太の驚きに気づくはずもなく、唯は話続ける。こちらの言葉は届かないという当たり前を思い知らされ、恵太は苦笑いを浮かべた。
「ね、恵太。私のこと、忘れない?」
当たり前だろ、と心の中で呟く。
「三分あげるから、私のこと思い出して。私と一緒にいて、楽しかったこととか、嫌だったことでもいい」
「なんだよそれ。いいだろ、そんなことしなくたって」
「いいから、三分計ってるからね。よーいスタート」
どうやら真剣らしく、唯は画面に映っていない横の方を見つめている。時計でもあるのだろうか。
訳も分からないまま、恵太は唯の誘いに乗った。きっと、唯とこんな風にやりとりができる日はもう来ないのだから。
唯のことを思い出す。まずは初めて会った時だろうか。あの時からすでに、変わった奴だった。初対面の相手を生け贄呼ばわりするとは。確かに、唯が言った通りお人好しじゃないとできない役回りを承ったというわけだ。
最後に会った日も印象に残っている。嫌いだと言う癖に観覧車に乗りたがった。後から思えば、いっそのこと観覧車を止めて望みを叶えてしまえば良かったのに。そんなことを考えたがすぐに思いとどまり、恵太はかぶりを振った。本当に実行したら事件になってしまう。二人で警察に捕まるところを想像すると、それはそれで笑えてきた。
唯が死ぬ日まで、他にもたくさんのことを話して、行動を共にした。最後の日の直前の記憶を、恵太は一つでも多く思い出そうと辿る。
不意に、記憶に靄がかかった。恵太は予想外の異変に戸惑う。靄の向こうから手招きされているような、引き付けられる感覚。そこに思い出さないといけない何かがある気がするのに、思い出せない。なんとかその在り処に漕ぎつけようと目を強く閉じる。
『地球上にはたくさんの生物がいますが、笑うことができるのは人間だけです。さて、それはなぜでしょうか』
唯の声だ。以前、教室でそんな他愛のないクイズをした記憶がある。なぜ今になってこの記憶が蘇るのか、理解ができない。それでもその先に、何かの答えが潜んでいる気がして懸命に続きを思い出す。確か恵太が出した答えは外れで、唯の答えを聞く流れになったはずだ。
『私が思うに、人間って伝えたいから笑うんじゃないかな』
『私はこんなに嬉しい、楽しいって伝えたくて笑うんだよ、きっと』
恵太は笑った。そうか、そうかもしれない。唯が言った答えは、本当なのかもしれない。唯に楽しいと伝えたくて、今こうして笑っている。
「やっぱすげえな、唯は」
それなら、悲しいという思いはどうやって伝えたらいいのだろうか。考えるより先に、自分に教えられた。目から、ボタボタと塊になった涙が落ちていくのを感じる。やっと気づいた。だからあの日から、泣けなくなってしまったのだ。悲しいと一番伝えたい相手が、もうこの世にいないと知ってしまったから。
「なんで」
それ以上は、言葉にならなかった。声を出そうとしても、嗚咽にしかならない。本当はもっと、ぶつけたい疑問だらけだ。なんで唯が病気にならないといけなかったのか。なんで死ぬ前に言ってくれなかったのか。なんでもっと、優しくしてやれなかったのか。
言葉に出せず、恵太はただ泣いた。もう唯がそこにいないと分かっていても、伝えたくて泣いた。伝わると信じて涙を落とし続けた。
「どう? 思い出してくれた?」
唯の声がして、恵太は無理やり涙を拭った。拭っても拭っても足りず、ほとんど画面は見えないのに。それでも分かった。唯の目からも、静かに涙が下り頬を伝っていく。
「なんで、泣いてんだろ。泣かないって決めてたのにな」
唯は戸惑ったように、か細い指で涙の跡を辿った。
「ほんとだよ。明るく話すって決めてたんだけど」
無理に口角を上げ、くしゃっと笑う唯の目からまた涙が零れる。痛いほど、その悲しみが伝わった。恵太は全ての言葉を聞き逃さないよう、嗚咽を飲み込んだ。
「恵太、最後に私のお願いを聞いてくれる?」
恵太は押し潰されそうな思いで唯を見た。最後、という言葉に胸の中が狭くなる。
「私、ずっと考えてたんだ。なんのために生まれてきたんだろう。私が生きてきた意味なんて、何もなかったんだなって。誰にも気にされずに死んで、この世界から消えていく。お母さんが死んだのも、病気のことも、それが私に与えられた運命なんだって。でも」
画面の中の唯が、微かに声を震わせる。
「今さらになってやっと分かった。運命が変えられないとしても、私はちゃんと生きてるんだって。生きた意味が無かったかどうかなんて、まだ分からない」
恵太は、その答えの方が唯らしいと思った。恵太が見てきた唯は、いつだって自分の強い意志を貫いていた。
「だから、最後に運命に逆らってみようって思ったの。もしこのメッセージが恵太の元に届いたらね、賭けは私の勝ち。きっと、私が生きた意味はあったってこと。その時は」
唯が俯く。恵太まで、恐らく唯がそうであるように身を強張らせる。恵太は目元から零れる涙を一つ拭った。
「お願い恵太、私のことを覚えていて。それが、私の生きた意味になる」
唯の声だけが、恵太の耳を通り続ける。
「いつか、誰の記憶からも消えてしまうのが怖い」
頭の中が痺れつくような感覚とともに、恵太は画面を見続けた。呆けたように放り出したままの手の中で、気づけば動画は終わっていた。明るく繕った「今までありがとう。バイバイ」という唯の最後の声が、頭の中で繰り返されては消える。
恵太は立ち上がり、動き出すことを拒む体を奮い立たせる。本当は留まっていたかった。唯が見ていた屋上からの景色が、今なら違う世界に見える気がする。それでも恵太は、その場を離れることを選んだ。唯の、最後の願いを叶えるためにできること。同時に、唯の考えを否定すること。
一歩目を踏み出してからは、夢中だった。呼び出したエレベーターが上がってくるまでの時間さえ、もどかしくて扉にすがりつく。一階に向かうまでの間、恵太は逸る気持ちを抑え考え、得た結論にかぶりを振った。やはり、この機会を逃せば幽霊と再び会うのは難しそうだ。
マンションを飛び出て、恵太は辺りを見回した。予想通り、幽霊の姿はない。学校側か、反対側か。考えるのももどかしく、目についた校舎の方へ駆け出した。
恵太には、どうしても覆したいことがあった。唯が、自分を記憶に残したい人なんていないと言ったこと。関われば後悔するだけだと思い込んでいたこと。
「そんなわけないだろ」
思わず口をついて出る。弾んでくる息を気にせず、あてもなく走った。
唯がどんなに人との関わりを避けても、唯の死を悔やんで、忘れたくないと願う人がいる。竜海も、莉花も、もっと唯と一緒にいたかったはずだ。そして幽霊。彼女もきっと、唯に惹かれた一人だった。
見つけなければ。彼女に会って、どうするのかは恵太自身もまだ分かっていない。それでも、これで終わらせてはいけないという確信があった。額から汗が伝い、目に入る。涙と汗で、どれだけ体の水分を失ったのだろう。唯がいれば、どれぐらいで脱水症になるのか事細かに説明してくれそうな気がする。場違いなことを思い、恵太は笑った。シャッターが下りた店が並ぶ視界の端に、本屋があるのを見つけた。よぎる、鞄の中を本で埋め尽くしていた唯の姿。無事幽霊を見つけたら、本でも買って帰ろうか。恵太はそんなことを考えながら、幽霊を探して辺りを見回した。
エピローグ
夏休みが終わった倦怠感と、再会にはしゃぐ仄かな期待感。まだどこかよそよそしい、本調子でない教室。人生で何度となく繰り返してきた光景を、彼女は初めての感覚で迎えていた。安心するような、少しこそばゆいような。
休み時間になって、彼女は廊下に出た。用事がなくても、時々一人になる時間を欲しがった。軽い足取りで、気ままに歩く先。目に飛び込んだものに彼女は意表を突かれ、思わず足を止めた。
「なにしてんの、莉花」
声を掛けられ、莉花は半分笑みを作って返事をする。視線は壁に貼られたそれから離さず、やがて難しい顔になっていった。
「何真剣に読んでんの? 校内新聞なんてさ」
「ちょっとね」
目玉記事の扱いと思われる、一番初めの、面積の大きい記事が目に入る。
『ヘイトロッカにまつわる連続自殺、ついに解決?』
本文を斜め読みし、莉花は表情を緩めた。タイトル通りの内容で、以前莉花が話したインタビューのことも書かれている。すっかり存在を忘れていた莉花にとって、自分を特定されるような情報が載っていなかったことは十分安堵に値するものだった。
「行こっか」
莉花は笑ってクラスメイトに声をかける。何も知らないはずの相手が、笑顔を返してくれた。歩き出そうとした時、紙面の終わりの部分に見慣れた文字がある気がした。
「あ、待って」
再度見直し、以前恵太に提案されたことを思い出した。数行だけの簡素な記事に目を通し、二度三度と満足気に頷く。新聞部が作った訃報の記事だ。唯の死を悼む文とともに、最後に添えられた言葉が莉花の気を引いた。
『小川唯とともに過ごした時間を、生涯忘れないとここに誓います。坂井恵太 木田竜海 柳莉花 山岸遥』
ああでもない、こうでもないと、慣れない文章の作成に頭を抱えていた恵太の姿を思い出す。莉花は思わず微笑んだ。
「なんか、結婚式の誓いみたい」
「なんのこと?」
「なんでもないよ」
莉花は満足気に頷いて後ろに手を組み、軽やかに歩き始めた。
了