さらに驚きなことに、更新していない間に未公開の小説が二本出来上がっております…
まあ、ここで公開するということは選考途中で落ちてしまっているんですけどね(涙)
今回は、昨今一次選考の通過率が3%前後と厳しい門になりつつある、すばる新人賞の一次選考を通過した作品です。
こんな感じのクオリティだと二次までかあ…と参考にしたり、まだまだ甘いな素人め、とほくそ笑んで頂いたりとご自由にお使いください。
緘黙(かんもく)症と喫茶店なお話です。雑な説明すみません…。
↓では以下より本編です。 今年はぼちぼちと記事も更新していきたいなと考えております。
題:アンテナブーストガール (すばる新人賞では『外に向かって打ち放て』というタイトルでした)
一
ノニの木というものがある。日本国内が発祥で、陰鬱な気候と湿度があれば水すらなくても勝手に育つ。増えすぎたので輸出をして生活費の足しにしたいけど、誰からも歓迎される日は来ない。
同じ名前の、東南アジア原産である苦くて体にいいらしい植物とは別物だ。
以前、絵に描いてみたことがあった。私の想像上の木だけど、誰かに見せて共感して欲しかったわけじゃない。絵を勉強するうえで、人以外のものも練習してみた方がいいかという気まぐれだった。描いてみたら大きな嵩になったのできっと広葉樹だ。葉っぱの一枚一枚が、風により「ノニ」と音を立てることが名前の由来。出来上がりを見て、なんとも言えない気持ちになる。もっと茶色や濃い紫のようなイメージだったのに、気づいたら愛想ばかりのいい軽い色調になっていた。
夕陽に映える紅葉として、ネット上にアップすれば誰かがカワイイとは言ってくれるだろう。最近アニメ系のイラストばかり描いていた癖か。本当は、もっと違った色使いだってできたはずなのに。
のに、のに、のに。
ずっと私の頭の中に居座っている言葉だ。
始めは『なのに』だったはず。いつの間にか可能なときは一文字減らして、文字数を節約するようになっていた。
高校生のころ、クラスの誰かが話していた覚えがある。
「名前ってさ、死ぬまでに何万回書くんだろう。画数が多いと使うエネルギーって馬鹿にならないじゃん? だから私は、自分の子どもは一って名前にするって決めてんだ。賢いでしょ」
そういえば、話していた当人は麗美瑠って名前だった。そりゃあ一と名付けたくもなるな。分からなかったクイズが解けたような気がして、鼻歌と含み笑いがこぼれた。
麗美瑠嬢がこの先も名前を書き続けることを憂いたように、いつからか私も『なのに』を繰り返すことが億劫になった。
目の前のエレベーターのボタンが、横から伸びた手で押される。つい、手の持ち主の女性と目が合ってしまう。一人で高校時代を思い出し、ほくそ笑む怪しい女。そんな私の正体が見透かされた気がして、目を逸らした。
「押し忘れてるわよ」
紫外線対策らしい帽子とサングラスで顔は見えなくとも、組み直した腕が語っていた。ありがとうと言いなさい。
私はぎこちなくお辞儀をしてみせる。何千回もしている動作だろうに、一向に体に馴染まない。手足に針金が通っているかのように、堅く頭を起こした。一方で心の声のノニはすっかりお馴染みだ。
そのボタンは押さなくてもいいのに。
ちなみに『なのに』を使うと、
それは押さなくてもいいボタンなのに、となる。いくらか文字数の省エネに成功。
二基のエレベーターの間のボタンに目をやる。女性が押し忘れと決めつけたのとは違う方、私が押しておいたボタン側のエレベーターが開く。
ほうら。心の中だけで呟く。結菜ちゃんとの約束でよく使うこのショッピングモールは、二基あるエレベーターそれぞれのボタンが独立している。二基のうち、先に来るエレベーターはどちらか。階数表示を見上げ、片方だけボタンを押すのが私のお決まりだった。
女性は私の存在など忘れたように中に進み、私も続いた。
女性の押した先が別の階だと確認してから、私は六階を押した。人と乗るエレベーターは苦手だ。原因は分かりきっている。中学三年生、二学期ももう終わりが見えていた十二月二十三日の午後五時頃からだ。
あいつさえいなければ、エレベーターなんか平気だったのに。
気が付くと拳が硬くなっていて、爪が食い込んだ跡ができていた。自分で作った爪痕をたどっていると、DV後の男の人ってこんな気分なのかもしれない、と多分的ハズレな考えが浮かんだ。
五階に来てようやく、紫外線嫌いの彼女はエレベーターを去っていった。乗り込んでくる人もなく、私はドアを閉めるボタンを押した。
もうあと数秒で六階に着く。私がエレベーターを一基しか止めないのは、この耐えがたい時間を一秒でも減らしたいからだ。あの彼女が押したもう一基のエレベーターは、誰も望まない開閉を行い、乗客の拘束時間を引き延ばす。自分が押すボタンによって、同じことが起こるようにはしたくなかった。それがたとえ、私がいないエレベーターだとしても。
必要な方しか押さなければ、みんなの待ち時間が減るのに。
それを訴える術をもたない私は、いつまでも『押し忘れてる人』らしい。
最上階の六階は、飾り気も愛想も何もない。クリーム色の床と空きテナントの看板が、なんのようですか? と言いたげに視界を埋める。出来心で足を踏み入れてしまった人の多くは、間違えました、すみません。と詫びてエレベーターへ逆戻りしてしまうんじゃないか。
相変わらず媚びのない景色を無視して、奥へ向かう。以前は本屋と百円ショップがあった場所は、壁に囲まれて中を見ることもできない。
この建物が葉名知サンフレッシュというショッピングモールになったのが十年前。建物はその前からあったらしいけど、元がなんだったのか、私たちには大して重要じゃなかった。小学校六年生だった私と結菜ちゃんにとっては、退屈な通学路に都会が降ってきたように思えた。正確には、結菜ちゃんにとって、という方が合っているか。新しく店がオープンすると知っては私を連れて行きたがって、私も付いて行くのが当たり前だった。高いお金を出して飲んでみたコーヒーの味が理解できなくても、三百円で買ったお揃いのポーチが子供だましでも、二人でいれば楽しかった。
たかだか十年経った今、葉名知サンフレッシュは誰から見ても異論のない、駅前開発失敗の象徴となった。眩しく新鮮でありたい願いからきただろう名前が一層悲しい。
とりわけ六階は空白が多く、従業員一人しか見たことがない宝石店と、私たちがよく行く洋食レストラン兼カフェ兼オーガニック食品販売店という無茶な店しか生き残っていない。
店に入ると結菜ちゃんの姿はすぐに見つかった。ここ数年、めっきり人が減ってからは一番奥の席がほぼ指定席になっている。一番奥といっても入り口まで全て見通せる程度の広さしかない。あの殺風景な景色を見つめる窓側よりマシ、という消去法で選ばれた席。
向かいに座ると、結菜ちゃんは触っていたスマホに目を落としたまま
「お疲れ」
とお決まりのフレーズで口元だけニッと笑った。
私もお決まりで、精いっぱい『ニッ』の口を作る。小学校二年生のとき、結菜ちゃんが私に練習するよう言ってからするようになった顔だ。結菜ちゃんに言わせれば、「七十点」らしくとうとう百点はもらえないまま大人になった。
一緒に練習しすぎたせいか、そのあともずっと私がそうするせいか、結菜ちゃんも口元だけで笑っていることがある。とても不器用に見えて、それがかわいらしいとも思うけど、半分私のせいなので気づかないふりをしている。
私がメニューのオムライスを指さすと、結菜ちゃんが店員さんを呼んでくれる。
「すいませーん」
人がいない店内で、結菜ちゃんの声はちょっと大げさなぐらいに響いた。どんなに男子がうるさく騒いでいても、結菜ちゃんの一声はクラス中に届いていた。
「先生に言うよ!」
いつだって正しく胸を張っていた結菜ちゃんが思い浮かんで、つい噴き出してしまう。
「なに? 今なんか笑ったよね」
いたずらっぽく私の顔を覗き込んでくる。私はわざと笑った顔のまま、ぶんぶん首を横に振る。
「ウソつき、笑ってるもん! ちょっと、何考えてたのか教えなよ」
結菜ちゃんも笑ったまま、軽く私の肩を小突く。元々スポーツが得意だったうえに、大学でダイビングサークルに入っているという結菜ちゃんの腕は、また一段健康的になっている気がした。小突いた程度でも厚い掌の感触がする。
思わず声が出そうになって、くすぐられているように身をよじらせごまかす。結菜ちゃんが何か言いかけたところで店員さんが来て、結菜ちゃんは二人分の注文をしてくれた。
運ばれてきた料理を食べながら、結菜ちゃんは流暢に近況報告をしてくれる。私たちの、お決まりのパターン。
サークルで行った旅行先のこと、最近よく行くオムライスが美味しい店のこと。就職活動が始まると嘆きかけたところで、
「やっぱりいいや、他の話にする」
とおろしハンバーグの最後のひとかけを口に運んだ。ずいぶん前に食べ終わっていた私は、膝に手を置いたまま頷く。喋らない分、いつも私の方が食べ終わるのが早い。
「彼氏ができたの」
もう一回頷く。結菜ちゃんに彼氏ができると、話題はしばらく彼氏のこと一色になるので私にとっては特に嬉しくもない。彼氏が変わるたびに、彼の好きなところや趣味の話になる。三か月もすれば彼の嫌いなところを聞かされる。最近彼の話をしないな、と思ったら別れのサイン。毎回結菜ちゃんは違う話をしているつもりでも、私からすれば飽きないことに感心してしまうほど同じ話だ。
「こんなに私のことを見てくれる彼は初めてだし、私も真剣にその気持ちに答えたいなって思う」
このセリフも、毎回言い回しが違うだけだ。中学生から今まで、全部記録に残しておけば立派な結菜ちゃん史が出来上がっただろう。本当に記録をつけたら面白いんじゃないかと、何度か思い立ったことがある。けどそれは、俗にいう黒歴史というやつを形にする行為なので自制している。私なりの、結菜ちゃんに対する誠意のつもり。色恋沙汰にさえ溺れていなければ、頼りになる唯一の友人なのだ。
結菜ちゃんはそそくさとスマホを取り出し、彼の写真を差し出してきた。ウェットスーツから色白の顔を出している彼は、結菜ちゃんがほうきで叩いていた大人しい男子たちを連想させた。あれは、確か掃除中に隠れてスマホのゲームをしていたところを見つけたときだった。
「だから、あやちゃんとはもう会うのをやめようと思って」
急に自分の名前が出てきて、慌てて結菜ちゃんの言葉に耳を澄ます。胸がざわつく。
今、なんて?
「会わないのはね、あやちゃんのためなんだよ」
彼氏ができたから、もう会わない? 理解不能だ。なんの冗談だろう。
「あやちゃんも、大事な人ができたらきっと喋れるようになると思うの。あやちゃん、このままじゃヤバイよ。仕事は? 結婚は? もう私たち二十歳すぎちゃったんだよ? というか、あやちゃん大学も行ってないんだから、今すでにヤバイんだよ。分かってる?」
結菜ちゃんが口を開けば開くほど、聞こえる言葉は耳を素通りしていく。意味のあるものとしてまとまらない。私が首を傾げるといつも結菜ちゃんは疑問に答えてくれるのに、今日は気づかないふりでもしているみたいに一方的だ。さっきまで一言ずつ絞るように話していた結菜ちゃんが、今は生き生きしているようにさえ見えた。まるで、重たい鎖から解き放たれたような。
「だから、ね、私はミっくんと幸せになってみせるから、あやちゃんも頑張って」
今日の本当の用件はそれだったの。言いながら速やかにテーブル上の食器を重ね、スマホをハンドバッグにしまっている。
どこに行くの?
言葉の代わりに伸ばしたつもりの手は、膝の上でお行儀よくしているだけだった。
私にだって手を伸ばすぐらいはできるはずなのに。
冗談だよね? 冗談だって思うのに、なぜ私の体は動かないんだろう。
「ごめんね」
椅子をテーブルに戻す音に紛れて、結菜ちゃんの声がした。顔も上げられない私には、結菜ちゃんがどんな顔で言ったのか分からなかった。ただ、いつも待ち合わせに遅れてやってきたとき、笑って駆け寄る結菜ちゃんの声と変わらない気がした。
二
「僕が思うに、全てをふっ飛ばしてくれる魔法なんですよ」
私を今の景色に引き戻したのは、騒がしく響いてきた声だった。演説でもしているかのように、高々とした宣言。スマホに目をやると、結菜ちゃんと別れてから二時間ほど経っていた。
逃げ込むようにして入った喫茶店。カウンターには五体の人形が足を投げ出して座っていて、操ってくれる主人を待つように項垂れている。青い服を着ていたり赤いリボンをしていたり、それぞれ着こなしが違うけど同じシリーズの物だと分かった。どれも目が小さな黒丸で、材質もぬいぐるみに近い布地のもので統一されていた。二席分のカウンタースペースが人形に占めらている恰好だ。きっと不満をもつよりも微笑ましいと受け取る人が多いんだ、と勝手に思える店の雰囲気があった。
全てをふっ飛ばしてくれる魔法。
そんなものがあれば、私のこの救いようのなさそうな気持ちもふっ飛ばしてくれるのだろうか。
魔法の正体を知りたくて、私は声の主を探した。テレビを見上げる茶髪の横顔。細く尖った鼻と、クルっと耳を覆うパーマが化粧前のピエロみたいに見えた。早々に期待感を無くさせる、真剣みのない声が続く。
「ここで一発、魅せてくれよ新外国人。外のスライダーは捨てるんだ」
「ゴマくん、さっきまで巨人の応援してなかったっけ?」
茶髪の男に呼びかけながら、紺色のデニムエプロンをまとった店主らしき人が近づいてくる。灰色交じりの髪は、口を覆い隠すような顎ひげとつながっている。厚手のエプロンからはみ出たお腹を合わせると、森の木こりみたいに見えた。
「僕レベルにもなると、チームなんていうものは超越していますから。だいたいスポーツというのは、筋書きのないドラマを求めて見るためにあるんです。ずっとダメダメのディークがこの勝負所で一発打つ、それこそ王道エンターテイメントでしょう!」
僕には邪道な楽しみ方にしか思えないけどねえ。髭のすき間から、私にしか聞こえない呟きが漏れる。
「いらっしゃい。注文はお決まりかな?」
今度ははっきり、私の顔を覗き込むように店主が尋ねた。まだ決めていなかったけど、私にとってこの接触チャンスは逃せない。デザートのページを値段順に追って、一番高いダブルサイズパンケーキを見つける。食べきれそうにないから、二番目に高いものを探す。自家製生チョコレート、八百円。写真ではたった五粒か六粒しかないようにみえるけど八百円。これだ。と、それとコーヒーセットを指さす。
「うちのチョコレートはね、期待してもらっていいよ」
店主が去り際に満足そうに笑うと、髭も一緒に笑って見えた。髪は灰色だけど、ちょうど鼻あたりの高さからは真っ白だった。あの辺が髪と髭の境界線?
「ああもうっ、なんでそんな分かり切った釣り玉に手を出すかなあ」
茶髪男が力なくのけぞる。その隣には、肘をついてテレビを見上げる赤い割烹着の後ろ姿。
「そら見たことか、ゴマオと同じだよ。一発ホームラン打って目立とうってことしか考えてないからあんな大振りするんだよ」
栗色の髪を栗みたいな形に尖らせた後ろ頭は、赤い服とピアスが無ければ若い男と間違えていたと思う。肘をついているにしても頭の位置が低くて、テーブルに顎が乗っているみたいだ。ちぢこめたシルエットが気だるそうに足をぶらつかせると、なんだかそういうぬいぐるみみたいに見えてくる。
「辛辣だなあ、おかーさんは。いいですか、どんな守備の名手がいようが、盗塁やバントで緻密な野球をしようが、ドカンとフェンスを越えてしまえば関係ない。全てふっ飛ばしてくれる魔法がホームランなんですよ。そりゃ追い求めるしかないってやつでしょ」
「そんな口先だけデカいことばかり言ってるから、ゴマオは無職なんだよ」
「今それ関係ないじゃないですか。というか、僕は無職じゃないですし」
茶髪男が不服そうにしても、おかあさんと呼ばれた女の人はテレビを見上げたままだ。よく見ると堂々と腰を下ろしているその椅子は、茶髪男と同じテーブルにいながら高さもデザインも違っていた。店内は木製のテーブルと椅子で統一されているのに、その椅子だけ中華料理屋から持ってきたような赤い座面と鉄の足だ。割烹着からしてこの店の店員さんなんだろうけど、店員さん専用の椅子でもあるんだろうか。
それにしても。
全てをふっ飛ばしてくれる魔法。
その響きに惹かれた自分を嘲笑したくなる。なにせ茶髪男が提唱する魔法とは、野球のホームランのことなのだから。
ホームランでは解決できない問題がここにあるんですけど。
茶髪男に言ってやりたかった。
もちろん本当に言うつもりはないし、結局自分で現実と戦うしかない。結菜ちゃんは去っていってしまった。
彼の思いに答えたいから。
結菜ちゃんはそう言っていた。それと、私と会わなくなることになんの関係があるんだろう。
結婚は? 仕事は?
それと、結菜ちゃんが会わなくなるということとなんの関係があるんだろう。
大事な人ができたら、きっと喋れるようになるよ。
私がいつ、喋れるようにしてって頼んだんだろう。
「お待たせしました、舞鳥町で一番おいしいチョコレートと、コーヒーのセット」
再び現れた木こりのおじさん。考え込んでいて会釈するのも忘れていた私に、構わず頷いて去っていく。
「大丈夫だよ」と頷いてくれていたのかもしれない。勝手に都合よく解釈しても許してくれそうな、誰も傷つけない仕草だった。
嫌なことがあったときこそ、美味しいものを食べるんだ。
結菜ちゃんの受け売りだった。美味しいものを食べなくちゃ。急かされるように商店街をさまよって、見つけたのがこの喫茶店だ。
辛い時は、値段を気にせず高いものを食べるといいんだよ、といつかの結菜ちゃんの声が聞こえて注文したできるだけ高いデザート。目の前に置かれたそれは、飾り気のないただただ五個の四角だった。真ん中のチョコレートを四個が囲むように並んでいる。真ん中だけ、上に何かチョコレートと同じ色の粒が添えられていて存在感があった。
コーヒーにミルクを入れ、ティースプーンでかき混ぜる。ティースプーンと同じぐらい小さなフォークをチョコレートに突き刺すと、そのまま口に運べそうなサイズだった。
疑いようもなく美味しそうなのだけど、今これを咀嚼し飲み込む自分を想像できない。本当に、落ち込んだときは美味しいものを食べるのが正解なんだろうか。
ずっと分かったような顔をしてきたけど、結菜ちゃんの話は実は分からないことが多い。小学校二年生で初めて会って、私に「早く元気になってね」と声をかけてくれてから。別にどこも悪くないのに、「すぐに良くなるよ」と言い続けていた。中学校になって、誰かが喋らない私をからかうと「あやちゃんは小さいころにショックなことがあって、トラウマがあるから喋れなくなったんだよ。みんなで優しくしてあげようよ」と言って回った。いつの間にか私は、何か重大な過去があって喋れなくなった気の毒な子、という設定になっていた。
結菜ちゃんが読んだ漫画にそういう人物が出てきたらしく、渡されて私もその漫画を読んだ。私にそんな過去なんてないから、否定したけど結菜ちゃんの中では決まったらしかった。あの時だって、今日だって、結菜ちゃんが言うことは時々よく分からない。
ひとつ息を吐いて、フォークを刺したままのチョコレートを見つめる。食べなくてもいいかと思ったけど、手つかずで店を出る勇気もなくて、私は一個をさらに半分に切って口へ運んだ。
ふわっと甘い香りがして、力が抜ける感覚。一瞬チョコレートのことしか考えられなくなって、舌から、鼻から、喉からその甘みが消えていくのが名残惜しかった。半分にしたもう一切れに勝手に手が向かうところで、微かにラムレーズンの香りがして動きが止まる。捕まえようとすると香りは溶け消えてしまって、もう一切れを口に入れずにはいられなかった。再現しようと、二個目のチョコレートも一気に食べてしまいそうになる。皿の上の四個が宝物に見えて、一旦コーヒーを飲んで落ち着くことにした。それなのに、コーヒーが合わさったときの残り香といったら、ずっと記憶に留めて消したくないとさえ思えた。数秒間だけど、間違いなくチョコレートの力に心を奪われていた。
「あ、おかえり。ミューズちゃん」
茶髪男の声、と一瞬で私を現実世界に引き戻す名前。条件反射で鼓動が速くなる。ミューズ。永遠に関わりたくないと願うあいつ、持田美柚子(みゆず)の愛称。
「いらっしゃい。今日も巨人が勝ってんだねー。ゴマくん的にはつまんないでしょ」
あの声だ。能天気に話すあの声に隠れた悪意を、私はよく知っている。私から、未来を奪っていったあの声。高校生以来にも関わらず、私の体は決して忘れていなかった。足がすくんで、体が動かせなくなる。
「ミューズ、座る前にそのまま一番から七番を拭いといて」
「なんでよ。おっかあがやればいいじゃん」
「おっかあはゴマオが仕事を探すまで見張らにゃならん」
「だから僕はちゃんと仕事してますってば」
三人が笑い合う声がする間、私は懸命に頭を働かせる。おっかあという呼び名からするに、あの赤い割烹着姿の人は持田美柚子の母なのだろう。そして恐らくは、木こりおじさんはお父さん。まさか、ここが持田美柚子の家の店だなんて。なんとかして、私の存在に気づかれる前に逃げ出さないといけない。私は三人がいる方を見ることもできないまま、両手で顔を覆った。もし持田美柚子がこちらを向けば遮るものはなく、すぐに見つかってしまう距離。想像するだけで気が気じゃなかった。とにかくまずは立ち上がろう。お会計まで行けば、無理にでも顔を隠して店を出てしまえばいい。そう決めた目の前に、運ばれてきたばかりのチョコレートとコーヒーが並んでいた。
『うちのチョコレートはね、期待してくれていいよ』
木こり店長の言葉通りか、それ以上だった。こんなに美味しいチョコレートが存在するなんて知らなかった。悲しみが美味しさで癒える瞬間があることを、初めて知った。このままほとんど手つかずで去ったら、私の受けた感銘は伝わらない。それどころか、口に合わなくて帰ったと受け取られるかもしれない。
ギリギリのところで踏みとどまり、お皿と対峙した。顔を片手で隠したまま、チョコレートを口にかきこんでいく。美味しい、なのに胃からせり上がってくる感触が止まらない。いつか聞いた持田美柚子の囁き声が響いて、まっすぐ座っているのかさえ分からなくなる。惨めさに揺れる。震える。嗚咽が漏れる。
何をやっているんだろう。誰が悪いんだろう。結菜ちゃんだろうか。こんなところでのうのうと楽しく暮らしている持田美柚子だろうか。違う、きっと私が悪い。持田美柚子の店を選んでしまった私が悪い。結菜ちゃんが去っていったのだってきっと、私のせいだ。結菜ちゃんは、本当はきっとずっと前から私のことを。
「ねえキミ、大丈夫?」
すぐ隣から声がして、顔を覆っている左手が涙でぐちゃぐちゃなことに気づく。手だけじゃない、頬も鼻も口もだ。握ったままのフォークを置いて、右手で顔を拭う。なんの足しにもならず、涙を顔にぬりたくっただけだ。
「傷心のところ申し訳ない、でもあんまり泣いてるからさすがに心配で」
声の主はあの茶髪男らしい。私のテーブルの横で、かがんで私を窺うような体勢でいるのが気配で分かる。
「ミューズちゃん、ほら、こういうのは男の僕が話すより女の子の出番でしょ。ミューズちゃんも聞いてあげてよ」
持田美柚子がすぐそばにいる。駆け出したい衝動と、手も足も動かせない閉塞感とでおかしくなりそうだ。今の私は、布団にくるまって雷が鳴りやむのを待つ子どもと何も変わらない。
「そっとしておいてあげなよ。一人で泣きたいときだってあるでしょ」
持田美柚子の声。茶髪男より少し離れたところから聞こえた。私に気づいているのかどうか、声の調子からは読み取れなかった。
「ミューズちゃんらしくないよ。いつもならほっとかないでしょ」
「知らない。ほら、隣にいたらゆっくり泣けないでしょ。戻った戻った」
「いーや、戻らない。僕は見捨てられない」
「じゃあ勝手にすれば? おっかあ電話してるし、お客さん来るかもしれないのに相手してらんない」
言い捨て、持田美柚子が離れていく気配がする。その声ひとつひとつに固くなっていた私の鼓動は、急激に落ち着きを取り戻していく。
いつも客の準備なんかしてないじゃん。茶髪男が漏らした声が聞こえた。
三
「ねえキミ、嫌じゃなかったら何があったか話してみてよ。ほら、話すだけでスッキリすることってあるじゃない」
顔を両手で隠したままの私の横で、茶髪男はあの手この手と言葉を変えて語り掛けてくる。どこからか椅子まで持ってきて、本格的に居座ってしまった。
真っ暗な視界の中にいると、そこに人がいる気がしないせいか無視していることの罪悪感は感じない。その分、延々続く声への煩わしさを強く感じるようになってきた。
「まずはさ、顔だけでも上げてみるのはどうだろう。そうだ、顔を見せてくれたらそれで僕は安心して離れられるから」
その一言で私はあっけなく顔を上げることにした。それでこの状況から解放されるなら安いものだ。ぼやけた視界の先に、やはりあの茶髪男がいた。ぎゅっと目を開け閉めして、ようやくまともに見えるようになってきた。
「ああよかった! どう? 顔を上げてみたらスッキリしたでしょ? でさ、この勢いで何があったか話しちゃえば? 落ち込んだときっていうのは、誰かに話すのが一番だよね」
何がそんなに嬉しいのか、茶髪男は目を輝かせてまくしたてる。ハンドバッグを振り回して追い払いたい気もしたけど、泣き疲れた今は大きく一息吐き出すので精いっぱいだった。伝われ、嫌がられていると伝われ。
「いいよ、慌てなくてもいいから。ゆっくり息をして、ひとつずつ話していこう」
二度目となる私のため息は違和感があった。なんだか、自分が思ったよりも大きな音になったような。はっと、私は背後の気配に気づく。自分と重なった、もう一つのため息の主がそこにいる。
「当店でのナンパはお断りなんですけど」
いつまでも消えてくれないあの声。考えるより先に、私は白々しいと分かっても再び顔を隠した。
「ナンパだなんて、心外だな。ミューズちゃんが助けてあげないから僕はこうやって話を聞こうとしているんだよ」
持田美柚子から、もう一度大きなため息が聞こえた。私の想像の中で持田美柚子は、中学時代の制服を着て不機嫌そうに腕組みをしている。
「この子は喋らないよ。そうでしょ? 戸村」
私は頷くことも、逃げ出すことも、顔を覆う手を解くこともしなかった。私が選べる行動は、何もしないだけ。ただこの時間が、ウソのように消えてくれるのを待つだけ。
私の手に、誰かが触れて視界が開ける。導くような柔らかな手つきに、私はされるがままだった。
持田美柚子がそこにいた。茶髪男の前に割り込むようにして、屈んで私の顔を見上げている。いつかの蔑むような目ではなかった。私を見る両目は震えていて、私よりも怯えているような気がした。
「知り合い、ってこと?」
「そう、高校まで一緒だった」
持田美柚子は私の隣の席へと座った。茶髪男と持田美柚子に挟まれる恰好になって、私は誰もいない机上へと目を落とす。
「なんだよ、それならなおさら助けてあげなきゃ。やっぱりミューズちゃんらしくないよ、あ、でもこうやって戻って来たあたりはさすが優しいねミューズちゃん」
久しぶりに見る持田美柚子は、相変わらず明るい顔立ちをしていた。大きな目と、えへへと照れた笑いがよく似合う口元。
中学校のころ、持田美柚子は先生から褒められて「えへへ、ありがと先生」と喜んでいる姿が印象的だった。小学生時代と違い、先生から褒められたときの皆の反応は複雑で、嫌がったり謙遜したり、言い返したりする子が多い。だからか、先生もあまりあからさまには褒めなかったりするんだけど、持田美柚子はよく褒められ、よく喜んでいた。今思えば、先生から見てもつい褒めたくなる生徒だったのだろう。
だから余計に、朗らかなはずの彼女が私に向ける敵意が理不尽で怖かった。
「何があったか知らないけど、ここにいるとこのお節介な人が落ち着かないんだってさ。場所を変えた方がいいよ」
「ちょっと、それは僕にもこの子にも酷いんじゃないかなあ」
「ゴマくんは黙ってて」
ゴマくんと呼ばれた茶髪男は、何か言いかけていた口を閉じた。
「戸村、やっぱり今も喋れないんだ。そりゃそうか、そういう病気だもんね」
「病気? どこか悪いの彼女?」
「ゴマくんは黙ってられない病気でしょ。この子はその反対ってこと」
「僕は病気なんかじゃないよ。僕が喋るのは、僕が必要だと思ったから喋るんであってそれは僕の権利で僕の意思だ」
持田美柚子がまた、文字で書けるようなため息を出す。言いたいことが十も二十も詰まったようなため息だった。
「ああもう、ごめん。話がややこしくなるから今のは忘れて。ゴマくんのはそういう性格ね。この子の、戸村のは病気なんだって。私だって詳しくは知らないけど、喋れないんだって。そうでしょ戸村?」
ひとまず頷いた。これが病気と呼ぶものなのか、本当は私にもよく分からない。けど結菜ちゃんがそう説明して回ったので、大体の同級生の間ではそれが答えになっている。
「ああそれってあれだ、PTSDってやつか。トラウマとか、辛い経験で話せなくなるっていう。それじゃ彼女、大変じゃない。ミューズちゃん、力になってあげなよ」
「私じゃ、この子の力になれない」
「なんで? そんなこと分かんないよ」
「この子は、私となんか関わりたくないはずだからだよ。私が、酷いことたくさんしてたから。ゴマくんは自分をいじめてた相手と、また話したいと思う?」
「いやいや、それは喩えがオーバーだよ。ミューズちゃんいじめなんかしないでしょ」
持田美柚子が、天を仰ぐように背もたれに体を預ける。不思議な感覚だった。なんの悪意をぶつけられることもなく、持田美柚子が隣にいる。ゴマくんという人がいなくなるのを待って、油断した私をあざ笑うつもりなんだろうか。
そういえば、高校のときも似た感覚を味わった覚えがある。私に近づいて来たと思ったら、持田美柚子は何も言わずに通り過ぎていった。私の存在を忘れたのかと思うほど、あれからの彼女は私に無関心だった。
「戸村、ごめんね」
沈黙を破ったその言葉の意味が、分からなかった。聞こえたけど、どこか別の戸村さんに向けた言葉だろうと思っていた。
「私のこと、きっと殺したいぐらい嫌いでしょ」
隣のその顔を見ることができず、私はただ固く拳を握った。確かに、嫌いだったかも。でも一番は、怖い。とにかく怖かった。今だって、たまらなくあなたのことが怖い。
「ごめん、本当にごめん。どうかしてたんだ、私」
繰り返されて、ようやくその言葉が現実味を帯びてきた。私は、持田美柚子に謝られている。
どうかしてた?
そう言われて、私はどうしたらいいのだろう。私の夢は、私の未来はもう帰ってこないのに。
「はーい、ここまで! 重い空気はここまでだよ二人とも。ミューズちゃんが謝って、過去の因縁はこれで清算。どう、ここで二人が再会したのもいいきっかけってことで、仲直り記念の握手でも」
勢いよく持田美柚子が立ち上がり、私は思わず体をすくめた。とうとう私に矛先が向くかと思ったけど、彼女は無言のまま席を立っていった。
「びっくりした。殺されるかと思った。あんなミューズちゃんは初めて見たよ。ああでもね、本当に優しい子なんだよ。キミも、ええと、名前はなんだったけ」
「ゴマくんが名前を知る必要はないでしょ」
すぐに戻ってくるとは思わなかったので、つい私は持田美柚子の顔をはっきり見てしまった。そこに、怒りや悪意はないように見える。ただ、疲れた顔をしていた。
「おお、戻って来たんだミューズちゃん。いや、だってさ、名前が分からないと不便で。だったらニックネームを付けてもいい? 物静かな彼女だから、僕の中ではサイレントKが頭から離れないんだよね。知ってる? 難聴がありながら活躍したピッチャーなんだけど、カッコいいんだよね。彼女は女の子だから、サイレントガールとか」
「はあ……いいの? このままじゃおかしな名前を付けられるよ?」
持田美柚子と目が合う。迷わず私は首を横に振る。
「ゴマくん、この子は戸村あやっていう名前があるの。だっさい名前を付けないで」
「おおー、じゃあ、あやちゃんだね。よろしくあやちゃん。僕は権田(ごんだ)雅樹(まさき)っていうんだけど、ここの人たちはみんな苗字と名前の頭文字をとってゴマくんって呼ぶよ。あやちゃんもそう呼んでくれていいから」
「ほら、気が済んだ? それで、はいこれ」
私の前に差し出されたのは、名刺ぐらいの大きさの厚紙だった。なずな、とこの店の名前が目立つように印字されている。
「この店のコーヒーチケット。それ一枚でコーヒー一杯と引き換えにできるの。悪いけど、今日の会計分は勝手に一枚もらったから。それと、チョコレート代は私が払っておく」
手に取っていいのかも分からず、私はただ机上のコーヒーチケットというものを見つめた。見つめても意味が分からなくて、今度は持田美柚子を見上げる。勝手に一枚もらったと言うけど、私は初めてこの店に来たのだからチケットを持っているはずもない。
「せめてものお詫び。こんなの、嫌かもしれないけど受け取ってほしい。チケットも私がお金を払うから、心配しないで」
「やっぱりミューズちゃんはいい子だ。僕は感心しちゃうな」
ゴマくんと名乗った人を一瞥して、持田美柚子が去って行く。ごめん、もう行くから。そう言い残した背中を、私はぼんやりと眺めていた。白いエプロンのひものひらひらとした揺れが、不思議の国のアリスみたいな絵空事に思えた。
「あやちゃん。ミューズちゃんはね、きっと仲直りがしたいんだよ」
仲直り? それだけはない、と気持ちを込めて私は首を振った。
「ウソだと思うかい? じゃあ証拠を見せよう。そのチケットを見てみてよ」
逆らうのも煩わしくて、私はコーヒーチケットを手に取る。家族でも結菜ちゃんでもない人と、これだけ長く関わるのは久しぶりだ。おまけに今日はいろいろありすぎて、自分が疲れているのがはっきり分かった。
一枚の厚紙に見えたチケットは、手に取るとバラバラと伸びた。蛇腹に折りたたまれていた一枚一枚に、コーヒーの絵が印字されている。
「ね、何枚ある?」
一番最後のチケットには九の字。上にいくと八、七、六。一番上の一番のチケットまで、ひと続きになっていた。
「やっぱり。十番目のチケットは今日使ったってことだね。それはね、このお店の新品のコーヒーチケットだよ。残りはまだ九枚もある」
どういう顔をしたらいいか分からないでいると、ゴマ君という人は誇らしげに親指を立てた。
「また来てね、ってことでしょ」
そんなはずがない、私が首を振ると
「そうなんだよ」
と心を読んだみたいに言葉を重ねた。もう一度コーヒーチケットに目を移してみても、チケットはただ連なっていて何も教えてくれない。
私は、やっぱりどうしようもないぐらいに疲れていた。何も考えずに、布団の中で眠ってしまいたかった。
四
姉は結菜ちゃんと私の顛末を「今に始まったことじゃないんだろうね」と評した。
景気のいい音でお酒の缶を開ける。昨日まではソファーからクッションを取っていたのが、冬ごろ使っていた折り畳みの座椅子をどこからか引っ張り出してきて寄りかかっている。
「それ、どこから持ってきたの?」
私の問いに、姉は勝ち誇ったように笑う。
「家から持ってきてやった。昼間はあいつ、仕事だからね。女でも連れ込んでたら面白かったのに」
姉が言う家というのは、姉が半年ほど前に転がり込んだ男の家だ。「実家に帰らせて頂きました」と、ふざけるようにして突然戻ってきたのが一昨日のこと。物分かりのよい両親は速やかに悟り、咎めることも歓迎することもなかった。というより、朝これからまさに仕事に出かけるタイミングだったのでいろいろと諦めたのかもしれない。母がただ一言
「昼食は自分で用意しなさいよ」
と言い残して、あとは当たり前のように居座っている。恐らく、朝のあの時間に帰ってきたのは姉の狙い通りなんだろう。
「唯一の友達を失った記念だ。一緒にどう?」
「いらない」
私がソファーに座ると、あぐらをかく姉を見下ろす格好になる。すっかり半年前までの光景と同じだ。私愛用のクッションが無いと思ったら、ローテーブルの陰に追いやられていた。取り返して、私の脇に抱える。
「そんなに落ち込むなら、喋ってみればいいんじゃん?」
「できないじゃん。知ってるでしょ」
「だよねー」
わざとみたいな大きな音を立てて、姉が缶の中身を飲み込んでいく。桃の甘い香りがするけど、美味しそうと思ったことはない。
場面緘黙症。それが私の病名なんだそうだ。選択性緘黙と呼ばれることもあるらしい。生まれてから今日までの二十一年間、漏れなくこの病気だったわけだ。正確には病気というより障害という扱いらしいけど。そうと判明したのは十九歳のときだ。姉がインターネットの記事を見つけて、私はこれに該当するんじゃないかと言い始めた。
私を診察した心療内科の女医は速やかに確定診断を為し、何度かの診察を経て私と両親に概要を告げた。
・家では普通に話せるのに、幼稚園や保育園、学校などの社会的場面で話すことができない。
・自分の意思で話す場面を選んでいるわけではなく、ある状況におかれると自分の意思に関係なく、いくら声を出そうとしても言葉がのどにつっかかったようになり、話すことができない。
・不安を感じやすいことから生じる恐怖症の一種と考えられているが、原因はまだ特定されていない。
そんな内容が書かれたリーフレットを元に、説明を受けたことを覚えている。私の取り扱いマニュアルが流通しているような居心地の悪さがして話半分の聞き方をしていたけど、二百人に一人ぐらいの確率で表れるものという説明は頭から離れなかった。嘘だと思ったからだ。計算すると日本に六十万人以上がいるということだ。当時人気だった女優のSNSのフォロワーに六十万という数字を見つけて、なおのこと嘘だと思った覚えがある。それだけの人数がいるなら、私自身が出会ったことがあるだろうし、社会現象になっていてもおかしくないはずと思ったからだ。が、実際にはそのどちらも無い。
私が場面緘黙症だと知り、姉は父と母を責めた。不毛だと気づいたのか、両親を批判しなくなるまでには相当の月日がかかった覚えがある。
「だから私は言ったのに」
ことあるごとに姉の口をついて出た言葉。二つ上の姉は、私が幼稚園のころから「あやは変」と言い続けていた。
私が小学校に入るとなお必死に、いかに妹がおかしいかを訴えていたけど、父も母も「あやは人見知りなんだよ」と言ってなだめていた。拙い言葉で私のことを言いつけて、そのたびに挫ける姉と一緒に私も落ち込んだ。
中学に入った頃からは両親だけでなく、私にも直接言ってくるようになった。
「私がこんなに悩んでいるのに、なんであんたは何もしないの」
「あんたが喋らない理由を私が聞かれるのよ。どれだけめんどくさいか分かる?」
「面白がって喋らないんでしょ?」
私が言い返しても言い返さなくても、大した意味はない。姉の求める解決は、私が家の外でも喋れるようになることだけ。だから、分かり合えることは一度もなかった。ただ罵り合うことに疲れたかウンザリしたかで、表面上は言い合いをやめる。何かの拍子に思い出せば、また不満をぶつけ合うことを繰り返していた。
「不便だよね、あやは」
首を折り曲げたり伸ばしたりして、姉が呟く。自分の肩を揉むように手を回すと、脱臼したかと思うぐらいの音が鳴った。姉は、何をするにも音を立てずにいられない人なんだといつも思う。
「さっきの、どういう意味?」
「なんだっけ?」
「今に始まったことじゃないって。私と結菜ちゃんのこと」
「ああ、あれ」
起伏の平坦なやりとり。これが自然な姉妹の会話なのかもしれないけど、今の境地に至ってからの歴史は案外浅い。
「そのお友達の子は、あやとの縁を切るきっかけが欲しかったのよ。多分、ずっと前から。あんたのためとか言って、都合よく言い訳してるだけだね、私から言わせれば」
姉は、見事なまでに私と同じ考えを口にした。私にだって分かっていた。大学に入ってから、結菜ちゃんから誘われる回数が減っていたこと。いや、高校生のころからかもしれない。結菜ちゃんは本当はサンフレッシュなんて寂れたモールじゃなくて、流行りの店やイベントに出かけたがっていたのも知っていた。いつもあの店なのは、人混みや見知らぬ場所が苦手な私に合わせてくれていたからだ。
「あんた、なんでそんな縁の切り方されたか分かってる?」
何も答えられず、ローテーブルに姉が広げたお菓子や空き缶を見つめた。これじゃ、家の外の私みたいだ。
「決まってるでしょ。喋らない人と一緒にいても楽しくないし。面倒になったんだよ、その子」
面倒になった。大いに心当たりのある言葉。
私が携帯を持つようになったとき、結菜ちゃんは喜んでくれた。メールができるのもそうだが、一番の大きな変化は二人で会うとき、会話ができるようになったことだ。決して自由に言葉を操れたわけじゃない。おっかなびっくり、恐る恐るでも、スマホに文字を打ち込んで画面を見せれば、それは私の言葉になった。二人ではしゃいで、何時間でも他愛のないことで通じ合えた。それなのに。
結菜ちゃんは、だんだん私の言葉を待ってくれなくなった。スマホに文字を打とうとしているのに、構わず話し続ける。やがて私も、文字を打たなくなった。
あのときの結菜ちゃんは、待つのが面倒になったに違いない。
「喋れるなら、喋ってるよ」
なぜだかチョコレートを無理やり口に詰め込んだときのことが浮かんで、それ以上話せなかった。
「そうだよね」
姉が珍しく静かにうなずく。
『だから言ったでしょ』と尖った声の姉はもういない。そのことに、少しだけ救われた気がした。
酔いが廻ってきたのか姉が体重を預けると、男の家から持ってきたという座椅子が不自然な音を立てた。姉は男の家に戻る気はあるのだろうか。大物の家具を持ち出している辺り、近いうちは戻る気はないのかもしれない。平気な顔をして酒をあおる姉に、ダメージがあるのかは分からなかった。傍から見れば、ケンカ別れして飛び出してきたという事実があるだけ。
結菜ちゃんは、私に言ったように今度こそ幸せになれるんだろうか。きっと無理だろうな。でも、どこか私の知らない所で幸せになってくれればいいと思う。そうでないと、口実に切り捨てられた私はあまりに惨めだ。
ふっ、と途端に足場が溶けていくような感覚を覚える。危うい。急に瞬きをするのが怖くなって、目を開けたままでいたけど堪えられず閉じてしまう。閉じた目のまま息を吐いた。目を開けたら、全てが嘘のように消えてなくなっている予感がした。
姉は十以上離れた中年との忍ぶような逢瀬や、金持ちで顔もいいけど浮気性のボンボンとのお遊びなどなどを経て、なんだかんだで最後は堅実で少しお腹周りお肉のついた優しい夫のもとへ嫁いだ。父も母もいなくなって、この広い家には歳をとった私が一人で猫を撫でている。
今思いついたわけではない、馴染んだ未来予想の光景。この家で生まれ育ち、どうにか猫ぐらいは養って死ねたら上々。そのゴールが思い描けている限り、私はレールを進み消化試合みたいな毎日を重ねるだけで満足できる、はずだった。
恋愛も友達も存在しない未来。安心安全、私が欲したはずの未来に飛ばされた気がして、怯えながら目を開けた。
姉はいつの間にかスマホを手にし、何が楽しいのか桃チューハイの缶と同じ色になった頬で笑っている。当たり前の光景だ。馬鹿らしくなって、せいぜい冷ややかな視線を姉に向け続けた。何に怯えていたのかもよく分からなくなる。
もしも私が人と話すことができたら、ああいう奔放な人間になったんだろうか。お酒の勢いに任せて言いたいことを言って、笑いたいときに笑う。次の日には自分だけ何もなかった顔をして。あなたの目の前の私は、酩酊に落ちていくあなたを見ているし覚えている。素面のあなたが隠している世界を、曝け出して怖くないのか。私には不思議で仕方がない。
姉が鬱陶しそうに何度も腰の辺りを搔いている。首元から垂れた、パーカーの紐のコブを踏んでいるせいだ。教えることも忘れて、私は頬杖をついたまま見守っていた。
五
なずなっていうのは、よく考えるとスナックみたいな名前だ。自分の部屋でコーヒーチケットを眺めていたときはそう思ったんだけど、店に向かう途中でなずなという名前の老人ホームを見つけた。つまり、スナックらしいというよりはどこにでも使える汎用性の高い言葉という結論。それがこうして店内の席についてみると、やっぱりスナックの名前なんじゃないかと錯覚してくる。
原因は、まず一つはコーヒーチケットのデザインだろう。何かに似ていると思ったら、小さいころに祖母の家の台所の引き出しから見つけてきた、古びたマッチ箱と似ていた。茶色い背景にピンクの文字。ずっとピンク色は子どものための色だと思っていたけど、この箱の仄かな色は子どもに向けられたものじゃないんだと幼いながらに直感した。喫茶店なずなのコーヒーチケットはあれに似た雰囲気がある。お洒落なような、時代の一つ後ろを歩いているような。
二つ目の原因は、店内の薄暗さだろう。足元から天井まで全て窓の席が四席ほど並んでいて、そこは穏やかな日差しが心地よさそうな明るさだ。一方で、私が前回も今回も座っているこの席は、暗めの照明で雰囲気づくられた店内でも一段と暗い。といっても数分も経てば何も感じなくなるぐらいの、不便さは感じない程度の暗さ。私はスナックなんて行ったことがないけど、テレビで見たことのあるイメージが頭に浮かんでくる。
あとは、今日も肘をついてテレビを見上げているお母さんの存在だろうか。マスコットキャラクターみたいに憎めなくて、でも仕事をしている印象はあまりない。テレビで見たスナックもそんな光景だった。辛うじてお酒が似合わないのは、カウンターでお行儀よく佇む五体の人形たちぐらいだ。
ここが持田美柚子の実家で、店長さんとあのお母さんは持田美柚子の両親ということなんだろう。二人とも、私にいまだ消えない嫌な記憶を植え付けた人の親には見えなかった。それどころか、持田美柚子当人が私の知る苦々しい存在とは違って見えた。
ゴマ君という変なあだ名の人は、今日もお母さんの横でテレビを見上げている。気づかれないように背後を通り抜けてこの席に来た。私も私で、もっと奥の目立たない席に行けばいいのに同じ席に座ってしまうから嫌になる。見つかりやすい手前の席に座るのと不慣れな新しい席に行くのとでは、どちらも同じぐらい億劫だった。
「はい、ブレンドコーヒーお待たせ」
三日前と同じ色のエプロンで、持田美柚子のお父さんがコーヒーを運んできてくれた。今度こそあのチョコレートをゆっくり味わいたい気もしたけど、一緒に余計なものまで思い出しそうで止めておいた。
持田美柚子とゴマ君に挟まれ泣いていた私に、このひげのお父さんは気づいていたんだろうか。お父さんがいるカウンターから私の位置は視野に入るはずだけど、奥のキッチンスペースに引っ込んでいれば死角になる。
去っていく横顔の穏やかな目は、励ましの意図があるような、堅い表情のお一人客をただもてなすような。私にできるのは、見られていませんようにと祈ることだけだ。
コーヒーの味なんて分からないし、一人で喫茶店に来たのも三日前が初めてだったけど、一口で肩の力が抜けるのを感じた。
はあっと息をついて見渡した店内は、よく見ると発見に満ちている。出窓の桟の部分には馬車を引くブリキのロボット。観葉植物の葉っぱにはレースで作られた白い蝶がいて、羽根や目の位置に真珠色のビーズが散りばめられている。装飾に凝っているかと思えば、壁には手書きの貼り紙が何枚も連なっていた。近くの英会話教室やダンス教室、アパートの空き物件紹介まで手書きで貼ってあって、赤字のお得! という文字がなんだか微笑ましい。
唯一、あのゴマ君という人から気づかれないかが気掛かりではある。それでも、肘つきお母さんとの楽しそうな掛け合いを眺めているのも悪くないと思えた。
二人が見上げる先のテレビでは、甲子園の野球中継が映し出されていた。春の甲子園で地元の高校が優勝したのが三十年ぶりだと、ちょっとした話題になっていたのが最近だと思っていたのに。気づけばもう夏の大会へと移ろいでいる。我が家では優勝した当日ですら誰もが素通りしていたニュースだけど、この店内でならお客さんもお母さんも一体になってテレビを見つめる姿が想像できた。ニュースの中の街頭インタビューで集まっていた、歓喜の表情とお母さんたちが重なる。
テレビの中の選手の顔がアップになると滴る大粒の汗が見えて、なずなに到着するまでの道のりを思い出す。日陰だけを渡り歩いても、皮膚という皮膚にこもり噴き出してくる熱はどうしようもなかった。
『また来てねってことだよ』
三日前に言われてから、何度この言葉に揺さぶられただろう。持田美柚子が、また来てね? 考える余地はあっても、結論は毎回同じ。ありえるはずがないと。
だから、今日ここへ来たのはその言葉とは無関係だ。コーヒーとチョコレート代の、お礼を言っていないのが心残りだった。散々迷った挙句、百円ショップで揃えた便せんセットを何枚もダメにして出来上がった一枚は、ハンドバッグのポケットに忍ばせてある。
持田美柚子に手紙を渡して、立ち去って全ては終わり。その予定だったのに店内に彼女の姿はない。拍子抜けしてコーヒーを口に運んでいると、カウンターの奥から大きな咳払いが聞こえた。咳をしながら出てきた店主さんは顔の周りを払って、そのままお母さんとゴマ君のところへ近づいていく。
「うわっ、なんか煙いですよ! なんですかこれは!」
「馬鹿だね、今やることじゃないだろう」
ゴマ君がすぐに立ち上がり、銅像のようだったお母さんまで後ずさりをしていた。
「いやあ、すごいなこれは。ちょっと予想していない事態だ」
「それ、どうしたんですか! 髭がオシャレになってるじゃないですか!」
ゴマ君は驚きと笑いとくしゃみを混ぜたような声で、店主さんの髭を指さした。私の位置からでははっきりしないけど、髭にまだらな色がついているように見えた。
店主さんが髭を払うと、三人とも顔を背けたり口を抑えたりして何かをこらえた。
「早く外に行っておいで! ゴマオ、これで拭いてやって」
お母さんがおしぼりをゴマくんに突き付ける。僕が? という返事を聞く前にお母さんは店主さんがいたカウンター裏へと入っていってしまった。
「もう、何が起こったんですか一体」
「最後に油断したなあ。なんとなく、出来上がったら一息吹きたくなったんだよね」
話しながら店主さんとゴマ君は店の外に出て行った。一人だけとはいえ、私という客を残して店内には誰もいなくなってしまった。私はいていいんだろうか、とよく分からない心細さを覚える。
先に戻ってきたのはお母さんだった。両手で抱えているのは何かのスタンドだろうか。背の小さいお母さんが運ぶと前さえ見づらそうだったけど、動じる様子はなくゴマ君と座っていた席の辺りに運んでいった。
「いやあ参った。すまないねゴマ君」
続けて店主さんとゴマ君が入り口から戻ってきた。戻ってきながらもなお、店主さんはおしぼりで髭を叩いたり払ったりしている。
「へー、これをおとーさんが描いたんですか」
さっきお母さんが置いた物を、三人揃って見下ろしている。私の席からは、ボードのようなそれの側面しか見えなかったけど、どうやら店主さんが描いた絵か何かがそこにあるらしい。
コーヒー一杯を手に持ったままの私のもとに、飛び交う三人の声が届く。
これはひどいですよ、センスがないのに無理するからだよ、最後に一息吹いたらチョークの粉が大暴れしちゃってね、当たり前じゃないですか。
「ミューズちゃんに描いてもらうべきでしたね。絵、うまいらしいじゃないですか」
自然と耳に意識が集中した。持田美柚子と絵。二つの単語は、私の意思とは関係なくバカ正直なぐらいに刺さる。
「そのつもりだったんだけどね。絶対イヤだって言われたよ」
「ミューズちゃん、まさかの反抗期ですか?」
「いいや、ただ絵を描きたくないそうだ。昔は好きだったんだけど、いつの間にか描きたくないって言い張るようになっちゃって」
流れていくやりとりを、困惑しながら聞いていた。持田美柚子が絵を描かない。なぜ? あなたは、絵が好きなんじゃなかったのか。あなたが絵が好きだから、私の未来は消えたのに。嘘ばかり。
小学校六年のとき、トイレ掃除の時間にホースで水をかけられた。何の感情も示さない視線と合ってから、なお一層に放水が激しくなって私は持田美柚子という恐怖を知った。クラスメイトが駆けつけてきて、彼女は可愛らしく笑った。
「ごめんごめん、そこにいるって言ってくれたらよかったのに」
私が話せないことを知っているクラスメイトが、どう答えていいか分からないような顔をしていると
「あはは、そっか。あやちゃん喋れないんだった。ホントにごめんね。でもわざとじゃないから」
そう言ってハンカチを差し出してくる。私よりもクラスメイトの子の方が安心した顔で駆け寄ってきて、一緒にハンカチを差し出す。ハンカチでちょっと拭いたぐらいでどうなる濡れ方でもないんだけど、持田美柚子ともう一人の子は笑い合って一件落着にしたいようだった。それが、持田美柚子が私についた最初の嘘。わざとじゃないのも、私が話せないことを忘れていたのも、全部嘘。
ただのクラスメイトの一人だった持田美柚子が、その日から急に敵になった。巧妙で狡猾で、決して目立たないように、でも確実に私を害する。物が無くなったりわざとぶつかられたり、机に思い出したくもないような悪口を書かれたり、そんなのがしょっちゅうだった。
何よりも耐え難かったのがエレベーターの中の時間だ。初めて彼女とエレベーターで二人になってしまったのは中学一年生のときだ。
学校の行事で、クラスごとに見たい映画を決めて映画館に行った。その帰りのこと。みんなで複合型ショッピングモールの中の映画館に集まって、帰りは各自で解散。結菜ちゃんは同じクラスの子といるのが見えたから、私はまっすぐエレベーターに向かって帰ろうとした。ただ一人一緒に乗り込んできたのが、持田美柚子だった。中学で違うクラスになって平穏な日が続いていた分、彼女がどういう出方をするのか想像がつかなかった。
扉が閉まると、背後に立った彼女は間髪を入れずに言った。
「なんで喋らないの?」
顔を見ないようにしても伝わる、苛立ちが込められた声だった。うなじの辺りがビリビリ痛い。
「ねえ、聞いてんだけど。無視すんなよ」
ただ祈っていた。早く一階に着いて下さい。早くここから出して下さい。
背中の気配が動く感覚がする。どうしよう、耳を塞いでしゃがみ込んでしまいたい。
「マジうざい」
それだけ言い残して、彼女はエレベーターを出ていく。いつの間にか一階に着いていた。去り際に舌打ちが聞こえた気がしたけど、それが彼女のしたものなのか気のせいだったのか分からない。
中学の三年間、一度も同じクラスにならなかったおかげで彼女との接触はずいぶん減った。それでも、数少ない移動教室やトイレで出くわしたタイミングを使って攻撃は続いた。
彼女は大体真面目そうな子と一緒なんだけど、人といるのにわざわざ私に話しかけてくる。返事がない私を見て、事情を知らない中学からの友達と不思議そうに首を傾げる。一緒にいる子によっては持田美柚子と一緒に口の歪んだ笑みを浮かべたり、また別の子は、おかしな人を見る目で不安がり、足早に立ち去ろうとしたりした。そういう時の彼女は、愉快でたまらないと言いたげな顔をしていた。
毎回違う知らない子に奇異な目で見られる情けなさと言ったらなかったけど、それでも持田美柚子と乗るエレベーターと比べたらかわいいものだった。周囲に誰もいない、彼女にとっての安全が確かなエレベーターが、存分に悪意を剥き出しにさせた。中学校の三年間でたまたま持田美柚子とエレベーターで居合わせたのは三回だけ。たかだか年に一度あるかどうかの出来事でも、私がエレベーターそのものを嫌うようになるには十分だった。
よりによって高校も同じと知った時は、巡り合わせの悪さを呪わずにいられなかったけど、予想に反して持田美柚子からの攻撃はピタリと止まった。クラスが違ったのもあると思うけど、廊下ですれ違う彼女にはまるで私が見えていないかのようだった。
「ぶえっくしょん」
ゴマ君の遠慮ないくしゃみで、私は我に返る。気が付けばコーヒーはずいぶん減っていて、お店の中にはお客さんが何組か増えていた。ゴマ君の席に集まっていた店主さんとお母さんも解散していて、初めてお母さんがコーヒーを運んでいるところを見た。持田美柚子の姿はない。手紙が入ったままの、バッグのポケットに触れる。これの出番は、また今度。
レジに立つお母さんへ、コーヒーチケットを渡す。すっかり油断してゴマ君の方を見たら、目が合ってしまったので気づかないふりをした。私が逸らした視線の先に、お母さんが抱えていた板を見つけた。正面から見たそれは、今日のオススメメニューが描かれた黒板だった。イーゼルのようなスタンドに斜めにかけられ、入店するお客を迎える格好になっている。
メニューの文字の他に、目を見開いてまっすぐ正面を見る顔が描かれていた。なんで体が逆三角形なんだろうと思ったら、それは鼻の下にあるクロワッサンみたいなのとくっついていた。ようやく合点がいく。ああ、これは髭なんだ。輪郭をはっきり描きすぎて、ペタペタ貼り付けているように見える。周りはチョークの粉が散乱していて、何度も手直しした様子が目に浮かぶようだった。本当は、持田美柚子に描いてもらうつもりだったのかもしれない。それを自らが描いて無惨な結果になった、お父さんの自画像。
とっさに手を口に当てて、お母さんにバレないように苦悶する。見れば見るほど、幼稚園児が描いたような微笑ましい出来上がり。悪戦苦闘した様子の店主さんには悪いけど、笑いをこらえるのに必死だった。いけない予感はしているのに、お父さんが黒板を持って来たときの、遠目に見た髭の色を思い出してしまう。お父さんが仕上げと称して息を吹き付けた結果、巻き上がったチョークの粉塵。赤や黄色や緑をたっぷり吹き付けた髭。遠目だったことが、より想像を搔き立てて悲惨なお父さんの像を思い描いてしまった。もう無理。思ったときには小さく笑い声を漏らしていた。
「酷い出来映えだろう」
気づいたお母さんに声をかけられた。まずい。何がまずいのかも分からないまま、私は正体を見られた鶴のように慌てふためいた。ひとまず首を振る。笑ってません。酷い出来映えでもありません。いえ、出来映えは酷いんですけど。
「バカな親父だよ。ミューズはもう絵を描かないと前から言っているのに、こんなもん買ってきて」
恨めしそうにお母さんが叩くと、黒板はイーゼルから滑り落ちて大きな音を立てた。何事かと店内中の視線が集まったけど、立て直すお母さんの仕草が不機嫌に満ちていたので一様に視線が散った。
「ミューズもミューズだ。もったいぶらずに描いちまえばいいんだよ。こんな看板じゃ無い方がマシだ」
なあ? と同意を求められ、思わず頷く。いや、無い方がマシとまでは思ってません、と訂正したくて首を振ったけど間に合わなかったらしい。お母さんは賛同をもらえたことに満足した顔で去っていった。
床に落ちた拍子か、お父さんの自画像は目が擦れてしまっている。宇宙人か何か、空想上の生物を描いたのならハイセンスと受け取られるかもしれない。そうお母さんに教えてあげればよかった、と思い立ったのは店を出てずいぶん経ってからだった。
六
「ずっと絵ばかり描いてたってしょうがないでしょ」
いつしか母に言われた言葉を、ここにきて酒びたりの姉に言われるとは思わなかった。
姉の話は、道のりは違えど結菜ちゃんと同じ結末を辿る。つまり、就職や結婚はどうするの、だ。私が人と話さないことはさておき、二十一歳で学校に行っているわけでもなく、定職に就いているわけでもないあなたはヤバイのよ、と。
まもなく両親が仕事から帰ってくる時間だ。さっきまではどちらでもいいから早く帰ってきて姉の相手をしてほしかったけど、今は帰って来られると困る。帰ってくるまでに話題を変えておかないと、夕食の時間が私の将来についての会議になったら困る。
「私だっていろいろ考えてるよ」
「いろいろって?」
「いろいろは、いろいろ」
「具体的には何も考えてないってことでしょ」
姉はしたり顔で言うけど、本当はそれも違う。考えはしたんだ。私だって、結菜ちゃんに言われたことが何も響いていないわけじゃない。一応私も考えはした。でも、結論は多分姉が求めているものではない、だから上手く説明できない。
「考えてるよ、うるさいな」
仕方がないので、必要以上に声を荒げてみせた。夕食でその話題は禁句、と一方的なメッセージを乗せて。姉は、あーおっかない、と首をすくめて新しい缶を開けた。
「ねえ、たまには付き合ってよ。一杯ぐらいどう?」
口に持っていきかけたクセに、あからさまな思い付きで私の方へ缶を向けた。
「いらない。何が美味しいの?」
「美味しいっていうか、スカッとする。味なんかなんでもいいのよ。酔えればそれで」
あれ、と何か思い出したように姉が首を傾げる。
「まさかあんた、一度もお酒を飲んだことないの?」
「無いよ。飲みたくないもん」
「あんたどんだけ人生損してんのよ。喋れない分、人の二倍酒を飲む権利があってもいいぐらいでしょ」
「意味わかんない」
姉は返事の代わりに、私に向けていた缶を呷り豪快に喉を鳴らした。
「酔って、それでどうするの?」
「どうするって、そりゃ解放感に浸るでしょ。この世界に生まれてよかったーって感じるでしょ」
でしょと言われても。大体、姉はいつも解放しっぱなしの気がしていたけど間違いなのか。
「そうだ、あんたお酒を飲んで人と会ってみれば? 酔った勢いで喋れるんじゃない?」
姉が懲りずに手の中の缶を差し出してくる。私から見るそれは、もはや麻薬かドーピングか、とにかく禁忌とすべき毒に見えた。
姉が酔いで正体を失って、好き勝手に言葉を垂れ流す姿を思い出す。一瞬でも自分に当てはめてみようとしたことを後悔した。
怖い。私の言葉が、人に伝わることが怖い。伝わって、解釈されることが怖い。私の言葉が誰かに感情を与えるぐらいなら、ずっと無のままの方がいい。私が発しなければ、全てはゼロのままでいい。積み上がらず、失くしもしない。
私は自分の部屋に居場所を移した。早く姉の元から離れないと、こみ上げる震えを知られる気がした。椅子に体を預けて、ようやく少し息がしやすくなる。
「絵を描いても仕方ない、か」
別のことを考えたくて、わざと口に出した。私のなけなしの収入は、インターネット上にアップしたイラストが稼いでくれているんだけど。それだけじゃ食べていけないのも事実だ。
三年前、私がイラストを勉強するための専門学校に行きたいと言った時には、父も母も姉も大いに喜んだ。
大学進学と比べると、あまり世間体が良くない選択だとは百も承知。何日も気をもんだ上で切り出した私にとって、予想と真逆の反応だった。
後から思えば、私は家族から何も期待されていなかったのだろう。家の外で話せない私は、高校を卒業した先の居場所がないと諦められていたのではないか。
小学校の頃に市のコンクールで賞をとった架空の未来都市の絵は、今だって酒浸りの姉の背後に飾ってあるのに。会話ができないというのは、そんな事実も忘れさせるほどの大問題らしい。
「先生見て、戸村さんの絵すごいよ」
中学一年のとき、授業で私が描いた絵を見て同級生が言った。私の席の四方から覗きこむような視線が集まって、波紋が広がる。すごい、同じ絵具で描いたレベルじゃねえ。いつも誰よりも早くはしゃぐ男子の声がした。
私は縮こまり、他に逃げ場もなくて先生の顔を見ていた。気づいた皆が、先生に注目を移す。裁判長の判決を待つような時間。
美術の教師が目を細めて言った。こけた頬でなぜか白いタオルを首にかけ、教室のはずなのに窯焼きを前にした陶芸家みたいだった姿を覚えている。
「戸村はおしゃべりな方じゃないだろ?」
唐突な問い。中学に入って間もなくの、まだ出席番号順の席に座っていたぐらいの頃。クラスメイトは同意してもいいものか迷いを隠せず、半端に頷いたり首を傾げたりした。
「そういう子だけが描ける世界がある」
うわ、山が全部黒くなった。バーカ、色の混ぜすぎでしょ。今度は教室の後方で上がった声に、クラスの関心が移っていく。分かるような分からないような、感情が混ぜこぜになる話より、一瞬で分かち合える失敗の方がきっとみんなは楽しい。笑い声が広がる中で、先生の言葉を思い出すと勇気が出た。私は、私のままここにいていいと思えた。逃げ出したいとき、何度もこのときの光景を思い出した。
高校を卒業したら絵を勉強したいという私の希望は、両親のごく低いハードルを楽々飛び越えた。
『いいんじゃないか、一生懸命好きなことをやるのは』
『学費のことはなんとかなるわ。頑張ってね』
高校の進路指導部から取ってきたパンフレットを軽く眺めて、迷う様子もなく言った。姉にしたって、まだ場面緘黙症というものを知らなくて風当たりが強い時も多かったけど、この時ばかりは賛成してくれた。
わずか数日の後に、専門学校行きを撤回した私は大いに家族を落胆させることになる。いくら理由を尋ねられても答えることはできなかった。持田美柚子が、絵の専門学校に行くらしい。どこからか耳にしたその情報一つで、私は全てを諦めた。同じ学校に行かなければいいとか、そういう次元の話じゃなかった。高校の三年間私のことを忘れたように振舞っていた持田美柚子が、ここでまた私の進む道に被さろうとしてくる。きっと、私が違う方に進めばまた彼女の影も付いて回る。そんな気がして、何もしないことを選んだ。
知りたくもなくても、学校の教室にいるだけで噂話は耳に入ってくる。持田美柚子が美術に何の関係もない大学に受かったと聞いたのは、卒業までの余り時間みたいな日の昼休みだった。
三回目のなずな挑戦も、持田美柚子の姿はなかった。代わりにゴマ君がコーヒーを飲んでいて、なぜか私はゴマ君の指定席まで引っ張り出されてお母さんと三人でテーブルを囲んでいる。店内にお客さんが何組か入って来ても、せっせと迎え出るのはお父さんだった。お父さんとお母さんの労力は十倍は差がありそうだ。
「というわけで、ミューズちゃんの友達なんですよ。あやちゃんっていいます」
散々脱線して私のコーヒーが冷めきったところで、ゴマ君はそんな風に話をまとめ上げた。友達なんです、の紹介にはさすがに抗議したかったけど、母親を相手に否定する勇気はなかった。どういうわけだか、ゴマ君は私が話せないことには触れもしない。
「ミューズの友達でも、別にゴマオの友達じゃないだろう」
お母さんの言葉に、私ははっきり頷く。
「そんな、僕はこうして新たな常連さんと交流を図ろうと思ってですね」
ゴマ君が食い下がる。三回目の来店で常連認定されてしまうとは。それにしても、三回とも同じ席に居座っている彼は何者なんだろう。
「あんた、ゴマオが邪魔くさいだろう」
お母さんが私の目を覗き込んでくる。近くで見るお母さんの目は、ふっくらした顔に沈んだ小さな目だけど潤んでいて優しかった。
私は反応に迷う。確かに邪魔くさいけど、面と向かって肯定するほどでもない。
「ほら、やっぱり嫌がってるじゃないか」
「まだ何の答えも出てませんよ」
「嫌じゃなきゃすぐ否定するだろ」
二人がやり合う横で、私は焦りを感じ始める。このままじゃ、お母さんは返事のない私を無愛想でおかしなヤツだと思うに違いない。
「それにしても、大人しい子だ」
ほら来た。だから、ゴマ君に説明してほしいところだけど。
「そうなんですよ、彼女はすごく大人しいんです。あんまりおかーさんがギャアギャア言うと余計に萎縮しちゃうんですよ」
はあ、っと思わずため息が出る。どう解釈したのか、ゴマ君は「ね?」と再度お母さんを見た。
なんで喋らないの? いつかの持田美柚子が、お母さんに乗り移る気がして怖くなった。
「うるさいのはお前だろう。この子が来なくなったら、間違いなくお前のせいだ。なあ?」
今度はしっかり頷いておいた。お母さんのせいで萎縮なんてとんでもないです、と伝えたかった。
「しかし、ホントに大人しい子だ」
驚いた声のお母さんと目が合ったまま、にらめっこみたいになる。何も返す術がないことが申し訳なくて、私は顔を伏せた。なんとなく三人言葉が無くなって、私のせいでこの店の団欒を壊してしまった気になる。
ふん、と息を吐いたお母さんは、前にも見た肘をつく姿で私を見上げた。
「実はこのゴマオはな、無職なんだ」
何事かと、私は思わず目を見開く。
「ええ、なんですかそれ、急になんなんですか! それに僕は無職じゃないと何度も言って」
「じゃあその仕事とやらを説明してみな」
「だから、このパソコンが僕の商売道具なんですよ。株の売買でちゃんと儲かってるんですってば」
ゴマ君が脇から取り出したのは、商売道具と言ったノートパソコンだ。お母さんはまるで意に介さず
「それのどこが仕事か。株なんてのはギャンブルだよ。うちの親の親戚連中は軒並みそれで退職金を持ってかれたんだから」
「ですから、それはちゃんとやり方があってですね」
言いかけて、ゴマ君はああっと大げさな声を上げた。
「今そんなこと関係ないでしょう。あやちゃんの話をしてたんですよ」
「関係あるんだよ。相変わらず浅いねゴマオは」
お母さんが身を乗り出す。有無を言わせぬ口ぶりに、ゴマ君は完全に勢いを失っていた。
「ど、どういう意味ですか」
「お客さんをもてなすのが私の仕事なんだよ。どうせゴマオのことだから、自己紹介もろくにせずにベラベラ喋るつもりだろう。だから私が変わりにやってやったまでだよ」
「お母さん、僕のこともてなしてくれたことないじゃないですか」
「いつも叱ってやってるだろう。ゴマオが叱ってほしそうな顔をしてるから、そうしているまでなんだよ」
マジすか……と消え入りそうなゴマ君の声を最後に、二人の掛け合いは途切れた。私が想像するもてなしという言葉と、肘をついているお母さんの態度は差がありすぎて可笑しかった。
「分かりましたよ、じゃあ次はおかーさんの紹介っすね。ちなみに僕は無職じゃないけど」
「こんなババの話なんて聞いてどうするんだ。それよりゴマオの話だ」
何か異を唱える気配を見せたゴマ君を、お母さんは目で制して続ける。
「このヒマ男はわざわざ三本園から来てるんだ。なんでそんな遠くから毎日来てるか、気になるだろ?」
三本園、と聞き覚えのある地名の記憶をたぐり寄せる。通学で電車に乗っていた頃が浮かんだ。私が乗る方向と反対側の、どこかで目にしたような名前。距離感は分からなくとも、毎日通う喫茶店にしては遠いことは理解できた。
「こいつはストーカーなんだよ。うちの子のな」
自然に、私とお母さんの視線がゴマ君に向かう。
「ちょっと、ややこしい言い方しないで下さいよ」
置きっぱなしのコーヒーカップを倒しそうなほど身を乗り出したゴマ君と、それを見て意地悪に笑うお母さん。私は気休め程度にゴマ君から体の重心を遠ざける。
「いや、違う、違うからね、あやちゃん」
「何が違うんだ。月(げっ)人(と)に付きまとって、実家まで突き止めただろ。世間様はそれをストーカーって言うんだよ」
「女の子を追ってストーカー呼ばわりならまだしも、月人くんを追っかけてストーカーだなんて心外です。彼を応援し、彼の活躍を願う敬虔なファンと言ってもらいたいところです」
月人。てっきり持田美柚子のストーカーだと思った私は、見知らぬ名前の登場に戸惑う。ストーカーでもファンでも、ひとまず私はお母さんの側へいくらか寄ったままでいた。
軽やかなベルの音が鳴る。お母さんが重たそうに顔を上げて、ゴマ君も同じ方を見た。つられた私は、その音が入店時に鳴っていたベルだったと思い出す。
誰の出迎えも待たず、当たり前のように入ってくる持田美柚子がいた。彼女は何よりも、真っ先に私を見つけたような気がした。笑ってはいないけど、不機嫌そうでもない顔をしていた。どこを見るともなく視線を彷徨わせながら、間違いなくこちらへ近寄ってくる。
「ただいまおっかあ、いらっしゃいゴマ君。それと、戸村」
中学の時のことも、泣く私に謝っていたことも、洗い流すような軽い調子の挨拶だった。
それで、私も全てなかったことにするべきなんだろうか。私が受けた仕打ちと、彼女の謝罪が釣り合っているのか、いまいち私には分からない。せめて中学校の頃に謝ってくれたら良かったのかもしれない。
そこまで考えて、ああ、ドラマや映画で見る壮絶な復讐劇の執念はすごいんだ、と関係ないことを思う。何年経っても恨み続けるだけの執念を、私は持ち合わせていない。今の彼女に敵意がないことが分かると、私の体も頭も容易くその情報を受け入れている。それが歯痒い。許すべきじゃないのではと疑問を掲げても、怒りが湧いてこない。
「おっかあ、働いてよ。お客さん待たせてるよ」
「ちょうどいい時に帰って来てくれた。うちの娘はさすがだ」
肩をすくめただけでカウンター裏へ引っ込んだ持田美柚子は、戻って来たときはすでにエプロン姿だった。お母さんの返事は予想済みだったのかもしれない。
嫌な顔をすることもなく、持田美柚子はできたコーヒーをテーブルに運び、しばらく放置されていたテーブルの上の食器を片づけていく。
「相変わらず働き者ですね、ミューズちゃんは」
ゴマ君が感心を漏らす間も、せっせと働いて滞ったお店を正常に戻していた。過去の私の前にいた持田美柚子とは、全く違う姿だ。ぼんやり見つめていて、ようやく私は当初の目的を思い出す。
そもそも、持田美柚子に手紙を渡しに来たのだった。
チケットありがとう。嬉しかったです。
それだけ書いた、手紙というよりメモぐらいのもの。実際は嬉しかったというのは間違いな気がしたけど、あの時の気持ちを表す言葉が見つからなくて、やむなくこんな形になった。
さっき、声をかけられたときに渡してしまえばよかったと後悔する。こんな時、普通に話せたら隙を見て呼び止めて完了だろうか。声を出すことすらままならない私は、じっと相手が近づいてくれるのを待つしかない。
「しょうがない、ちょっと手伝ってやるかね」
お母さんが、ふんっと力を込めて体を起こす。客席のことは持田美柚子に任せたのか、カウンター裏へと消えていった。
「あの、さっきのストーカーってやつ、おかーさんの冗談だからね」
分かるよね? と確認するような上目遣い。そんなことよりも、なぜ私が話せないことをお母さんに説明してくれなかったのか尋ねたいところだ。私が曖昧な顔をしていると、ゴマ君は身振り手振りを交えて慌てた。
「本当なんだよ。参ったな。ええとね、月人くんっていうミューズちゃんのお兄さんがいてね。彼はもう、すごいんだ。センスの塊だ。長らく野球を見てきた僕の目は確かだよ」
そういえば、初めてこの店に来たときもこの前も、ゴマ君とお母さんは野球の試合を見ていた。持田美柚子のお兄さんは、プロ野球選手なんだろうか。聞きたいことは浮かぶけど、私に聞く手段はないしゴマ君も止まらない。
「プロでも通用するって僕は言い続けてるのに、本人にその気がないんだ。だから、家族に説得してもらうしかないと思って、それが僕がここに来たきっかけなんだ」
持田美柚子の方をチラチラ窺いながら、やむなくゴマ君の話を聞いていた。ゴマ君は空になったコーヒーカップを恨めしそうに眺めては、思い出したように水を飲む。
彼の話からすると、月人という持田美柚子の兄とゴマ君は二年前に出会ったそうだ。出会ったといっても、当初ゴマ君は球場で試合を見ていた観客で、月人は選手だと言った。その試合での月人は、それはもう格が違ったとゴマ君ははしゃぐ。打って守って走って、全てがクラブチームのレベルじゃなかったと自分のことのように胸を張った。
クラブチームというのが私にはイメージがつかなかったけど、話の断片から月人の仕事先に野球チームがあるらしいことは分かった。
ゴマ君にとって月人の存在は衝撃的だったらしい。曰く、ゴマ君はかなりの野球オタクで、あれだけのレベルの選手がいて高校野球や大学野球で話題にならなかったのが不思議でならないというのだ。インターネットを使って持田月人という人物を調べても、高校野球地方大会の記録一つ出てこない。その謎と溢れる野球の才能に、すっかり虜になったのだと力説する姿は得意げだった。
そこからが私にはなお理解し難かったのだけど、ゴマ君はこの才能がプロにならないで埋もれることが耐え難いと感じたそうだ。そんなの、本人にとっては大きなお世話なんじゃないかと思ったけど彼の主張は止まらない。
最初は試合前後や練習日に本人に話しかけてプロテストを受けるよう説得していたそうだが、取り合ってもらえずにとうとう実家まで探し当てたそうだ。全ては、持田月人をプロ野球選手にするために。
「もっとも、もう諦めかけているけどね。結局おとーさんにもおかーさんにも、ミューズちゃんにも取り合ってもらえなくてさ。今じゃただの客だね、これじゃ」
ゴマ君は氷だけになっていたコップをあおって、急によそよそしく頭を搔いたり私の方を見たりし始めた。
え、なに? とも言えず、私はその様子を見つめる。
「いやあ、話の終わりが見えなくなっちゃって。いつもどうやって終わってたかなと思ってさ」
話の終わりをどうするか。耳慣れない疑問の答えを、記憶に求めてみる。結菜ちゃんと話している時や、家族と話している時。思い浮かべてみたけどそんなこと、気にした覚えがなかったから記憶にも残っていなかった。
「あー、えっと、つまり。このペースだと僕は閉店まであやちゃんに喋り続けそうで。女の子に一方的に話続けるっていうのはダメな大人がするもんでしょ。これ以上続けるのは、僕のポリシーが許さないんだよね」
そう言って居所が悪そうにまた頭を搔く。理屈は分からないけど、そろそろ話は終わりにしよう、と言いたいらしい。私も、人と過ごすという慣れない時間に疲れてきていた。これ幸いとばかりに席を立つ。挨拶の代わりに、二、三度とお辞儀をした。
「退屈な話ばかりでごめんね」
何を思ったかゴマ君が謝るので、私は慌てて首を横に振った。謝られるとしたら、お母さんに私の病気を説明してくれなかったことの方がまだいい。
レジまで行けば持田美柚子が来てくれるかと思ったけど、レジに立ったのはお父さんだった。お客さんの入れ替わりが落ち着いたのか、持田美柚子は次々に残った食器を片づけ、合間にテーブルを拭いていく。コーヒーチケットを支払い、出口の前で立ち止まる。ダメだ、このまま帰ったらダメなんだ。
ドアの前で立ち止まった私を、お父さんはきっと怪訝な目で見ているだろう。ゴマ君は、持田美柚子はどうだろうか。店内に残った何人かのお客さんはどうだろう。想像の中の視線に、背中が押されそうになる。一歩前に出て、ドアを開けてしまえば何事もなかったように時間はまた動き出すだろう。だけど。
私は振り向いた。お父さんの方も、他のお客さんも見ないようにして持田美柚子を探した。彼女は私がいつも座っていたテーブルの周りを掃いている。少し大きな声を出せば届く距離だけど、私にできることは一つしかなかった。早足で歩くと、苛立って歩いているような騒々しい足音がして落ち着かない。私が通り過ぎた後、背中を誰かに見られているようで不安だった。持田美柚子が、声を潜めて笑っているような気がした。ゴマ君の席も通りすぎる。どんな顔で私を見ているのか、考えたくなかった。心のざわつきを追いやるように、なお進む足に力がこもった。
持田美柚子は、テーブルの下に屈んでゴミを拾おうとしていた。私は手を伸ばし、できるだけそっと彼女の肩に触れる。
「うわあっ」
跳ねるように振り返った持田美柚子は、私を見つけて胸に手を当てた。
「びっくりした……戸村か」
言って、そのままソファ席に座りこむ。
「ごめん、大きい声出して。でも本気でびっくりした」
笑う持田美柚子に、私は深々とお辞儀をした。両手を前で組み合わせて、これが一番謝意が伝えられるポーズのつもり。
「いや、大丈夫だよ。どうかした?」
返事の代わりに、私は手紙が入った封筒を差し出した。
「なに、私に?」
頷く。
「今読んでいいの?」
頷く。封筒といっても、見かけだけ綴じてある簡単なものだ。持田美柚子はすぐに中を取り出して、私のメッセージを見つけると笑った。
「なんで敬語なの? タメでしょ」
そういえば、なぜだかいくら文言を変えても最後は『です』になってしまった。なんで? と言われたらなぜだろう。困って首を傾げると
「ごめん、冗談だよ。わざわざこんなことしてくれなくてもいいのに。もしかして、気を遣わせた?」
と言ってまた笑う。いつかの傷つけるための笑顔じゃなく、親しみのこもった苦笑いだった。
持田美柚子はもう一度私の手紙を眺め、今度は誰に向けるでもなく薄く笑った。
バイバイと手を振って逃げようとしたけど、持田美柚子に手を掴まれる。何事かと、手足が強張る。
「待って、お礼のお礼。いや、お礼にはならないか。とにかくちょっと待ってて」
カウンター裏に駆け出し、戻ってきたその手にはスマホが握られていた。
「ね、連絡先交換しようよ」
十八歳の頃の私に、三年後お前は持田美柚子と連絡先を交換する。そう言ったらどんな顔をするだろう。お願いだから止めるように懇願するだろうか。それより、頑として信じないかもしれない。嘘のような本当に起こった話は、意外とドラマチックでもなければ激しく感情を揺さぶるものでもなく。ただただ、不思議で実感がしないままだ。私が声をかけたせいで拾われ損ねた、床のゴミをぼんやり見つめる。おしぼり袋の切れ端ひとつですら、壮大な舞台装置の演出のような気がしてならない。
でも。実感がなくたって、理解している。コーヒーチケットがまだ残っていることに安堵している自分。もしチケットが無かったら、持田美柚子に手紙を渡せたことを節目として二度と来ようとしなかったかもしれない。そんな言い訳上手な私には悪いのだけど、残念ながらチケットはあと七枚もあるのだ。あと七回はこの場所を訪れる理由があることに、私は守られている気がした。
七
未来を真剣に考えているかはともかく、私だって当面のお金を稼ぐ気がないわけじゃない。じゃあ当面のお金というものがいくらで、いつまでに稼ぐべきなのかというと、答えは持ち合わせていない。なにせ一億円稼ごうが〇円という結果に終わろうが、きっと私は母の料理を食べるし服もベッドもパソコンも買い換えないだろう。絵だって、学校から指定された教材を払うぐらいの気概は持ち合わせているつもりだったけど、こうして独力で描く生活では手元にあるツールで十分。パソコンひとつで賄えるのだ。油絵や水彩画は楽しかったけど、一億円手元にあっても手を出すかは分からない地位に収まってしまった。
いつまで、いくら。私に言わせてみれば、会話ができないことよりも具体的目標がないことが問題な気がする。
パソコンで絵を描くために両親から借りた五万円を返済しきって以降、私にはこれといったお金を稼ぐ必然性がない。漠然と収入を得て、プラスマイナスが合っているかも分からない日を重ねている。
今日もイラスト作成の依頼が来るのをインターネット上で待つ。悲しいことに、私が描いた最高にキャラクターの魅力を惹きだしたはずの絵よりも、イラスト作成代行業の方が収入にはなった。
世の中には、その気になればタダで手に入るイラストやデザインの汎用品が溢れている。似たようなものならスマホ一つで拾える今の時代にも関わらず、定期的に依頼が来た。一番よく来るのはアニメのキャラクターのイラストで、リクエストがくればネットで調べ希望された通りの絵を描いた。たまには、お店のマスコットキャラクターを考えてほしいという依頼が来たりしてデザイナー気分になることもある。
「いつまで、か」
口に出して考えてみる。曲がりなりにも、私なりに目指すべき目標を考えていたつもりだ。それは嫌でも視界に入るように、パソコンのモニターに貼り付けてある。
残り七枚になった、なずなのコーヒーチケット。期限は、これが無くなるまで。では一体、期限までに何をするか。
絵を描きたいと思った。なずなの光景を、温かさを、楽しさを、絵として表現したい。それも、あのお父さんの悲惨な自画像がいる黒板に。いつも黙って挙動不審な私にできる数少ない、なずなへの恩返し。結菜ちゃんに見放された私を受け入れてくれたお店に、お礼がしたい。無論、私なんかの絵で喜んでもらえるかは分からないけど、まずは意思表示をしたい。問題は、どうやって伝えるかだ。
不意に机が鳴って、私は顔を起こした。久しぶりに鳴った音が、机の上のスマホの振動だと気づけくまでに時間がかかった。考え事をしながらパソコンの前で寝ていたらしい。
「会わせたい人がいるんだけど、お店に来てくれる?」
持田美柚子からのメッセージ。しばらくそこから目が離せなかった。息を止めて、返事を打っては消してみたり。
「うん、わかった」
ずいぶん苦労してそれだけ送り返した。私は閃いて、持田美柚子と登録した名前を変えてみることにする。何年経っていようと、持田美柚子という字面は私にとって強烈だった。ミューズちゃん。持田美柚子の他の呼び名を、私はそれしか知らない。ゴマ君がしきりに繰り返す、ミューズちゃん、ミューズちゃんという呼び声。返信と同じように打ったり消したり繰り返して、最後はミューズで落ち着いた。ちゃんを付けなかったのは、十年前の私が今も見張っている気がして言い訳したかったからだ。
彼女はミューズ、あの頃の持田美柚子とは心を入れ替えた別人かもしれない。仲良くなるわけじゃないけど、少しこの不思議な関わりを続けてみようと思うの、と。
ミューズは、約束の時間だけでなく席まで決めて私に伝えた。なずなの中でも一番奥、L字の店内の端っこにあり、入り口近くからは見えない位置だ。いつものテレビの下にも、その奥にもゴマ君の姿はない。
陽の光が差す入り口側の席と違い、出窓もなくカウンターやテレビの音も遠い隅っこ。追いやられた島みたいな席に思えたけど、座ってみると薄暗さがちょうどよくて、むしろ高級感のあるエリアに思えてきた。
この場に来て、今さら私はことの異様さを考える。ミューズから呼び出される事態までは、まだあり得ることとして。会わせたい人というのはどういうことだろう。人物にも目的にも、心当たりはまるでない。ミューズに事前に聞こうかとも考えたけど、私の指は相変わらず文字を打っては消してを繰り返しただけだった。
約束の時間三分前、彼女たちは現れた。ミューズと、引き連れられて立つ同年代ぐらいの男の人。白い型紙を貼り合わせたようなワイシャツの清潔感と、その襟から覗く太い首の組み合わせが矛盾している気がした。少しでも汚れることを嫌いそうなのに、汗をかくことは厭わないような感じ。
見知らぬ人であり、男の人であるという両方に私はたじろぐ。見た目だけは取り繕って、相手のタイミングに合わせて会釈してみる。
「ありがとう、よく来てくれたね。これが、私が会わせたかった人。うちの兄」
私の向かい、二人がけのソファー席に並んで座りミューズは口を開いた。理解が追いつかないまま、『これ』と称された男性を見る。文句も言わずに座る彼は、私と目が合ったとたん私よりも早く目を逸らした。ミューズと似た力強い目鼻立ち。似ていないのは眉毛で、ミューズよりもお兄さんの方が細くラインを整えた跡があった。
「じゃあ、あとは若い二人に任せて」
と、早々に立ち去ろうとするミューズに懸命に視線を送った。
どういうこと?
何が何だか分からないよ?
「やっぱり僕は帰る。彼女にも迷惑だ」
助けを求めたミューズではなく、お兄さんが呟いて立ち上がろうとする。
「なんでよー。話してみてから考えればいいじゃん」
「僕は最初から必要ないって言った」
「ここまで女の子が来てくれたのに、放っておいて帰るわけ?」
「それはそっちが勝手に呼んだからじゃないか。僕だって困るし、彼女も困るに決まってる」
「そうなの? 戸村、困る?」
急に話を振られて、私はなんとも曖昧な顔をした。困るも何も、話が見えてこないままだ。
「別に困らないって」
ミューズの言葉に、お兄さんが口をつぐむ。本当に困らないのか、私自身にも分からないのだけど。あ、それが困るという感情か、と今気づいた。
後は二人にお任せしたよ、頑張って。と、エールらしきものを残してミューズは去って行ってしまった。
言葉が無くなったことを嫌うように、お兄さんは咳払いをして話し始めた。
「ごめんね、妹に言われて来たんだと思うけど、僕はその、最初に言っておくけどそういうつもりは一切無いんだ」
そういうつもり? 私は首を傾げる。
「まずは自己紹介をしよう。僕は持田月人。歳はミューズや君より五個上だね」
ゲット。カタカナの文字列が頭に浮かぶ。同じぐらいの歳に見えたから、五歳上なのは驚いた。
返事の代わりに私は頷く。頷いて、どうやら月人が私の順番を待っている様子と知る。だからって私が喋ることはない。
「君は戸村あやさん、とても大人しい人だって聞いてるよ」
そうしてまた私の返事を待つように間を空ける。
「本当に大人しいんだね」
驚きを隠さず、月人が大きな目をさらに大きくする。だんだん申し訳ない気がしてきて、何度も頷きを繰り返した。
ごめんなさい、あなたの話が退屈とかじゃないんです。
心の中で言いながら、惑う。ミューズはなんのためにこの機会を作ったんだろうか。
「ごめん、いいよ、大人しい人の方が僕は好きだ」
アイライク寿司。彼が言う好きはその類の趣味発表のものか、あるいは社交辞令の嘘か。そうだとしても、はっきり嫌じゃないと表明してくれたのは、いくらかの安心材料にはなった。
「はい、コーヒーお待たせ。盛り上がってるかな?」
ミューズが明るい声とともに二人の間に立つ。私たちそれぞれの前にコーヒーを並べながら、私と月人の顔を交互に確かめているようだった。
「変なヤツには変なヤツが合うかと思ったんだよね」
ミューズが楽しそうに笑う。何か言いかけた月人の返事を待たず、ミューズは「あー忙しい」と独り言を残して他のテーブルへ向かっていく。特段、店内が混みあっているようには見えなかった。
「ええと、それで」
仕切りなおすように、コーヒーをすすった月人が切り出す。少し考えた顔をした後に、
「戸村さんは、ミューズからどういう風に今日のことを聞いてるの?」
と続けた。
私は首を横に振って、何も聞いていないと表明する。
「何も?」
うなずく。
「そ、そうなんだ」
それきり月人は口をつぐんだ。時々何か言いかけたかと思えば、そうじゃなくて、と独り言のように呟いたり。ミューズへの返信を書いたり消したりしていた自分に似ている気がした。
「えっと、戸村さんはミューズと仲良かったの? 同級生なんだよね」
頷きや身振りで答えられない問題だ。いよいよスマホを取り出そうかとも思った。文字で打って説明しようと。でも、文字にもできそうになくてやめた。いじめっ子といじめられっ子って。見せられないでしょ。
「ああ仲がいいってわけじゃなかったかな。そうだね、うるさいミューズとじゃキャラが全然違うし」
無かったことにするように、月人は自分が始めた疑問を早口で終えた。私がうつむいていたせいで、何か気を遣わせたのかもしれない。
「もしかして、いろいろ聞かれるのは嫌かな?」
私はうつむいたまま、上目遣いで月人を見た。嫌なのかもよく分からない。ただ、質問されても答えられないのは確かだけど。
「じゃあ、僕の話をしてもいいかい?」
うなずく。いまだによく分からないこの状況は、彼に話してもらうしか成り立ちそうになかった。
「僕は今日は休みだけど、普段はスポーツ用品店に勤めてる。それで……」
そうやって始まった彼の話は、好きな音楽や映画について当てもなく話しては行き詰って、今度は何を話そうかな、とまた思案する。
私からすれば、そろそろ頃合いかな、という段階。一定の頻度で登場する、私に懸命に話しかける人が心の折れる頃合い。一人で話し続けることに限界を感じて、お開きを申し出る。二回目がある人はそういない。三回目がある人はまずいない。
「キミはすごいね。こんなに大人しい人は初めて会ったよ。ああごめん、変な意味じゃないんだ。ただ本当に驚いてるんだ」
月人が置いたコーヒーカップは空になっていた。
大人しいんじゃなくて病気ですよ。不治の病。
「よかったら晩御飯を一緒にどうかな? その、もう少し話がしたくて」
私はたぶん、久々に心から驚いた顔をしていたと思う。目を見開いて、その真意を見つけようと月人の顔を隅々まで見る。肉なんて食べたことがなさそうな、混じり気のない肌がやたら綺麗だってことしか分からなかった。
「嫌だったら無理にとは言わないけど」
と、聞かれて返事をしないといけないことに気づく。私は首を振った。嫌ではないから、それは伝えないといけないと思った。
「よかった。じゃあ、行こう。すぐ近くに美味しいお店があるんだ」
ミューズがレジで会計を計算しながら、どこ行くの? と囃し立てる。月人はといえば、聞こえないふりでもしているように静かに財布を用意していた。私はその後ろから、自分が飲んだ分のコーヒーチケットを差し出す。
「僕が出すよ。付き合わせてしまったし」
私は首を振って断る。このコーヒーチケットだってミューズがくれたのに、さらにおごってもらったら何が何だか分からない。
「大丈夫、大したお金じゃないから」
私は差し出したチケットを、ミューズに突き付ける。構わないから受け取って。
「ミューズ、僕が払うから」
「どっちでもいいから早くしてくんないかな。お客さんが待ってるよ」
月人が折れたことで、ミューズにチケットを受け取ってもらうことができた。店から逃げ出すように出た月人の後に付いて行く。
結局、ミューズが私と月人を引き合わせた理由はなんだったんだろう。最後に何か教えてくれないか、ミューズの方を振り返ったけど彼女は店内を見ていて気づく様子がなかった。いつもの明るさはなく、何も考えていないようにどこかを見つめる横顔。それが誰か、私の知らない人のように見えて心細かった。
月人の言う店は本当に近くて、私に嫌いな食べ物がないか尋ね、どんなお店に行くつもりかを説明してくれている間に着いた。近所にある大学に合わせてか点々と飲食店や居酒屋が続く道中、そこはあった。
なずなと同じような薄暗い店内だけど、置かれている装飾品のジャンルがまるで違う。東南アジアで買ってきたような木彫りの民芸品が多く、お香の匂いもする。来る途中、月人はタコスとカレーが美味しい謎の店なんだけど、大丈夫? と聞いていた。うなずいてみたものの、タコスがどんな食べ物かはっきり思い出せない。学校か、結菜ちゃんか家族と食べたことがあるものがほとんど全てなんだから、私が知らない食べ物ってけっこうあるんだろう。
そんなことを考えていたら、奥の四人がけぐらいのソファー席に案内された。なずなや他のお店のソファーと違って座ると深く沈み込む。おまけに布地の生地だから、布団の上に座っているような感覚になった。
月人に促され、メニューを見回す。タコスの種類が選べて、別の欄にカレーが載っている。私はカレーを指さしかけ、止めた。
あやちゃんって冒険しないよね。とはいつかの結菜ちゃんの言葉だ。結菜ちゃんは新しいメニューがあるとすぐに頼むのだけど、私の選択基準は知っているか知らないかだ。美味しいと分かっているものがあるのに、他を選ぶ結菜ちゃんの気持ちが理解できなかった。
私はタコスの中から、アボカド&ツナを指さした。食べたことがないタコスに、アボカドも食べたことがない。これほどの大冒険を、結菜ちゃんに言う気はないけど少しやり返せた気がする。大体、結菜ちゃんだって新しいものに飛びつきすぎてよく失敗していたくせに。
「じゃあ、後は適当に頼んでおくよ。飲み物は?」
月人がこまめに注文する内容を私に確認して、私はどれにもうなずいた。正直、どれも想像がつかないものばかりだった。
「いきなり付き合わせて、迷惑じゃなかったかな?」
私は首を傾げる。迷惑というほどではないけど、なんだか言われるがままにたどり着いてしまった。
「実は、キミならもしかして僕のことを分かってもらえるんじゃないかと思って」
月人は難しそうな顔をして
「いや、僕の一方的な思い込みなのかもしれないけど」
と逃げるように視線を彷徨わせる。
「キミに、聞いてほしいことがあるんだ」
喉にガラス玉でも詰まっているような、押し出す声。
「その、なんていうか」
私は真剣に聴くべき話な気がして、ソファーに沈みかけていた背筋を正す。
「何から話せばいいのかな」
そうこうしているうちに、飲み物やサラダが運ばれてきて、月人は安心したような悔しがるような苦笑いを浮かべた。
「そうだ、まずは食べよう」
こう言った時には、安心の方が勝っているようにみえた。
タコスは、前に結菜ちゃんと食べたクレープに似ているといえば似ていた。中から出てきた熱いソースで口の中がいっぱいになって、もっと慎重に食べればよかったと悔やむ。熱さを我慢していたらぬるい柔らかい生ものの感触があって、なんだか涙目になった。恨めしく覗いたタコスの中には、緑色の塊が詰まっていて、それがアボカドだとようやく分かった。正体を知って食べたアボカドは意外と美味しくて、涙も気づいたら引けていた。
「どう? なかなかいいと思わない?」
月人が言いながら、他のお皿を差し出してくる。フライドポテトやスープが並んでいて、タコスと比べると安心感のある面々だった。
「戸村さんは不思議だね。なんだかお人形さんみたいだ」
ポテトが口に入ったまま、中途半端に噛むことを忘れる。どんな顔をするべきなのか、続きを食べていいのかもよく分からなかった。
月人は私の様子を見て、軽快に笑い飛ばした。
「ごめんごめん。そんなことを言われたら食べにくいか」
変な意味じゃないんだ、ただ、お行儀よく座って静かだからお人形さんみたいだなって思っちゃったんだ。と付け加えた。
「思い出すな、子どものころのこと。ミューズは僕が五歳の時に生まれたんだ」
話題が私から逸れたと分かると、自然とポテトの味がよく分かるようになった。スパイスの効いた慣れない味。
「僕はミューズが生まれる前から、女の子とばかり遊んでいてね。親がいくら男の子のグループに入れようとしても、怖いって言って聞かなかったらしい。幼稚園の頃はずっと、女の子とするおままごとやお人形遊びが好きだったんだ。意外かな?」
頷いてから、考える。今の成人した月人を目の前にすると意外な気がしたけど、子どもの頃の遊びなんてそんなものかもしれない。
月人はタコスを頬張りながらテーブルを見つめていた。やがて何かに納得したように続ける。
「ミューズが二歳のときのクリスマスプレゼントがね、ミューズの背丈とほとんど変わらないぐらい大きな人形だったんだ。女の子の、着せ替えができたり髪をブラシで梳いてあげたりできるやつ。あれを見たときは本当にうらやましかったな。僕は着せ替え人形どころか、ぬいぐるみももらったことが無かったからね」
そう嘆く月人は何をもらっていたんだろう? 私の疑問も拾い上げるように、月人の思い出話は続く。
「小学校に入るぐらいまでは不思議だったよ。なんで友達の家と違って僕は、誕生日もクリスマスもお願いしたものがもらえないんだろうって。今でも覚えてる。ミューズが着せ替え人形をもらった年、僕がクリスマスプレゼントでもらったのはグローブとボールだった」
彼はぎゅっと目を閉じ、俯いた。長い睫毛と高い鼻が、それこそマネキン人形のようだった。目を閉じて記憶を辿っているだろう姿は、幼い日の自分がすぐそばにいて、健気な声に耳を傾けているようにも見えた。
「あの時、僕は諦めたんだ」
ほんの一瞬、子どもが泣き出す寸前のような、本能的に手を差し伸べたくなる瞬間。私がその変化に気を取られたときにはもう、月人の顔は余裕のある笑みに戻っていた。
「僕が人形遊びをしたがったり、女の子とばかり遊ぶのが好きなのは間違っているんだって。僕が間違っているんだから、お父さんやお母さんが望むように僕は野球をするべきなんだってね」
ごめんね僕ばかり喋って、と私のせいなのに彼は謝る。せっかくだからどんどん食べてよ、と言われて見たテーブルの上の料理はあまり減っていなかった。言われるがままに、ポテトを手に取る。
「こんな話、つまらないかな」
私は首を振る。そもそも私には昔から、人の話がつまらないという感覚がよく理解できない。
以前、姉とそんな話をしたことがある。「あんたは人の話がつまらなくても話題を変えたりできないから不便だね」と言われた。話がつまらないと思ったことがない、と答えると姉は「幸せなのか不幸なのかよく分かんない話だね」と半ばあきれていた。
私に投げかけられる言葉の全ては、私にとって大事な情報だった。一つ聞けばまたその人のことを知りたくなる。次に出会ったときには、また話しかけてくれるとは限らない。ミューズの言葉を怖いと思うことはあっても、つまらない言葉など私には一つだってなかった。言葉は、いつだって憧れるものだった。
彼は心から安心したように、冷めかけの料理に手を付け始めた。時々ミューズの話をしたり、自分の話をしたり。その途中でも常にこちらの様子を窺って、自分の言動が私の気に障ることを恐れているようにも見えた。
私からすれば、不満なことなど一つもなかった。相づちも満足にできない残念な私に、月人は穏やかなまま言葉を続けている。
「僕が人形で遊ぶことを許してくれたのは、ミューズだけなんだ。お父さんとお母さんに隠れてこっそり、一緒に遊ぼうって誘ってくれた」
それはきっと、幼い頃の他愛もない話。頭ではそう分かっていても、ミューズの可愛らしいエピソードを耳にするのは複雑だ。凶悪犯が幼いころに花を愛でていたような話を、私はどういう気持ちで聞けばいいんだろう。
「なずなに人形が飾ってあるのは知ってる?」
私は頷く。あのカウンターに並んだ、気の抜けた笑顔が浮かぶ。
「あれはミューズのなんだ。二歳のクリスマスに最初の一体をもらってから、六歳のクリスマスまで毎年ミューズがサンタにお願いをしたんだよ」
記憶を辿ってみても、五つの人形のひとつひとつはよく思い出せない。五体の人形それぞれに思い入れがあると分かると、不思議ともっとよく見ておけばよかったと後悔した。たとえ思い出の主がミューズであっても。
「でも、僕はそれがずっと不思議だった」
月人の声の調子が変わり、自然と視線が向かう。
「いくら人形が好きだっていっても、毎年人形をお願いするかな? それに、誕生日はいつも違うものなんだよ。おままごとセットだったり、お絵描きセットの時だってあった」
月人は口に運びかけたタコスを止めて言う。
「これは僕の勝手な想像だけど。ミューズは人形が欲しかったわけじゃないのかもしれない。ただ、僕があんまり欲しそうにしてたから。かわいそうって思ったんじゃないかな。ミューズが一人で人形遊びをしてた記憶はないんだけど、よく遊んでってせがまれて一緒に遊んでたのは覚えてるんだ」
ま、僕の妄想かもしれないけどね。と苦笑いとともにタコスを頬張った。
私はまた、ミューズという人間がよく分からなくなる。兄を思う心優しい幼児。落ち込んでいた私に声をかけ、コーヒーチケットをくれた今。じゃあ一体、私が中学の時に受けた仕打ちはなんだったというのだろう。私が、何かいけないことをしたのだろうか。優しいはずの彼女を狂わせるほどの、何かを。
ずいぶん時間をかけて料理が無くなったところで、月人は腕時計に目をやった。
「そろそろ出た方がいいね」
促されて席を立ちかけ、戸惑う。月人は、何か私に言いたいことがあるはずだった。確かめたくて、月人を見る。
「どうかしたの?」
ただ察してくれることを期待して、待ってみる他なかった。
「あ、ごめんもしかしてトイレとか」
と、月人が慌てたところで私は諦め首を振った。席を立つと、月人も不思議そうな顔はしていたけど一緒に席を立った。
月人は私にお金を払わせようとしなかった。少しだけでも払おうと差し出したお金は、頑として突き返される。『話を聞いてもらったお礼』という文言から始まり、途中からは
『僕は働いてるんだから』
『誘った方が払うのがマナー』
などなど、手を変え品を変えて説得してくるので私の方が折れた。
参ったのは、店を出たところで帰りのタクシー代まで出すと言い始めたことだ。そもそも、タクシーなんか使わなくても電車で十分たどり着ける場所なのに。
「いくらぐらいかかるの?」
と問われ、ただ首を振る私に、月人は千円札を何枚か握らせようとしてくる。だんだん言葉少なになってお金を押し付け合う私たちの横を、怪訝そうな目をしたカップルが通り過ぎていく。
やむなく、私はスマホを取り出した。戸惑った様子の月人を尻目に、私は画面を差し出す。
『今日はありがとうございました。家へは電車で帰ります』
月人が画面を見ている間、酷く息苦しかった。私の言葉が、人に伝わる。ミューズに手紙を渡したときとも違う、目の前の相手へ今の気持ちを伝えること。どうしようもなく困難で恐ろしいこと。何か変なことを言っていたらどうしよう、気を悪くさせたらどうしよう。その場に崩れ落ちそうな感覚。早く月人の反応を見て安心したいような、永遠に返事がない方がいいような。電車が通り過ぎる音が、やたらとはっきり聞こえていた。
「そう、か。なら電車代だけでも」
私は激しく首を振った。自分でも過剰だと思う、振り払うような動き。ああ、きっと異様な姿に映っているだろう。どうしていつも、伝わってしまったものは悔やんだところで遅い。
「分かった。ごめんね、本当は僕が出すべきなのに」
さっきまでと変わらない、穏やかで相手を気遣い続ける口調。彼に変化がない以上に、私自身が彼の様子を知ることを拒否していた。ただただ怖くて、早くこの場から消えてしまいたかった。
「最後に、お願いしてもいいかな?」
私は頷く。同意というより、立ちすくんで思わずそうしてしまった。早くこの場が過ぎることを、本能で望んでいるみたいだった。
この呼吸が、震えが、月人にはどう映っているのだろうか。気味が悪い? 関わらない方がいい?
月人は、電車が通り過ぎるのを待ってから言った。
「また話がしたいんだ。連絡先を聞いてもいいかな?」
不思議だった。もう怖くないはずなのにやっぱり膝は浮ついていて、何に対してかも分からず耐えていた。
八
車と、電車とバスは何が違うんだろう。背中をシートに預けているのが嫌になって、そんなことを考えていた。体を起こすと、背中から湿度の塊が抜けていくのが分かる。
前方からはハンドルに片手を投げ出しているゴマ君と、助手席であくびを噛み殺すミューズの声が続く。途中から会話を追えなくなった私から見ても、二人は渋滞を前に意気が下がっていた。目的地は、きっとまだ遠い。
「この時間はこんなに混むんだなあ。やっぱり八時には出ておくべきだったかな」
「勘弁してよ。それじゃあ一限行くのと変わらない時間じゃん。私の日曜日をなんだと思ってるの?」
「そうは言っても。ヘタしたら月人くんのいいところ、見逃しちゃうし」
「練習は午後もやってるんでしょ? なんとかなる、なる」
スマホに目を落とすと、もう十二時が近くなっていた。車に乗って一時間以上経っていると知ると、一段と身体が重くなった。ドア側にもたれたつもりが顔から触れて、頬が窓に張り付く。冷たくて、熱が出たときの氷枕を思い出した。この車内で初めて見つけた快適ポイント。目を閉じて、疑問の続きを考える。
車と、電車とバスの違い。つまり、なぜ車はこうも居心地が悪いのかだ。差し当たって思いつくのは、狭さと匂いと景色だ。立ち上がるスペースが無いことも、ゴマ君が振りまいただろうお香のような匂いも、機嫌悪そうな車に囲まれた車外と、大小不揃いのマスコットが窓を囲む車内の景色も、全てが原因な気がしてきた。
私が体験している不快さは、車酔いというやつで間違いない。気だるくて、頭が痛い。自分が車酔いする体質だとは思ってもみなかった。電車やバスで酔ったことがなくても、車だけ酔うこと。生涯忘れず教訓とすると誓いながら、顔を窓ガラスにうずめる。
「どうしよう。ほんとに昼ご飯食べてから行った方がいい時間かも?」
「いやー、今食べるとそれこそ、到着したら午前の練習終わってた、なんてことになりそうだなあ」
「戸村はどう? お腹すいてる?」
ミューズの声が自分に向けられているものだと、気づく余地もなかった。
「ちょっと、なんか顔白い! 大丈夫?」
答えなくてもいいや。だって私はこんなに辛いんだもの。目を閉じ意識が消えていくのが心地いい。周りの車も狭さもどうでもよくて、あとはこの偽物の森みたいな匂いが無くなればいいのに。最後にそう思った。
曖昧になっていく意識の中、なぜだか何度となく思い返してきた記憶が割り込んでいた。拒むほどの気力もなくて、見せつけられるがまま浮かぶ光景に身を委ねる。
記憶の中の私は、着慣れないお上品な服と忙しない大人たちの様子に浮足立って、いつもにも増して顔を伏せていた。淡い黄緑色のワンピースに、左肩には片手で余るぐらい大きなバラの飾りつき。あれは多分、小学校に入る前ぐらいの年齢だったんじゃないかと思う。
私の前で姉は、ほとんど同じデザインの桜色ワンピースに身を包んでいた。母の妹の結婚式。朝早くから準備をして、いつ式が始まるのか、何が行われるのかもよく分からず退屈を持て余していた時間だった。
何やら慌てた様子の大人がやってきて、母に耳打ちをする。姉が当たり前のように母の隣で腕を掴み、私は声が聞こえない位置でその様子を眺めていた。大人が姉と母を交互に窺い、姉が力強く頷く。大丈夫だよ、としっかり者の声が聞こえる。この辺りの記憶はかなり曖昧だ。もしかしたら後から補完した部分があるのかもしれないし、案外その通りなのかもしれない。確かめようもない朧気な断片なのだけど、次の場面ははっきり覚えている。
私の前に現れた姉は、子ども心に目を見張るほど可愛らしく、プロの手によるコーディネートが為されていた。透き通るように白いくせに、控えめに入ったライン状のラメがきちんとドレスの煌びやかさを引き立てる。ふわふわのスカートは姉の動きに合わせ、漂うように揺れていた。何より私が羨ましかったのは頭の上に乗せられた花冠だ。フラワーティアラというのが正式な名前らしいけどとにかく、姉の頭を取り巻くピンクの花々が鮮烈だった。
後から知ったことだけど、姉は急遽欠席となった子どもに代わってフラワーガールという大役を仰せつかっていた。ヴァージンロードに花を撒き、新婦を先導する姉。私は聞いていないやら羨ましいやらで、呆然としていたんじゃないかと思う。
この記憶は、いつも罪悪感と居た堪れなさとともに終わる。決まって最後に思い出すのは、私が手のひらサイズの熊のぬいぐるみの毛を毟り取っているところだ。まだ披露宴の最中、ごちそうが並ぶ純白のテーブルクロスの下で熊をいじめる。私は足をバタつかせて、無表情のままその作業に没頭した。
なぜ私の手元に収まったのかは覚えていないけど、それは姉が貰うはずのぬいぐるみだった。フラワーガール役の子へのお礼の品。ぎゅっと掴んだ拍子に毛が抜けて、なんだか自分の気持ちが少し晴れた気がした。何度も毛を抜いていくのだけど、簡単に抜ける部分はさほど無かった。毛が長い部分以外は抜けず、面白くなかった。不満を露わに熊をテーブルの角に打ち付ける。急激に苛立ちがこみ上げ、二度、三度と続けた。
反動でテーブルの上のジュースグラスが転がり落ちて、母が私の手の中で歪な毛並みになった熊を見つける。
「どうしてこんなことするの」
ジュースを拭き、散らばった毛を集めながら母が声を荒げる。私の方が聞きたかった。どうしてこんなことをしてしまったんだろう。この感情は、なんという名前なんだろう。
家族になら口で話すことはできたわけだけど、そういう問題じゃなかった。説明する言葉が見つからない。ただ確かに覚えているのは、この時の私は姉よりも大人たちを恨んでいた。フラワーガールをしないかと、どうして私にも声をかけてくれなかったのか。
きっと私のことだから、いざ打診を受けたら怖気づいて断っていただろうと理解はしている。その分際で、自分が選択肢にも入っていなかったことにショックを受けていた。私だって、頑張ればできたかもしれないのに。
肩に何かが触れ、私は目を見開いた。助手席からこちらを伺うミューズの手が慌てて引っ込む。多分、お互い同じぐらい驚いた。
「お、起きてたの?」
私は首を振った。自分がどこにいたのかも分からなくなるぐらい眠っていた。
「いやー、ずいぶん時間がかかったよ。世間様はどこへ行くんだか、道が激混みでさ」
運転席からゴマ君が呆れ声で言う。だんだん、状況が飲み込めてきた。月人が野球をしているところを見ようと、ミューズの呼びかけで球場に向かっている車内だった。断るほどの理由もなくてついて来た私と、運転手要員で連れて来られたゴマ君。
「戸村、ごめんね。戸村の分も一緒にお弁当買って来ちゃった。あんまりすやすや寝てるから、起こすのかわいそうでさ」
人前で寝るなんて、修学旅行ぐらいでしか記憶にない。しまった、と動きそうになる口元を引き結んだ。どんな姿を見られたのだろうと思うと、恥ずかしさでミューズの方に顔を向けられなくなる。
「残念なことに、結局午前の練習にはぜんぜん間に合わなくてね。あと三十分もすれば午後の練習が始まるから、ベンチでお弁当でも食べて待ってよう、という僕のナイスなプランだよ」
私の様子に気づくことなく、ゴマ君が胸を張る。では早速行こうか、と車から降りた。ミューズに次いで、私も置いて行かれないようドアを開けた。
出て、知った。空気が広い。
砂地の駐車場にいる他の車は離れ小島みたいで、視界を遮るものがほとんどない。駐車場と道路を区切るのは連なる木と緑で、さらにその遠くに見える道も、どこまでいっても緑が続いて見えた。立っているだけで新しい空気が胸に入ってきて、車内でしていた呼吸と同じ行為には思えなかった。いつもは煩わしいまっすぐな陽の熱が、柔らかで仄かに思えた。
伸びをしながら進み出る二人の後につく。意図せず駆け出したくなるような感覚。似た経験を思い出すと、浮かんできたのが中学の林間学校で驚いた。随分遡らないと、私はろくに木々に近づいてすらいない。
ゴマ君はさすがは月人を追いかけていたというだけあって、分かりきったように進んでいく。途中、現在地を示した看板があって、テニスコートやジョギングコースの文字が見えた。視界の緑の先も、だだっ広い敷地の一部分なのだと知る。私たちが進む道はジョギングコースの一部なのか、背筋を伸ばして走る女性や同じジャージの学生集団などがすれ違っていった。
「ねえ、この辺いいんじゃない?」
ミューズが前を行くゴマ君に声をかける。指さす先にベンチと、フェンス越しの黒板色のスコアボードが見えた。その存在で初めて、いつの間にか野球場の周囲を歩いていたと知った。
「ダメダメ、そこじゃ月人くんが遠いでしょ。月人くんがショートを守る以上、三塁側から見ないと」
「うそでしょ、三塁側って完全に反対側じゃん。あっちまで行くの?」
「大げさだなあ。いつも立ち仕事なんだから余裕でしょ」
「私のお腹が早くしてって言ってるの。ねえ、どこで見たって一緒だってば」
繰り返し訴えるミューズを、ゴマ君は生返事であしらい続けた。私はといえばミューズの言う「向こう側」までの距離も実感が湧かなくて、時々木を見上げながらただ歩いた。車の中で縮こまっていたせいか、もう少し歩いてもいいと思えた。
とうとうミューズの反対を押し切って、球場の周りを半周したところでゴマ君が足を止めた。ここが最高の場所なんだよ。ゴマ君が言い終わる前にミューズはベンチに座ってお弁当を広げ始めていた。手招きされて、ミューズの隣に座る。座ってしまうのが惜しい気がしたけど、座っても木はいい匂いで温かくて、来てよかったな、なんて思う。さっきまで車酔いに苦しんでいたことなんてきれいに忘れていた。三人で座るには窮屈そうで、ゴマ君は隣のベンチに腰掛けた。
ゴマ君いわく公園名物という弁当を食べながら、フェンスの向こう側へ目を向ける。野球場というと芝生のイメージがあったけど、ほとんどの部分は土のグラウンドだった。隅っこのあたりに、わずかだけど頼りない色と密度の草が点々としているエリアがあった。あれが芝生? それとも雑草? 目を凝らす。
「ああやってね、選手によっては早めに出てくるんだ。クラブチームといっても部活とは違うからね。熱心に体を動かすのも休憩時間はしっかり休むのも、自主的に考えなきゃ試合に出れないってわけ」
ゴマ君が解説してくれたのは、私が目を凝らしていた足元の上を踏み鳴らして通る選手たちのことだ。上下白に水色のラインが入ったユニフォームを、揃って身に着けた四人が走っている。ゴマ君は弁当を抱えたまま、グラウンド全体を見ようと立ち上がった。
「それで、月人はもういる?」
卵焼きを頬張りながら、ミューズが尋ねる。なずなで見る身軽さと違い、ベンチに貼りついたままだ。ゴマ君を差し置いて座ったままの姿が、なずなのお母さんそっくりな気がして笑いそうになる。
「いや、まだいないね。大体いつも最後に出てくるから。どちらにせよもう二時になるし、すぐだよ」
あ、とミューズが短く声をあげた。多分、月人を見つけたと言おうとしたのだろうけど、その先はかき消された。
「月人さーん」
「月人ー」
「がんばってー」
一斉に上がった声の先に、若い女性の三人組がいた。彼女たちの視線の先をたどると、今姿を現したらしい月人の姿があった。遠目から見ても、戸惑っているのが分かる。軽く帽子に手を当て、ストレッチをしている選手たちの輪に入っていった。
「あれ本気? ゴマ君以外にもファンがいるの?」
「なんだかね。最近ネットで人気が出てるんだよ。SNSってやつ。月人のプレーじゃなく、イケメンってことで注目が集まってるのが腹立たしいけど」
ほら、あの辺もみんなそうだよ。とゴマ君が指したあたりには、他にも何組か月人に視線を注ぐ集まりがあった。大抵が若い女性だけど、たまに男の人の姿もある。
「バックネット裏であんなに騒いだら選手たちの邪魔になっちゃうよ。ああいうのと、同じファンだってくくられたくないね」
肩をすくめたゴマ君の後ろで、ふーんとミューズが声を漏らす。珍しいものを見た顔で
「ゴマ君、意外とストイックなんだ」
と呟いた。
「ストイック? むしろ、ファンってそういうものでしょう。単にあの人たちのマナーがなってないだけで」
「ねえ、なんでゴマ君ってプロ野球よりアマチュアが好きなの?」
「え?」
予想外の質問だったのか、ゴマ君はぴたりと言葉を止めた。
「だってさ。プロ野球が好きって人はたくさんいるけど、クラブチームまで追っかけるなんて相当マニアックじゃん。何がそんなにいいんだろう、って思って」
「僕はプロ野球もアマチュアも、全部ひっくるめて野球が好きってだけだよ」
「えー、そうかな。てっきりアマチュアの方が好きなんだと思ってた。プロ野球の試合は見に行かないって言ってたしさ。いくら野球好きだからって変わってるよ」
ゴマ君は答えず、思い出したようにベンチに座り直した。弁当に初めて手をつけ、どうだろうねと曖昧に笑う。
なぜだっけ。私はゴマ君の態度にちぐはぐな何かを感じている。違和感の正体が記憶の中にある気がして、綿あめみたいなモヤモヤの糸をたぐり寄せようと頭を働かせる。
「それを言うなら月人くんだって相当変わってるよ。中学で野球を辞めたのに、就職してから野球をやるなんて。しかもリーグのどの選手よりも上手くて華がある。学生から野球を続けていたら、絶対今頃プロでバリバリやってたはずなのに。もったいない」
肩を落とすゴマ君を見て、違和感の正体に気づいた。あれは、なずなで初めてゴマ君を見かけたとき。
『僕レベルにもなると、チームなんてものは超越してますから』
テレビで試合を見るゴマ君は、それが自慢とでもいうようだった。さっきの、ミューズの質問に肩をすくめる姿は、なんとなくだけどゴマ君らしくない気がした。
「月人はね」
名前を出してから、ミューズがペットボトルのお茶を飲む。ゆっくりフタを閉め切ってから口を開いた。
「謎だもん。ま、確かに昔から野球は別に好きそうじゃなかったけど」
「そうなの? もったいないなあ。もったいないお化けが出るよ。才能の塊だよ彼は」
「でもね。好きも才能のうちって言うじゃん。だからゴマ君がいくら言ったって、月人には才能がなかったんだよ。野球、好きじゃないんだもん」
何を合図にしたのか、グラウンドに散らばる選手たちから次々に声が上がる。それぞれが自分の持ち場らしき場所に散っていった。
「じゃあますます意味不明だよ。好きじゃない野球を、なんで就職してから始めるの」
「だから謎なんだって。月人が高校から野球やらないって言い出したとき、家は大荒れだったんだよ? ほんといい迷惑。思い出したくないよ、あの頃は。おとうやおっかあにも理由を言わないし。なんか家の中がギスギスしちゃって、私まで毎日親とケンカしてたし。それに」
ミューズが私を見る。
「戸村に当たり散らしてた時期だし」
「ミューズちゃん、それはもういいんじゃない? こうやって今は仲良くなった、良いことじゃない」
なだめながら、ゴマ君が目の端でこちらに同意を求めてくる。私は曖昧にうなずいた。ミューズが不服そうに息を出したのを最後に、三人とも示し合わせたように黙った。
グラウンドではノックが始まっていた。選手たちが順番にボールを受け、投げ返す。ゴマ君が再び立ち上がり、フェンス前に陣取った。座ったばかりだと思っていたのに、ゴマ君がいた場所には空になった弁当箱が居座っている。
「この弁当、なかなか美味しいよね」
そう言うミューズの顔は、なずなで会う時のように活発さを取り戻していた。私は正直に、うなずいて返す。特別目立つ品があるわけじゃないけど、どれを食べてもおいしくてピクニック気分にぴったりだった。
「前に月人から聞いてたんだ。チームの練習場近くに美味しい弁当屋があるって。でも練習見に来ることなんか無いからさ。戸村がいないときっと一生食べる機会はなかっただろうな。こうして美味しいものに出会えたのは、戸村のおかげ」
どう返すべきか分からなくて、弁当の端を彩るあんみつを食べてごまかした。本当は来る前も、今もずっと、聞きたいことがたくさんあった。月人と会った次の日、ミューズから来たメッセージ。
『週末の月人の練習を見に行こう』
理由を聞きたかったけど、どうやって聞けばいいか分からなかった。嫌がっていると思われたらどうしよう、理由が返ってきたらなんと答えよう。そんな問答を続けているより、行くと返事をする方が楽だった。結局誘われた理由も分からなければ、お礼を言われる理由も分からない。
「ねえ、こうやって私が誘うの、迷惑じゃない?」
首を振る。分からないことは多いけど、今いるこの時間も含め悪い気はしていない。
「そっか、ならよかった。でもね。一つ謝らせて」
何を? と思う前にミューズはもう謝っていた。
「ごめん。私、本当に最低な人間なの」
自分自身に、怒りを通り越して呆れているような頼りなさ。
中学のころの件だろうか? 他に、ミューズが私に謝るような理由があるはずもない。だけど、ミューズは私の身に覚えのない話を続けた。
「全部分かってるの。月人は何も悪くないって、頭じゃ分かってるんだよ。でもそんなに簡単に納得できない」
身を固くするミューズの横で、最後に結菜ちゃんと会ったときのことを思い出した。よく分からない理由で私の前から去った結菜ちゃん。よく分からない理由で謝るミューズ。どうしてこんなにも、説明がされないことばかりなんだろう。きっと、私が尋ねれば済むのだろうけど。
「いつかさ、ちゃんと話すから」
どこか白けた私の気持ちに気づいたのかは分からないけど、ミューズはそうつけ加えた。
「戸村」
私と目が合ったのを確かめるように、唇を結んでから続けた。
「戸村はさ、話せるようになろうって努力したことあるの?」
自然と私もミューズも、箸を持ったままの手を止めていた。私の目はミューズに向けられたまま、その顔の先のどこか遠くへと焦点を移していた。意図の分かるような分からないような問いを、頭の中で繰り返してみたけど相変わらずよく分かりそうにない。
「例えばちょっとでも話すように練習してみる、とか、発声練習とか? それとか病院に行ってみるとか。精神科とか、意外と薬でなんとかなったりしないのかな」
「これでも私なりに考えたんだよ。戸村にとっていい方法が無いのかなって思ってさ。思いついたのがこんなのだった」
「ごめん。私が勝手に、戸村にできる罪滅ぼしを探してるだけなんだ」
私が何の反応も返せないでいるのが気を遣わせたのか、慌てた様子でミューズは次々に言葉を重ねた。その間、私は湧き上がる嫌悪感と戦っていた。じっとり汗ばむ足元から、こもった熱と一緒に噴き出てくるような忌々しさ。ああ、ダメだ。これではまた同じ。結菜ちゃんの時と同じだ。結局、話せない私はいつかこの問いにぶち当たる。私がいくら私を良しとしても、他人からみれば本当は話せる私を望んでいるのだろう。やっぱり私は猫と生きていければいいかな。猫屋敷と化した家を思い浮かべてそんな風に思い、虚しさから目を逸らした。
「ねえ、じゃあ一緒に調べてみようよ。喋れないこと、戸村の病気のこと、スマホで調べてみたら何か方法があるかもしれないじゃん。練習が必要なら付き合うしさ」
私は首を振った。できるだけ感情を悟られないよう、丁重に、ご遠慮させて頂きますと辞退の意だけが伝わるよう首を振った。自然と笑みすら浮かべていたように思う。幸いミューズは私の意図通り受け取ったようで、小さく鼻を鳴らしただけで何も言わず頷いた。
「ほら、月人くんの番だよ」
ゴマ君が手招きする。同時にグラウンドを取り囲む空気も変わるのが分かる。誰もが同じ方向、ショートという位置で構える月人に視線を向けていた。事情を知らない様子の人まで、何事かと注目する。
「行こう、せっかくだから前で見ようよ」
立ち上がるミューズとともに、ゴマ君と同じようにしてフェンス網に手をかけた。
「月人さん、頑張ってー」
月人が登場したときに最初に声を上げた三人組が、見えない誰かと競うように声を張る。
「うるさいぞー」
聞こえてほしいんだかほしくないんだか、声を出すゴマ君は口元を手で隠していた。手で制したミューズが、顔をフェンスの網に押し付ける。
「月人おーっ、いけー!」
「守備の練習の割に、攻めた声援だね」
ゴマ君が苦笑する。容易くボールをさばいた月人が、元の位置に戻る途中で一瞬顔を上げた。すぐに顔を伏せたけど、月人が私たちに気づいたのは明らかだった。
「おーおー、気づかないふりだよあいつ。手ぐらい振ってくれたっていいじゃん」
「シャイだからね月人くんは。それに、こっちだけ手を振ったりしたらあの追っかけさんたちが黙ってないだろうし」
熱心に声援を送り続ける三人組は、ミューズの声に構う様子もなく月人の動きを追い続けている。
「すごいなあ。トラトラトリオ」
ゴマ君の呪文のような言葉に、ミューズがなにそれ? と眉を上げる。
「三人組で勢いがあるからね。野球ファンとしてはバース、掛布、岡田のバックスクリーン三連発トリオが思い浮かぶんだよ。ていうことで、タイガースの三人から取ってトラトラトリオ」
「よく分かんないけど、トラが多くない?」
「その辺は響きを重視してみたよ」
「まあ、なんでもいいけど」
ミューズのため息も何十もの視線も、月人は別の世界のことのように練習を続ける。ボールを追いかけ投げる姿は、誰よりも軽く、強く見えた。ミューズもゴマ君も、遠い世界の住人に見えた。
九
「練習を見に来るならそう教えてくれればよかったのに。あいつときたら」
私というより、この場にいないミューズへの愚痴らしい。初めて月人と引き合わされたときと同じ、なずなの一番奥まった席に私たちはいた。三人で練習を見た日の晩、月人からメッセージが来た。急に来たので驚いたことと、足を運んできてくれたことへのお礼。はい、という二文字だけの私の返事と、今度こそ会って話したいことがあるという月人のメッセージ。私は『なずなでなら』とだけ返した。話したいと言っている相手を無碍にするのもどうかという気持ちと、また食事代をすべて出そうとするのではという疑念からなずなを選んだ。なずななら、コーヒーチケットを出せば受け取ってもらうことはできるだろう。
「ところで、あやちゃんって呼んでいいかな?」
急な問いかけに、自分で瞬きが増えたのが分かる。どう受け取ったのか、月人は説明を加えた
「戸村さんってすごく堅い感じがするでしょ。クセみたいなもんなんだけど、僕は女の子はいつも下の名前で呼んで仲良くなるんだ。だから、もし嫌じゃなかったら下の名前で呼ばせてほしい」
私はうなずいた。といっても、同意のうなずきとは違う。二回目に会う冒頭で、下の名前で呼んでいいかと許可をとる。呼び名ってそういうものだったろうか。そういえばゴマ君は勝手に名前で呼んでいて自然なのに、許可を求められると戸惑うから不思議だ。ただ、私の返事を待つ時間が続くことに耐えかねてうなずいた。
「ありがとう、あやちゃん」
整った薄い顔立ちの口端が持ち上がる。両頬を上げた微笑みは、大口を開けて笑うミューズとは真逆のものに見えた。
「なにせね、僕は小さいころから女の子とばかり遊んでいたんだ。僕は小学生のころからだと思ってるけど、両親が言うには三歳ぐらいのときにはすでにそうだったらしい。物心ついたときにはすでに、女の子とおままごとや人形遊びをしているのが好きだったって」
タコスの店で聞いた話を思い出した。ミューズの人形が羨ましかった話。両親が望んだのは、人形遊びよりも野球をする月人だと。諦めたと言った瞬間の、余裕が消えた笑みが思い浮かぶ。
「もしも、僕が今もそう思っているとしたら、あやちゃんならどう思う?」
今の月人は余裕があるままだ。余裕のある笑みのまま、不条理な質問をする。私はうまく頭が働かずに、その顔を見ていた。
「笑う? 変だと思う?」
よく分からず首を振った。変なのだろうか。少し変かもしれない。でも笑うつもりもない。
「じゃあ、気持ち悪い?」
首を振る。
「軽蔑する?」
首を振る。
「嘘だと思う?」
首を振る。だんだん、自分の意思とは関係なく首を振っている。それが、今自分に与えられた役割に思えてただ首を振る。
質問が止まる。月人は口元に手を当て、何やら思案する。細い指先に似合わず、野球でできたのだろういびつに固まった手の質感が分かる。その手の先で、月人が小さく息を吐く。
「ありがとう、嫌わないでいてくれて。これが、僕がずっと言いたかったことだよ」
置かれたままだったコーヒーに手をつけ、カップを置いた月人は満足そうだった。
わざわざもう一度会ってまで言いたかったことと思えず、私一人が腑に落ちない。
「僕はね、同性愛者だ。女の子は仲良くする相手であっても、恋愛の対象としては見ることができない。ずっと、誰かに言いたかったんだ」
え、と声に出せない自分が恨めしかった。
「君になら、言えるんじゃないかって思ったんだ。前に会ったときも思ったけど、今、僕の男らしくない趣味を聞いても笑わない君を見て間違いないって思った」
それは、違う。背筋が冷たく、体温がさあっと遠ざかっていく感触がする。
「誰も知らないんだ。僕の友達も、同僚も先輩も後輩も」
月人は焦っていた。私という相手を選んだ以上、降りかかるのは目に見えていたはずの沈黙を恐れている。焦って言葉を並び立てるほど、私との温度差が明確になる。次の一言は、私が何より聞きたくない言葉だった。
「家族も」
月人の過ちを決定的にする一言。家族も知らない秘密を、彼は私に話してしまった。
私になら言えると思った? 聞いてしまった私はどうすればいいのだろう。どんな顔で、ミューズやマスターやおかあさんに会えばいいんだろう。
彼に、どんな反応を返せばいいんだろう。
彼が私を選んだのは、とんでもない失敗だ。買いかぶりすぎだ。それで報われることなんて、何一つないのに。もう戻れない。
「こんな僕のこと、嫌いになった?」
卑怯な手だと思う。私がイエスと言えないことを分かっている。お人形さんのように何でも聞いてくれる私は、その質問に頷くはずもない。そう思ったからこそ、出会って間もない私に重大な秘密を聞かせた。勝手で自己満足な選択。
私は立ち上がった。立って、見下ろした月人は吹けば飛びそうなほど存在感が薄く見えた。
目と目が合っている。月人の瞳が揺れているのが分かる。怯えと、目を逸らしてはいけないという虚勢が混ざった目。ああ、私は今どんな顔をしてしまっているんだろう。立ち上がってどうしようというんだろう。「嫌いになってないよ」とただ首を振ればよかったのに。もうこの場にいられなかった。
「ごめん」
私の背中に、月人の声が縋り付いてくる。続く言葉はなくて、私はまっすぐ前だけ見て逃げた。残されたわずかな理性で、ちぎったコーヒーチケットをレジに残していった。
十
あれから何日経ったんだっけ、とスマホのカレンダーに目をやる。肝心の、ああなってしまった日が何日なのかはっきりしない。練習を見に行ったのが日曜日だから、月曜日にあれが起きた。今日の日付を見ると金曜とあるから、すでに世間の単位じゃ今週が終わろうとしていることに気づく。学校に行っていたころと違い、日を重ねることがあまりに容易だ。夏休みの終わりに、ふと我に返った瞬間の罪悪感に似ていると思った。何か、もっとできたんじゃないか。でも夏休みに部屋で寝ころんでいた私と同じで、また日付を見なかったことにしてしまう。
悪いことに、イラストの依頼も尽きている。依頼が無いなら無いで、何かアクションを起こさないといけない。依頼が多いイラストレーターはそれがステイタスになり、また依頼が殺到する。一方で、依頼が途絶えている状況は依頼する側の不信感となり、ますます依頼が来なくなる。この悪循環を断ち切るには、マメに自己紹介文を更新したり期間限定の値引きをしてみたり、なんとか依頼主の目に留まる涙ぐましい努力をするほかない。と、頭では分かりきっていてもどうにもパソコンを起動させる気になれなかった。
このままお金もなくなって、机に突っ伏したまま飢え死にするのが相応しいんじゃないか。実家にいるくせしてそう思う。想像する。何日も部屋から出てこない私を心配して、部屋に入ってきた姉が見つけたのは、白骨になった私。の、だいぶ手前で実際には見つけられてしまうだろう。そもそも、その間トイレはどうしたらいいのか。座ったまま垂れ流す勇気はさすがにない。観念して顔を上げ気づいた。今日は起きてから何も食べていない。スマホの十四時という表示に促されて、渋々食べ物を確保しにリビングへ向かう。
「なに、今日も喫茶店行ってたの?」
主になったように姉がソファーを占領していた。三人掛けのうえに目いっぱい足を投げ出し、テレビを見ていたらしい。
「行ってない。ずっと部屋にいたよ」
「うそでしょ? 朝からずっと出てたんじゃないの?」
「出てない。ねえ、お昼どうしたの?」
「食べたよ、とっくに」
当たり前でしょ、と不思議そうにまばたきをする。今日はアルコールは入っていないらしく、常識人かのような顔をしていた。
「たまには姉ちゃんの手料理でも食べる?」
「いいよ別に」
目についた、朝食用の食パンをトースターにセットする。
「ちゃんとしたもん食べないとお肌がボロボロになっちゃうよ」
「自分はカップラーメンのくせに」
ゴミ箱の中に捨てられた容器が見えた。入れ方が雑なせいで、袋に散った汁から匂いが発生している。
「私は自己責任。分かってやってるからいいの。あんたが何も知らずにそうするのとは違うの」
よく分からない理屈で言い切る。マネしたくない図々しさ。ふと、意地の悪いアイディアに支配される。やり返しも込めた、姉へのささやかな八つ当たり。
「お姉ちゃん、イケメンの人紹介しようか?」
「なに、あんたに紹介できるような知り合いがいるの?」
姉の反応は、期待したものと違った。色めき立つ姉をからかってやろうという目論見は簡単に外れる。イケメンという響きよりも、私の交友関係によほど驚いたらしい。
「いるよ。ゲイだけど」
自分が吐いた言葉の響きに驚く。月人が言った同性愛者という響きよりもはるかに、迫真めいたものがあった。映画やドラマの中でなく、まさか自分が口にする日がくるなど思ってもみなかった。
「あんたねえ。どうやったらゲイの知り合いができるわけ?」
呆れと苦笑交じりに姉が声を裏返らせた。そんなこと、こっちが聞きたかった。なぜ数少ない知り合いに同性愛者がいて、よりによって私にだけ告げるのか。
焼き上がったトーストにバターを塗りながら、姉に投げかけてみる。
「私にだったら言えるってどういうこと。そんな大事なこと、他に言う人がいるはずでしょ」
何を思ったか姉は立ち上がり、二個のグラスにオレンジジュースを注いだ。
「とりあえず、順を追って話してみなさいよ」
ソファーに座るよう促す姉が、一人楽しそうにグラスを掲げてみせる。
ひと通りを聞き終えた姉の第一声は、予想外のものだった。
「あやが何に怒ってるのか、全然理解できない」
からかうでもなく、彼女の頭の中で本当に想像がついていないのだと分かる顔。半開きになった口で、笑おうか迷っている様子だった。
「なんで? そんな大事なこと一方的に言われたら、お姉ちゃんだって困るでしょ?」
「困る、かあ? どうだろう。でももし困ったとしても、怒る必要なんかないじゃん。いいじゃん。お人形さんみたいに、その子が望むように聞いてあげれば」
姉が言葉を続けようとしていることを承知で割り込む。
「私は、好きで黙って聞いてるんじゃない」
言わずにいられなかった。
珍しく姉が押し黙る。姉は気づいたんだろうか。私はまだまだ言い足りなくて、溢れ始めた水を堰き止められそうにないことを。気づくような姉とも思えないけど、とにかく私は続けた。
「それを聞いて私はどうしたらいいの? 言葉をかけてあげることすらできないんだよ。私の答えは必要ないっていうの? じゃあ大好きな人形にでも話してたらいいじゃない。もう聞いちゃったから、ミューズやマスターやお母さんに隠してないといけないんだよ?」
ポケットに入れていたスマホからメッセージの受信音が鳴る。ミューズからだ。
『月人となんかあった?』
『なんにもない』
突き動かされるように返信して、電源を切った。
注がれる姉の視線から逃れるよう、言葉を続ける。
「とにかく、私にはそんな大事な秘密を知る資格なんかないの。月人は間違ってる」
なずなで席を立った時の自分が蘇ってくる。あの時と違って言葉に出せる分、姉に当たることができる分、私は逃げ出さないで済んでいる。
憤る私など見えていないように、姉は気の抜けた声を出した。ふーん、なるほどねえ、と。何ひとつ理解していないような顔で言ってのける。
「なんとなく分かった、なんであんたが怒ってるのか。あやは私と真逆ってことだ」
「真逆?」
「私なら、友達が秘密を話してくれたら嬉しいからさ。話す相手に私を選んでくれたってことでしょ? あやはその真逆。なんで私なんか選んだの、ってずっとふて腐れてる」
選んでくれた。その言葉を反芻する。確かに姉は喜びそうだ。でも私が選ばれるとしたら、姉や世の中の人とは全く違う意味だ。
「月人は、私なら何を言っても否定しないと思って言ったんだよ」
「それって重要なの?」
姉が残りわずかになっていたオレンジジュースを飲み干す。考えてみれば、最近ゆっくり話をする時は決まってアルコールが入っていた。久しぶりの素面の姉は、いつになく大人しい気がした。私の知っている姉はもっと、批判的で聞く耳をもってくれなかったような。
「重要でしょ」
「なんで?」
「なんで、って」
とオウム返しにしたところで言葉に詰まる。それって説明が必要なことなんだろうか。虚しさが一番だった。情けなさが二番。
「まあいいんだけどさ。それで? あやちゃんはどうしたいの? 愛の力で月人くんを女に目覚めさせる?」
「やめてよ」
「そう? それぐらいの意気込みがあっても、姉としてはいいんじゃないかって思うけど」
わざとらしくちゃん付けして子ども扱い。私の悩みは、そんなに些末でくだらないものなんだろうか。二つしか違わないくせに、絶対的な差のようなものを感じて嫌になることがある。
「お姉ちゃんみたいに単純じゃないから」
本当は分かっている。経験値の差が実際に超えようのないほど積み重なっているのだ。だって私は、姉みたいに友達が多いわけでも恋人がいるわけでもない。本当に差があるからこそ、認めたくなくて姉を責める。対等でありたがる。
「私から言わせれば、単純なのはあやの方だよ」
指摘をしながらも、姉は穏やかな笑みを添えている。どうしようもなく実感する。姉は至って冷静で、未熟な私とまた差が広がったのだ。できれば、声を荒げて欲しかった。醜いケンカを買って出てほしかった。
「なんで私が単純なの」
仕方なく、姉の言葉の先を促す。
「あんたは、この世に二種類の人間しかいないと思ってる」
「なに、いきなり」
私の戸惑いなどお構いなしのように、姉は続けた。
「どういうことか、知りたい?」
ややあって頷く。姉の決めつけを聞いてやろう。的外れのことなら、意地悪に笑い飛ばしてやろうとした。
「教えない」
「ちょっと、そこまで言っておいてずるいよ」
「教えたって納得しないでしょ」
「そんなの分かんないじゃん。やめて、モヤモヤする」
「あやが思うものを言ってみてよ。合ってたら教えてあげる」
よほど自分の考えに確証があるのか、クイズの答えのように言ってのける。言ってみてと促したくせに、私の反応を待たず姉は続けた。
「まああんたのことはいい。まずは本人にちゃんと話を聞いてみたら? なんで今まで誰も言ってこなかったことをあやに話したのか。あんた、ろくに話も聞かないで逃げたんだろうから」
「言ってるでしょ。本人が言ったの。私なら話せると思った、誰かにずっと言いたかった、って」
姉は分かりやすく息を吐き、項垂れて見せた。心情を表現するには十分すぎる仕草だ。気を入れ直すように、氷が回転するだけのグラスに口を付けてから言う。
「世の中あやが思ってるほど、シンプルじゃないから。みんなもっと、意外なことを考えてたりする。だから、一人で考えてても一生分からないよ」
「じゃあきっと、私には一生分からないんだよ」
自分でも投げやりな言葉だと思った。でも、これからもずっと一人で考えていく私の姿は容易にイメージができてしまった。姉の言う、意外な考えとやらも知りたいと思わない。なら何も問題はないだろう。
「あや」
姉の声色が変わる。姉の中の、許しがたいラインに触れてしまったと気づく。
「まったく、珍しくあやの口から新しい登場人物が出てきたもんだから優しく言ってやってんのに」
それでも、姉の口調は抑えられたものだった。意外な気がして、自然とその言葉に耳が傾く。
「私が何よりも気に入らないのはね、その月人って男のことをあんたが何も考えてないってことよ」
気に入らない、というのは姉が受けた感想の核心部分なんだろう。私が喚いていた時からずっと姉が隠していたのだと思うと、冷たい汗が滲んでくる。
「その人、生まれて初めて人に話したんでしょ? すごく勇気を出したんじゃないの? それを聞いたあんたが逃げ出したら、どんな気持ちになるか考えないの?」
それは違う。考えるより先に、口が動いていた。
「そんなの分かってるよ。だから私じゃない、誰か別の人に話してほしかった」
「でももう聞いちゃってるんだから、なんとかできるのはあんたしかいないでしょ」
姉はもう手加減をしないとばかりに、早口で言葉を並べる。
「あんたが言葉を返せないことなんかより、このままここでグチグチ言って終わるのはよっぽど最低だよ。分かるでしょ」
「……分かったよ」
部屋に戻り、いつ以来かの姉妹喧嘩を思い返す。以前に比べれば、ずいぶん短く静かなケンカだった。分かった、と口にしたのは分かりたくもない話を終わらせたかったから。それはきっと、姉にもバレているだろう。
パソコンを付け、あてもなくネットニュースの見出しを見る。お目当てのページがあるわけじゃない。ただ、頭の中を新しい情報で埋めないと余計なことばかり考えてしまいそうだった。
大型テーマパークの移転、野球の試合経過の速報、最新映画の興行収入。どれを選ぶこともなく画面を滑らせた。毒にも薬にもならないような文字列の最中で、私の手は止まった。
『男と女の捉え方の違い、アンケート特集』
男と女。月人のような存在を考慮すると、このアンケートはどちらでもない性別というのを取り入れた三項にすべきなのかもしれないと考え、すぐに自分の誤りに気づく。同性愛者であっても、月人は男性の分類にはなるだろう。ジェンダーの話題と境がよく分からなくなっていた。どちらにしても、このアンケートの男性と女性という二択は正解とは限らないのかもしれない。そこまで考えて、もしやと思い当たった。
なんとなく忍び足で、姉の様子をリビングの外から窺う。姉がまだ険しい顔をしているか、背を向けていて分からない。あえて素知らぬ顔で、声をかけてみた。
「ねえ、さっきの話なんだけど」
「なに?」
姉は、スマホに目をやったまま返事をした。ローテーブルの前で寝そべって、退屈を持て余していますと言いたげな姿。苛立ちを保つ労力を惜しんだような、効率的な生き方で少し羨ましい気さえする。一体いつからそんなに切り替え上手になったんだろう。おかげで私は助かるのだけど。
「私のこと、二種類しか人間がいないって思ってるって言ったでしょ。あれって、男と女しかいないって意味?」
姉はスマホから顔を上げ、私の目を見た。黒目の奥の、脳みそまで見透かすようにじっくり見てから、笑った。
「ハズレ、残念でした」
縁日でくじを外した子どもにでも言うように、半ば楽しんでいる顔を傾けた。自信があっただけにコケにされた気分だ。
「でも、発想は近いかも。あとは本人に会って確かめるべし」
「どうしても月人ともう一回会わせたいんだね」
「そりゃそうでしょ。本当は、自分でもこのままじゃいけないって分かってるくせに」
私はため息をついた。渋々だけど了解、の意。悔しいけどその通り。私だって、このまま終わるのは本意じゃない。姉のありがたいお説教は、理性では分かっているつもりのことばかりだ。月人の気持ちを無視していることも、もう聞いてしまった以上は私が受け止める以外にないことも。でも頭で分かれば行動に移せるなら、私はとっくに人と会話できているだろう。
「なにも、今全部を受け入れられなくてもいいんじゃない?」
姉が再びスマホを見つめながら言う。さすが姉妹、遺伝子レベルで共鳴しているとしか思えない的確さ。これ以上、私の気持ちを代弁されるのも煩わしいので部屋に退散することにする。
十一
「もう会ってくれないと思ってた」
そう言ったのは月人だけど、私も同じ感想だった。私と、私に裏切られたと言ってもいい月人は、性懲りもなくなずなのテーブルで向かい合っている。きっかけは二度とないだろうと思っていた月人からの連絡。姉と言い合いをした次の日に、もう一度だけ話ができないかとメッセージが来た。
本当は、もう一度会うと切り出すのは自分であるべきだったし、何度もスマホを手に取っては逡巡した。その矢先に来たメッセージに、安堵したし少し嫉妬もした。私の振る舞いを憎むどころか、会いたいと願える寛容さ。あるいは鈍感さ?
姉に伝えると、復讐されるのかもよ、と含み笑いをされた。それはそれでいいかと思い、またなずなで会う約束をした。
どうしようもなく気は重い。確かに、月人のしたことに腹は立った。だけど、自分がとった行動の卑怯さが今なら分かる。私はあの場を乗り切る術がなくて、衝動的に去ってしまったのだ。それは姉から指摘を受け冷静になって考えるほど、確証を増していく答えだ。
「月人、お客さんに失礼なことをしたら分かってるんだろうね」
珍しくコーヒーを運んできてくれたお母さんが、月人を一瞥する。私には横目で視線を送り、こいつやゴマオが何かしたら私にすぐ言いな、と声をかけてくれる。
「何もないよ」
罰が悪そうに、月人は二人分のコーヒーを受け取りながら首を振った。眉間にしわを寄せるお母さんが気だるいブルドッグみたいで可愛らしくて、私は肩の力を抜くことができた。
「この間、あやちゃんがすぐに去って行ったのを見て怒ってるんだよ。あの子と何があったんだ、って。僕が悪いって説明したんだけど納得しなくてね。ミューズにまでそのことを吹き込んで大騒ぎだよ」
本当の理由を伝えられず、ごまかすために苦労した気配が滲み出ていた。今回、月人がなずなを指定したのが意外だったが、家族への弁明の意味もあるのかもしれない。
「この間はごめん。一方的にあんな話をして。普通引くよね、あんなこと言われたんじゃ」
私は首を振った。イエスかノーしか返事ができない私には、もうどちらでもいい話題だった。
「迷惑だろうとは思ったんだ。でも、あのまま終わるのは君に申し訳がない。ごめん。僕に何ができるわけじゃないんだけど、とにかくお詫びがしたかったんだ」
私はまた首を振る。今度は正直な心境。私は別に、お詫びが聞きたかったわけじゃない。
「それと、もう二度とあの話はしない。だからあやちゃんも、忘れてほしい」
え、と声を出したくなる。それは絶対、何か違う。私はそんなこと望んでいない。なにより、ずっと誰かに言いたかったと話していたのに。その積年の思いの重要さを、遅すぎたかもしれないけど今は理解できる。反応が遅れたのを繕って慌てて首を振った。
「なんで? あの話をされるのが嫌なんじゃないの?」
念を押すようにはっきり首を振った。
月人は何と言おうか迷っている様子だった。そうなんだ、でも、だからって。口の中でまごついて中身の無い言葉を出入りさせる。逡巡して踏ん切りがついたのか、急に顔を上げて
「やっぱり優しいねあやちゃんは」
と笑った。
何が優しいのかさっぱりだ。やはり月人は、買いかぶりすぎている。
「ミューズから聞いたよ。あやちゃんが話せないのは病気のせいなんだって」
月人はコーヒーを手に取り、私にも飲むように勧めてきた。コーヒーの飲み頃は七十度ぐらい。ちょうど今ぐらいだよ、とカップを掲げる。私がコーヒーに口をつける間、月人はそれとなく様子を伺っているように見えた。後ろめたいことがある子どもが、母親の顔色を確かめるような。私は、大半の母親がきっとそうするように気づかないふりでコーヒーを飲んだ。
「全然知らなかった。あやちゃんがそんな難しい病気だっていうことも、そういう病気が存在するっていうことも」
人から言われて思うけど、病気と呼ばれるとよく効く薬でもあるのではないかという気がしてくる。実際にはあるはずもないので、だから私は障害という分類をされるのかと妙に納得した。
「ねえ、それって例えば、スマホのメッセージみたいな感じで文字を打ってもらえば、あやちゃんの考えも聞けるってことかな」
私が首を振ると、そんな簡単な話じゃないか、ごめん。と月人が謝る。
月人の指摘は半分は当たっている。結菜ちゃんと話す時にはスマホの画面を使うこともあった。ただ、それも結菜ちゃんが相手だからなんとか立ち向かうことができていた。家でスマホのメッセージを送るのと、この場でメッセージを打って見せるのとではまるで違う。
『電車で帰ります』
以前、月人に見せたときだってこの一文だけでも頭がパンクしそうだった。
「あやちゃんがどう思ってるかは分からないけど、これだけは分かってほしい」
月人の口調が、エンジンをかけ直したように改まる。
「あやちゃんは病気で大変なんだろうけど、それでも僕は君に聞いて欲しかった。君はきっと、僕によく似ているから」
似ている? 思いもよらない宣告に戸惑いつつ、私は口を挟めない。
「今、僕を見て不自然に感じるところはあるかな?」
月人の真意が分からないまま、ひとまず首を振る。
「ならよかった。これでも直したんだよ。子どもの頃は、周りから見るとかなり目立つ子だったらしい。悪い意味でね。僕は普通にしているだけなんだけど、先生や友達のお母さんが言ってくるんだよ。もっと男の子らしくした方がいいよって。小学校四年生ぐらいになると、クラスメイトが僕以外でチームを作ったみたいに言ってきた。女子みたいだって笑われてたのが、だんだん勝手にオカマって呼ぶようになって」
月人は他人事のように、淡々と事実を並べた。
「それでやっと、このままじゃ自分はいけないんだって気づいたんだ。どうしたらみんなみたいに普通になれるのか、勉強をすることにした。座るときは足を開く、肘はできるだけ体から離して手のひらを相手に見せないようにする、驚いたときはもう、じゃなくてオイと言う。とにかく一生懸命クラスの男の子を見て、自分が直すところを探したんだ」
想像して、心が痛む。四年生といえば私にとっては空白期間のころだ。結菜ちゃんに「早く元気になってね」と声をかけられたのが小学校二年生のころ。月人のように、周りからお節介な揶揄が聞かれるようになったのは中学校に入ってからだった気がする。一番記憶にない小学校中学年ぐらいは、きっと私にとって平和な生活だったんだろう。私はその頃、自分が人と違うだなんて思ってもみなかった。「早く元気になって」という結菜ちゃんの言葉がけも、三者面談の席で母と私にけたたましく警告らしい台詞を発する担任も、何か勘違いをしているんだろうと思っていた。月人は、私が何も考えずに過ごしていた年頃に気づき、直すことを求められたのだ。私の学生時代に、何も考えず暮らせていた安息の時間があったことを初めて思い知った。
「そうやって人のことを見てるとね。分かるようになってきたんだ。僕をオカマって呼ぶ瞬間。まだ誰も声を出していなくても、これから声が飛ぶって分かる。視界に入っていなくたって、気配で分かる。あ、これから僕の後ろに立っているヤツが何か言ってくるぞって。歩き方がいけなかったんだなとか、変な声を出したからだとか」
自分で飲み頃と勧めたコーヒーにも手をつけず、月人は淡々と続けた。意図して私の顔を見ないようにしている気がした。
「それを繰り返してたら、僕の体は『男らしい』動きと話し方をできるようになった。足が閉じそうになっても、考えるより先に足が開くんだ」
それがいいことだったのか、良くないことだったのか、月人がどう思っているのかは分からない。でも、それで周りから好き勝手言われなくったのなら、得たものがあったと言っていいのか。
「それで、いじめが無くなったと思う?」
恐らく月人が避けてきたいじめという言葉が出た瞬間、私はつばを飲んでいた。月人と同じく、私も頭の中でいじめという言葉を避けていた。
「残念ながら、無くならなかった。僕の振る舞いが変わったところで、一度ついたあだ名は消えなかった。ついでに、からかいもね」
ま、小学生なんてそんなものだよね。と、力ない月人の声が漏れる。ようやく月人が一口コーヒーを飲み、私もつられて口をつけた。テーブルとコーヒーカップが当たる音が、一際大きく聞こえた。
「あやちゃんも、そうだったんじゃないかって思ったんだ。ただ、あやちゃんは僕とは順番が逆だったんだろうけど」
月人のその後が気になりながらも、続きに聞き入る。変わらず目は合わない。
「あやちゃんは、きっと人のことが誰よりも分かるんだよ。常にアンテナが立ってて、誰が何を考えているかを拾ってる。だから周りが気になって気になって、自分は話さなくなったんじゃないかって。もし相手を傷つけたらとか、怒らせたらとか、そうやって考えているうちに聞く専門になったのかもしれない。初めてあやちゃんに会ったときに話していて、そう思ったんだ。僕も、人のことばかり気にしていた頃は言葉を発したくなかったから。じっと黙って動かずにいたら、誰にもバカにされないんだって思っていた時期だってある。もっとも、これは勝手な僕の想像、いや、妄想かな。あやちゃんが病気で話せないっていうことも、まるで知らなかったんだし」
頭の中で、月人が多数の視線にさらされ怯えている姿が浮かぶ。いくつもの目から進む矢印が月人の体にぶつかり、矢印が作る繭の中で彼は動けなくなった。
彼の想像と違い、月人の方が私よりよほど深刻で理不尽な境遇のように思えた。なにせ私には、月人が言うような立派な理由はない。生まれて気づいたら話していなかったし、周りの人のことを理解するアンテナなんていうものも持ち合わせてなどいない。
「だから僕は、あやちゃんに話したいと思ったんだ。同性愛とか、オカマとか、そんな言葉に惑わされずに聞いてくれる人にようやく出会えたって、だから、勝手に」
君のことを全く考えずに話してしまった。と、消え入りそうな声とともに俯く。今この瞬間も後悔していると、言葉に出したも同然の態度だった。
ようやく分かった気がした。姉が話していたこと。
「あんたは、この世に二種類の人間しかいないと思ってる」
言葉が話せるか話せないか、私はその二択でしか自分と他人を捉えていなかった。月人が自分を選んだのは、お人形同然に話せないからという理由以外に無いと思い込んでいた。独りよがりに決めつけて、勝手に月人を責めた。
涙が出そうになって、コーヒーを飲むふりでごまかす。一瞬なんの涙か分からなかったけど、情けなさによるものだと思い当たる。月人がどんな思いで私に話をしたのか、何も分かっていなかった。誰よりも人のことが分かる、という私の評価の的外れぶりが、情けなさをより際立たせた。
私はスマホを手に取った。何か考えると怯んでしまいそうで、とにかく指を動かす。この思いが逃げないうちに、打ちきって手渡してしまえと自分を奮い立たせる。
『ごめんなさい。あなたは悪くない』
散々文字を打っては消して、結局残ったのはこれだけ。放り投げるように月人に託す。見ていいのか確かめようとする月人の視線を感じるが、私の視界には自分の足元しか入らなかった。許して下さい、お願いします。拳を握って、誰に向けてかも分からず祈った。
「そうか」
彼の第一声が聞こえた。間が空く。読み取れる感情はなかった。私は自分の浅はかさを呪う。スマホでメッセージを打つという月人の提案を拒んでおいてこれだ。結局、私が話せないなんていう障害もウソなのではないかと思えてくる。もしかしたら、月人だってそう思うのではないか。
月人の次の言葉はなかなか出てこなかった。足元から視線を外せない私には様子を伺う術もない。ひとつ息が吐かれ、私は身構えた。
「ところでさ、僕の予想は当たってる?」
気の抜けるような、軽い調子で月人が尋ねた。様子を確かめるか迷っていると、月人が言葉を重ねた。
「あやちゃんが、誰よりも人のことをよく分かっている人だって予想」
恐る恐る顔を上げると、月人は薄く笑っているように見えた。
私ははっきり首を振る。
「そうか、そもそも自分で認める人もいないだろうしね」
今度は間違いなく笑みを浮かべた。遠慮がちで寂しそうな笑顔は、私が一緒に笑うことができればもっと確かな顔になるのだろうか。
「少し、明るい話をしよう」
いかにも気を取り直して、といった調子で彼は顔を上げた。僕の話でいいかな? と確認を求めてくる。私は正直にうなずいた。
「こんな僕にも、得意なことがあってよかったっていう話なんだけどね。もうバレちゃってるから面白くもないだろうけど、野球では誰にも負けなかったんだ。僕は小さいころから野球をやっていたけど、全然好きじゃなかった。今だって別に好きってわけじゃない。だって野球よりも女の子と遊ぶ方が楽しかったから」
本当は人形が欲しかったクリスマスの話を思い出す。今まで月人が諦めたものは、一体どれほどあるんだろう。
「五年生になって、リトルリーグのチームに入団することになってね。僕の希望じゃないよ。ただ、気づいたら話が決まってた。今になって思えば、僕が男らしくなったことが、親から見ても嬉しかったんじゃないかな」
親という言葉に、思わず月人の向こう側にあるカウンターに目が向く。ちょうどお父さんがコーヒーを淹れようとしているが、疲れているのか目頭を押さえたりギュッと目を閉じたりしている。勝手に家庭内の事情にまで踏み入っている気がして、後ろめたさで見るのを止めた。
「気づいたらエースで四番ってやつになってね。そうしたら、僕のことをからかっていた奴らが何も言わなくなったんだ。あっという間のことだったよ。あれは何だったんだろうって、嬉しいとかよりも不思議な気持ちの方が強かったかな」
奇しくも、道筋は違えど同じ不思議さを味わったことがある。ミューズの攻撃的な態度があっさり消えたときだ。もっとも、月人と違って私はなんの努力もしていないけど。
「どうかな、数少ない僕のサクセスストーリーってところ。そのあとはといえば、僕の人生でいいことなんか何ひとつ無かったんだけどね」
明るい話、と切り出したものが最後は自嘲気味な苦笑で締めくくられた。その矛盾を振り払うように、彼は身を乗り出す。
「でも僕は、このまま終わっちゃいけないと思う」
指す意味は分からずとも、そこに固い意志があるに違いないと思えた。私が月人にスマホを託したのと同じように、月人も自分を奮い立たせているのだろう。
「僕は、自分のことを家族に話そうと思ってる。同性愛者だということも含めて僕なんだって。もう隠したくないんだ」
私は、真剣に話す月人から必死に目を逸らさないようにした。それ以上、どうしたらいいのか分からなかった。賛成して応援するべきなのか、考え直すよう促すのが正しいのか。ただ、分からないなりにその決意から逃げたくない。食いしばる頭の片隅で、消せない引っかかりを感じる。微かによぎる、「やめた方がいいんじゃないか」という自分の声。言って、受け入れられなかったら月人はどうなってしまうのだろう。お父さんやおかあさんやミューズは、どう思うのだろう。知らないでいいこともあるのではないか。応援したい気持ちよりも、不安が上回っているのだ。自分の本音に気づくと、心臓の鼓動を強く感じた。
「僕がどうして今も野球を続けていると思う? 好きでもないし、もういじめてくる相手もいないのに」
まだ何も答えを返せていないのに。後ろ髪を引かれながら、私はひとまず首を振った。
「正確には、ずっと続けていたんじゃない。僕は中学は野球部に入ったけど、高校からは野球からさっぱり離れていたんだ。高校生にもなったんだから、好きな部活を選んで何も問題はないでしょ?」
ゴマ君の話を思い出した。初めて月人を見たとき、高校の経歴が全くないことに驚いたという。その謎がゴマ君を惹きつけたからこそ、なずなに居座るゴマ君という景色が出来上がった。
「本当は中学生の頃から、野球部が苦痛で仕方なかったんだ。野球自体じゃなくて、合宿や着替えが嫌だった。一人でお風呂に入ることなんて許されないからね。目のやり場に困るし」
続きを言いかけて、私と目が合う。顔を伏せ、自分の言葉に焦った様子で言い直した。
「そんなこと気にしすぎだって思うかもしれないけど、想像してみてほしい。自分が異性に囲まれて風呂に入ったり着替えたりする日々が続くことを」
ああ、それは嫌かも。というか、絶対嫌だ。
「いやちょっとこの喩えは違うな。女性が男性とお風呂に入るのは身の危険や羞恥心が大きいだろうけど、そういうんじゃないんだ」
私の思考が追いつく前に月人はあれこれと思案し、説明の言葉を探して唸った。し
「とにかく、何かと困るんだ。だから僕はプロにならない。アマチュアならまだしも、プロになったらお風呂が嫌だから辞めるなんて通じないからね」
私は頷いて、無言の肯定を示す。
「高校は茶道部だったんだよ。家族には不評だったけど、僕は毎日楽しかった」
話の隙間の一瞬、月人の指先が楽しそうにタップを刻む。テーブルの上で躍らせ、思い出を噛みしめているようだった。
「そのまま野球のことなんて忘れていた。大掃除のときなんかに久々にグローブを目にすると、もう一生使わないんだなって思っていた。でも」
月人が言葉を探して間が空くと、お客さんを相手にしているらしいお母さんの声がよく聞こえる。きっと外国の人が相手でも、語気だけで元気づけられる声。
「でも、いざ大学を卒業して、いよいよ学生じゃなくなるって時に思ったんだ。卒業したら、一生ひとりぼっちになるんじゃないかってね。大学にいる間は友達も多かったし、毎日楽しかったはずなんだけど、急に現実を突き付けられたような気がしてさ。家族も友達も、本当に僕のことを分かってくれている人は実は一人もいなかったんじゃないかって」
少なくともミューズやご両親があなたにはいるじゃない、と声をかけることが一般的な正解なのだろうか。もし話す力があるとしたら、私はどう返していただろう。どうにもできそうにない気がして、勝手に無力感にやられそうになる。
「気づいたら野球を頼っていた。野球チームがあることを条件に就職先を選んだんだ」
そうして選んだという就職先が、ミライスポーツ。運動という行為の対極に生きている私でさえ、名前とロゴぐらいはすぐに思い出せる大手のスポーツ用品店だ。
「僕はね、必要とされたかったんだ。野球をやれば僕を頼ってくれる人がいる。それだけが頼みの綱で今日ここまでやってきた。馬鹿みたいだと思うよ。本当はやりたくないのにね」
月人は思い出したように顔を上げ、首を振った。
「だめだ、気づいたらまた暗い話だ。ごめんね、訳が分からないことばかりを話して」
私は手元のコーヒーカップを見つめたまま、月人も言葉を止めたまま。
次に自分が動く時は、とてつもなく大それたことを意味するような気がした。月人にバレないよう、テーブルの下の拳を握って確かめる。手の中の湿り気と、指先の軽い痺れとともに、間違いのない意思があった。
私は月人に伝えたいことがある。せり上がる衝動。私はひたすらに願っていた。今にも何か発するかもしれない月人の口が、もう少しだけ待ってくれることを。私がスマホを取り、言葉を打ち込み終えるまで猶予があることを、自分でも大げさと思うほど願っていた。
傍から見れば、私のちっぽけな葛藤など気づきようもないだろう。月人も次の話題を求め、言葉を切り出そうとしている。私の願いは到底及ばないまま、月人が口を開いてしまう。
「もし」
何かを言いかけた月人の手を取った。テーブルの上に投げ出されていた悩まし気な指を、思わず掴んでいた。なんだか思っていた以上に大それたことになっている気がする。月人が途中まで開けた口のまま止まっている。何事かと私の行動を待っているのだろうが、私にだって何事か分からない。止める方法が他に思いつかず、咄嗟に手を取っただけだ。
私は月人の手を取ったまま、目を合わせた。目を見るには勇気が必要だったけど、見ないでおく方が怖かった。自分が生み出した結果があまりに異様でこの世に馴染まなくて、店内中の視線が自分に注がれている気になる。
私は月人の手を放り捨てた。もう、月人の顔を確認している余裕もなかった。とにかくスマホを取って、弁解と説明とお詫びを含めた魔法のような言葉を探す。
『分かります。私も、必要とされたくてここにいるから』
絶望的な気分でスマホを月人に突き出した。バカだ。全然意味が分からないし、説明やお詫びはどこにいってしまったのか。もう何も考えられそうになかった。
「あやちゃんも、必要とされたかった? 僕と同じってこと?」
月人の言葉に、私は何度も頷いていた。そうだ、それが言いたかった。必要とされたかったという月人の言葉を聞いて、居ても立っても居られなかった。突き動かされるように指が文字を連ねる。
『私は、お父さんのために絵が描きたいから』
「お父さんのために来てるって……どういうこと? ごめん、ちょっと待って考えるから」
月人が考え込む。慌てて私は月人のお父さん、つまりはこのお店の店主に向けて指先を立てて示した。月人はひとつ間を置いてから、ようやく状況を飲み込む。
「もしかして、うちの親のこと?」
まさか、と言いたげな目。私は静かにうなずき、これ以上月人が混乱しないよう文字を加えた。
『お父さんが描いた看板の絵、私なら手伝えると思う』
月人のお父さん、と打とうとしたけど、月人と呼んでいいものか迷ってそこは避けることにした。
二人して、見るともなく目がレジ横の黒板へと向かう。入り口側を向いていてこの席からは見えないけど、失敗作なのか斬新なデザインなのかすら分からないあの絵は姿を消していたはずだ。今では文字だけで本日のランチメニューが記されている。
あからさまに言葉に詰まっている私を見かねたのか、月人が自分から話し始めた。
「ああいうのはミューズが得意なんだけどね。絵の学校に行きたがっていたぐらい絵が好きで、真剣に描いていた時期もあったんだ。それが、どういうわけか急に普通の大学に行くって言い出して。僕からすれば、好きなことを勉強できる学校に行けるなんて羨ましくて仕方なかったのに。行けばよかったんだよ、あいつは」
でもよく考えたらさ、と小さく漏らして続ける。
「僕と似たようなもんか。僕だって周りから見たら、なんで野球を辞めたんだって散々思われたんだろうし。なんだか嫌なところが似た兄妹だ」
苦笑する顔すら整っていて、人によっては嫌味に見えるかもしれない。不思議なのは同性愛の話を聞いたからか、以前と変わらないはずの月人の顔立ちが中性的で頼りなく見える気がした。
「でももし、あやちゃんが本当に手伝いたいっていうのなら、親父たちは喜ぶと思うよ。今からでも、どう?」
月人がお父さんへ指を向ける。今から声をかけようということらしい。一気に話が核心に近づいて、私はまた月人の手を取りかけてやめた。今度は首を振って伝える。
「どうして?」
純粋な疑問をもらう。観念して私は三度スマホを手に取った。何度か指を彷徨わせて、ようやく文を作る。
『心の準備がまだできていません』
機械翻訳のようなセリフができた。何をどう打ったって自分の言葉じゃないような気がして嫌になる。
月人が画面を見て口に手を当てる。何か言いたげで、また考えて。待っている身としてはずっと居心地が悪くて逃げ出したい。
「大丈夫だよ、僕も一緒に話すから」
力をこめるでもなく、当然のごとく言う。私と月人の、認識の開きそのままの温度の違いがあった。
私はすがるように首を振る。それでも月人が止まらなければ手を掴もうと思っていた。幸い、月人は席に留まっている。
「心の準備、か。じゃあできたら教えてよ。何か手助けできることがあるかもしれないからさ」
私は頷き、背もたれに思いきり体を預けた、つもりだったけど実際にはほとんど身動きしていなかった。ぬるくなったコーヒーの温度が、今の私にはちょうどよかった。