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小説すばる新人賞の一次選考通過作品を公開します【管理人作・後編】

前回の続きです。今回で完結となります。

前回の記事は↓こちらから

小説すばる新人賞の一次選考通過作品を公開します【管理人作・前編】

 

では本編です!

 

私だって冒険したくなるときはある。

洋食屋のメニューでも同じものしか選ばないと結菜ちゃんから揶揄され、姉からはあやの話から発見するものが何もないと嘆かれたとしても。幾度となく言われたことなのでどちらも具体的な場面は思い出せない。それでも確実に言葉と感情は頭に残っているんだから、人間の脳って便利なんだか不便なんだか分からない。

この日の私は気分が昂っていた。いつもなら眠りたいだけ寝て、もうこれ以上寝るのが辛いと思ったころにようやく布団から抜け出すのだけど、今日は朝方で目が覚めて、布団に戻るのがもったいない気がした。パソコンを置いているデスクに向かい、昨夜からメールの一通も増えていないことを確認し、頭はまったく別のことを考えていた。

なぜ、こんなにやる気に満ちているんだっけ。答えはすぐに見つかった。さっきまで見ていた夢だ。夢の中で私は、月人と喋っていた。スマホを使わず、自分の言葉で話し、時には月人をからかって談笑する。こんな夢を見てしまうと、危うく自分が月人に好意を抱いているんじゃないかと疑いそうだったけど、幸い月人は同性愛者なので心配ない。私は特に血迷ったわけでもなく、友人として心置きなく話している場面ということなんだろう。

夢なんて、覚えていると見せかけて実際はほとんど覚えていない。どこで話しているのか、そもそも相手は本当に月人だったのか。会話の内容なんてもっと覚えていない。

ただ確かなのは、私の今の気分はなんとも微妙な位置取りにあるということだ。何かに似た気分、と思い起こす。ものすごく感動的な映画を見た時。あるいは、何年もかけて連載を追っていた漫画が、めでたくハッピーエンドを迎えた時。

この作品に出会えてよかった、という充実感から間もなく、私の現実は何も変わっていないことに気づく。主人公たちの、その後の幸せを祈りつつ、では私の現実はどうしてくれるのと途方に暮れる。

メールも見るものがなく、新しい仕事もない私はすぐに起きている目的を失った。横目で、這い出たばかりのまだ私の体温を保った布団を見る。

ぎゅっと目を閉じ、視界から布団を消した。今日は、冒険をするのだ。久しぶりに人と関わっているなずなでの出来事や、知らない世界だったタコスの味が、枯れたと思っていた私の好奇心を刺激してくれているらしい。

しかし、冒険といっても具体的にどうしたらいいのかは分からない。パソコンで検索をしてみる。

『冒険 女性』

世界中の女性冒険家の紹介ページが表れる。スケール感を間違えたことに気づき、検索ワードを調整していく。

『身近な冒険 女性』

『新発見 休日』

『一人でできる冒険 女性』

『初体験 女性』

ここまで調べて分かったことは二つ。女性と冒険で検索するとやたらと映画か旅行の話題が出てくること。また、女性と初体験というワードを結びつけた検索結果は、パソコンの画面がいかがわしい単語で埋まるということ。

ただでさえ何度も単語の組み合わせを変えては検索し、当てが外れるという繰り返しをしていた私には、オーガズムがどうとかいう歓迎しない結果は心を折るのに十分だった。サイトは覗いてみたけど、志した冒険が危うくアダルト情報巡りで終わりかねないので早々に脱出する。

悩んだ挙句、私はサンフレッシュに出かけた。出かけて、帰って来た。初めて結菜ちゃんとの約束もないのに訪れたサンフレッシュは、服を買うにも本を買うにもお金が足りず、マッチ売りの少女になった気分でさまようばかりだった。せめて、景色のいい公園とか海辺とかを目的地にすればお金が無くともなんとかなったのではないか、そう思いついたのは帰り道でのことなので今さらどうしようもない。

不思議と気分は悪くなかった。ほとんどとんぼ返りになった電車のシートに揺られながら、心地のよい疲労感に浸る。シートがいつもより温かく、目に入る視界も違うように感じた。たかだか一時間かそこらでも、一人でサンフレッシュを探索したという初体験をちゃんと終えたのだ。下世話なウェブサイトの管理者と読者には分からないこの優越感は、今の私だけが味わえる。そんなことを考えながら、目を閉じていた。

「恐れ入ります、切符を拝見させて下さい」

私に向けられた男の人の声は、またしても夢なのだろう。なにせ、この路線で駅員に声をかけられたことなど一度もない。そもそもスマホを自動改札にかざして入場しているのだから、見せる切符も持ち合わせていない。不敵に腕を組んでいたところ、肩を軽く叩かれただけで飛び上がりそうになった。見開かれた駅員さんの目と私の目がばっちり合う。

「すみません、切符を拝見したいのですが」

拝見も何も、切符など持っていない。ならスマホを見せればいいのだろうかとカバンに手をかけたところで、自分の間抜けさに気づく。指定席だ。

今乗っている電車は私にとっては数駅区間を往復するだけだけど、先は空港に続いている。そのためか旅行客を対象とした特別車両が設置されているのだ。湯冷めのような寒気のする頭をフル回転させると、どう考えたって目に映る光景は見慣れた一般車両ではなかった。なぜ気づかないのか自分でも不思議なほど、座席は木目のフレームで温かみがあって、レッドカーペットを思わせるようなシートは日常の交通機関には似合わない。

選べる選択肢は多くない。ただ、過程に幅があったとしても最終的には謝って席を移るしかない。問題はその伝え方だ。スマホで文字を打つにしたって身振り手振りで説明するにしたって、その姿は異様そのものだろう。

どこかでこんな状況の話を聞いたことがある、と思ったらそれはいつか姉が貸してくれた本の中にあった。姉が好きな芸能人のエッセイで、外国で駅員に呼び止められ、説明に難渋したという話。そこに打開するヒントは見い出せそうもない。自分の生まれた国で何をしているんだろうと惨めな気持ちがよぎるだけだった。

駅員さんは優しい性格なのか、苛立つことよりも心配と戸惑いを浮かべ、眉を寄せる。それがまた申し訳ないやらで、ああでもないこうでもないと建設性のない繰り返しを起こす。もう限界で、盛大にウソ泣きでもしてしまおうかという域に至ったところでぴたりと混乱が収まった。

不思議だった。でも、当たり前にも思えた。そこから先は、考えることもなかった。

「すみません、ここ、指定席券がいるんでしたっけ」

ずいぶん間の外れた返事に、駅員さんの方が慌てた顔をする。

「え、ええ。申し訳ありませんが。指定席切符はお持ちですか」

「すみません、間違えました。あの、料金を支払った方がいいですよね」

「そうでしたか。そういうことなら今回は、席を移って頂ければそれで問題ありませんよ」

そう微笑む駅員さんの方が、私よりも安堵しているように見えた。よほど私が不審だったのか、それとも心配をかけたのか。いたずらに惑わせたことを心の中でお詫びし、駅員さんに頭を下げて立ち去った。

一つ車両を移っただけで、鉄色とつり革広告の見慣れた空間だ。ドア近くの手すりにもたれかかって、我が家に帰ったような気持ちになる。目を閉じ、駅員さんとのやり取りを思い出す。意外なほど淀みなく、私は喋っていた。家族以外には、結菜ちゃんにもできなかったことだ。覚えている限り、二十一年間まともにできなかったことが、あっさりできてしまった。予期せず、頑張りもせず訪れた瞬間。自分でもどうやってやったのか分からない、と思うと同時にその感想は少し違うと気づく。

なぜ今までできなかったのかが分からない。

この表現がより正確だと思った。感慨などなく、狐につままれたような、心底ワケが分からない衝撃に頭が揺れる。妙なことに、衝撃が最初に起き、次に来たのはどうしよう、という焦りだった。どうしよう、どうしよう。何がかは分からない。何に対してかは分からないが、焦っていることは間違いない。どうしよう。

焦りの次は、スマホから伝わる振動に急かされる。止まらない振動が、電話の着信だと主張する。出たことも出る気もないくせに、罪滅ぼしのように画面の確認だけはする。画面にはミューズの名前が写っていた。一体なぜ、電話? 疑問とともにたまらなく嫌な予感がする。

私に電話をする目的はなんだろう。雑談もできない私への電話は、何か必然性があることなのだ。恐らく急を要する何か。文字を打つのも煩わしいほどの、差し迫った事情。

頭では分かっていても、私は電話に出なかった。だって、今は電車の中だもの。結菜ちゃんだって、電車の中で鳴った電話は切っていた。それが社会のルールだ。スマホを握りしめ、画面から目を逸らす。本当は気づいていた。電車の中にいる時でよかったと安心している自分に。電話に出たくないことを、社会のルールのせいにしただけ。

車掌さんと話終えた後の焦燥と、電話を無視した罪悪感とでまた指に力がこもる。ミューズからの電話が気になるのに、向き合うことを頭が拒否している。なんのことはない、私は今日もやっぱり最低だった。何かが変わるような気がしたけど、何も変わってはいない。

再びスマホが震えた。今度はすぐに止まり、ミューズからのメッセージが写った。

「今うちの店に来れる? 月人が大変なの!」

嫌な予感を裏付けるような一行。何が起きているのか、今すぐにでも知りたい。通話ボタン一つ押せない自分が憎かった。

 

 

十三

ミューズから呼び出しを受けてすぐに電車を降り、葉名知へとんぼ返りするホームへ走った。走りながら考えることに慣れていない私は、やたらと体力を消耗した気がする。葉名知に着き、なずなへの道をまた走る。通り過ぎる商店はシャッターが下りている店も多く、走り抜けてしまうと一層味気なく思えた。

ミューズからのメッセージにすぐ行くと返事をしたものの、息を切らせてまで駆けつける用件なのかもよく分かっていない。それでも私は願っていた。お父さんがコーヒーを淹れてくれて、お母さんがサボっていて、ゴマ君がテレビを見上げる。月人は頼りなさそうに眉を下げ、ミューズがお客さんと軽口を叩く平穏が今日もあることを。

ミューズが言う大変なことというのは全然大した話ではなくて、大げさに受け取った私の早とちりで。月人が何事かと瞬きする景色を思い浮かべた。それが、一番だ。なずなの長閑な空気に、諍い事は似合わない。私が話せないがために、姉が両親を責めていた頃が頭に浮かんだ。月人の言葉がよぎる。

『僕は、自分のことを家族に話そうと思ってる』

それは正しい選択なのか。私は家族間で傷つけあう不毛な時間の経験者として、月人を止めるべきだったのではないか。ミューズが指しているのは全く別のことかもしれないのに、そんなことばかり考えてしまう。

なずなに着き、ドアに手をかけたところで違和感に気づいた。一歩下がって見ると、ドアにかけられた札がClOSEDになっている。今まで素通りしていた、ガラス扉に書かれた営業時間の文字が目に入る。第一・第三日曜日定休。まさしく今日が定休日だと気づいて、いつもより暗い店内の様子を外から覗き見た。一つのテーブルに何人か、人影が集まっている。そのうちの一人が、こちらに気づいた様子で小走りで入り口まで駆け寄ってきた。ドアを遠慮がちに開けたのは、後ろめたそうに頭を屈めたミューズだった。

「ごめん、せっかく来てもらったんだけどさ」

続きが切り出せないのか、言い淀む。ミューズが開けたドアの隙間から月人とお父さんの後ろ姿が見えた。ソファー席に並んで座る二人と、左側にイスを持ち寄りお母さんとゴマ君が陣取る。月人の隣、ミューズが座っていた空間の向かいに座る人影は私が知る人物ではなさそうだった。

「なんか、ちょっと思ってたのと違ったみたい」

ミューズがごまかすように笑う。ごめんね、ともう一度謝って私を招き入れた。どうやら話題の中心にいるのは、月人の向かいに座る見慣れない人物のようだった。女子アナウンサーのような清潔感のある出で立ちで、囲む面々の一歩引いた距離感に負けない、抑揚ある話しぶりもアナウンサーばりだ。主に彼女が話し、なずなの面々は聞く側らしい。時々、球場やファン、選手といった単語が聴き取れる。ミューズは輪に戻る前に立ち止まり、状況を教えてくれた。

「電話したときはさ、プロ野球チームのスタッフの人が月人を尋ねて来るって聞いたから、スカウトにでも来るのかと思ってね。それでゴマ君まで呼んだんだけど」

横目でアナウンサーのような女性を見て、声を落とした。

「来たのは広報さんだって。全然、スカウトの話なんかじゃなかったってわけ」

ゴマ君ならともかく、ミューズがプロのスカウトに喜ぶというのは意外な気がした。

「だってさ、さすがにプロになるなんてゴマ君の見当違いだと思ってたからさ。本当にプロ野球から声がかかるってなったら、ついテンション上がっちゃってさ」

と、私の疑問はお見通しかのように付け加えた。ミューズが椅子を用意してくれ、私はミューズが座るソファー席の横に並ぶ。ご丁寧に女性は一礼し、部外者の私にまで名刺を差し出し名乗り出た。名刺の隅には地元球団のトレードマークである赤い竜のロゴがあり、本物らしさを演出している。永島瑠奈、と聞いたばかりの名が印字してあった。

「では続きをご説明します」

私が会釈をすると、当たり前のように会話を再開し始めた。家族でもないし、常連というにはにわか過ぎる私がいるのは不自然な気もしたけど、誰も疑問を口にはしなかった。

「つまり月人さんには、今年の春の甲子園で優勝した江南高校のエース、田町くんと真剣勝負をして頂きたいというのが今回のイベントの主旨です」

「ちょっと変わった始球式ってことだね」

ゴマ君が口を挟んだ。

「そうですね、普段のゲームでは始球式に当たるイベントです。ただ、せっかく今アマチュア球界で話題のお二人に来て頂く以上、ただの始球式ではもったいないと考えておりますので。一打席限定とはいえ勝つか負けるか、カテゴリーを超えたドリームマッチをファンにも選手自身にも楽しんで頂けたらという企画です」

途中で参加した手前、真面目に聴くようにはしていたけど、内心は拍子抜けもいいところだった。

家族会議の様相でどんな一大事かと思えば、なんとも平和なイベントの話題だ。出迎えたときの、ミューズの気まずそうな顔の意味が理解できた。もしかしたら、お父さんやお母さんも同じ心境なのかもしれない。ミューズに集められたものの、フタを開けてみれば両親が付き添って聞くような内容ではなかった。そんな弛緩した気配。お母さんに至っては、掘りの深い瞼の奥で目を閉じてしまっている。考え込んでいる顔に見えなくもないけど、注意深く聞けば寝息が漏れているのがよく分かる。

「いかがでしょうか? お受け頂けると、当日の試合の盛り上がりだけでなくアマチュア球界全体、また、ミライスポーツ様のイメージアップにもつながると思います」

「そうですね、僕なんかにとてもいいお話をありがとうございます。ただ」

表情を変えず、淡々と聞いていた月人が口を開いた。唯一、浮足立っても退屈してもおらず、永島さんという広報の話を相応の心構えで受けていたようだ。

「ただ?」

「ただ、こういったお話はうちの上司とも相談しないとお返事はできないかと。チームの名前を出すのならなおのこと」

「というか、そういうのって個人に直接話を持ってくるもんなんですかねえ。てっきり広報さん同士である程度話を通してから選手にいくのかと思ってましたけど」

皮肉めいたゴマ君の発言に、ミューズが「ちょっと」と声に出して眉をひそめる。ミューズを制したのは、皮肉を言われた当人である永島さんだった。

「そのご指摘はもっともです。実際のところ、本来はしかるべきルート、順番をもってお話を通すべきでした。しかしこの企画は賛否が分かれる企画、受け取りようによっては挑戦的とも受け取られる企画だと思っておりますので。管理者サイドの判断で断られる可能性よりも、まずはご本人の意思を確かめたいと思い参りました。ご本人にそのつもりがあれば、ミライスポーツ様にもご理解を得られやすくなるのではないかと。そういった考えのもと、本日はお邪魔をさせて頂いたのです」

台本があるかのように、永島さんは迷いなく思いの丈を話し上げた。腰は低く、お願いをしに来ているという立ち位置を保ちながらも自信に満ちていた。

「よく分からないんですが、高校生と勝負するというのは、そんなに覚悟のいる企画なんですか? なんだか怖くなってきたな」

月人が冗談めいて笑みを作る。おかげでミューズと永島さんも小さく笑い、堅い商談のような緊張感がほぐれた。

「いえ、それ自体は超えられるハードルだと考えております。賛否両論がありえるのは……隠してお話を進めるのは無理があるので言ってしまいますと、人選です」

「人選ですか」

「そりゃあ月人じゃ、役不足ってことだろう。ゴマオ以外、どこの物好きがこんなのを見たがるってんだ」

いつの間に起きたのか、お母さんが毒づく。

「いや、案外バカにできないらしいよ。お前も、ミューズが練習を見に行った時の話を聞いたじゃないか」

ずっと微動だにしなかったお父さんが、お母さんに反応するように身を乗り出した。ミューズから聞いた当初の予定と違うとはいえ、今では月人の晴れ姿にみんなが期待を寄せ、いつもの活気を取り戻しつつあった。

「プロのスカウトと始球式を間違える子の話が、どれだけあてになるんだか」

「ちょっと、おっかあだって喜んでたじゃん。同罪だよ同罪」

「それより僕はどうしても気になるんだけど、役不足というのはお母さんの使い方だと誤用というのが最近の見解では一般的であってですね」

「あの、永島さん。僕はスカウトだと思っていたわけじゃありませんので。妹が勝手に誤解して騒がしくしてしまい、申し訳ありません」

思い思いに話し、まるでまとまりがないようでいて、それでも楽しい。堅苦しい雰囲気から解き放たれて、大団円の結末が見えてくるようだった。

「いやあ、よかったです。みなさんの和やかな雰囲気の中で話をさせて頂けることに、まず安心しました。門前払いをされたらどうしようかと、毎回どこに行くにも緊張しますから」

笑顔のマスクを貼りつけたような永島さんの顔から、初めて自然とゆるんだ表情が出る。永島さんが話し始めたことで、みな言葉を止め注目した。素直に胸中を吐露した姿に、微笑ましさすら感じていた。次に永島さんが話し終えるまでは。

「やはり、同性愛者という世間から誤解を受けやすい立場であっても月人さんは周りから慕われている。月人さんご自身も、ご家族もご友人も、素敵な方々だと感じました」

私は一瞬で混乱状態になる。これは、それでよかったんだっけ。月人はもう家族に話したのだろうか。それとも、自分は何か勘違いをしていたか。

「同性愛となると、まだまだ世間的にはある種のタブー視をされているものですから。ミライスポーツ様や球団としても賛否は上がるかもしれません。それでも私は、当事者である月人さんが活躍をされることで多くの方の勇気になると考えています」

私が勘違いをしているわけではないことは、すぐに分かった。永島さん以外の誰もが、多かれ少なかれこれまでと違う顔を浮かべている。私はもう見ていられず、顔を伏せた。永島さんは完全に受け入れられたと思ったのか、周りの異変に気づく様子がない。この変わりように気づかないなんて、気のゆるみとは恐ろしい。誰かあの口を止めて下さい。私の他力本願に答えたのは、押し殺したようなミューズの声だった。

「それ、どういうことなんですか」

さすがに異変を感じたらしく、雄弁に語り続けていた永島さんが止まった。

「すみません、帰って下さい」

問いかけの答えを待たない二言目は、震えが混ざっている気がした。精いっぱい気持ちを抑えた声なのだと思うと、私まで胸が痛くなる。

同時に、意外な気もした。ミューズはことの真偽を確かめるより、確定的な言葉が発せられるのを嫌がった。今初めて聞かされた者の反応には思えなかった。

いくら声を抑えても、ミューズの態度にはあからさまな非難が滲んでいた。永島さんが自分が過ちを犯していると知るには十分だった。何か弁解をしようと試みるも、取り返しがつかないことを悟る。その過程がはっきり顔色に表れていて、時間が経つほどに悲壮感が増した。

「申し訳ありません、まさか」

その先を言ってはいけない。私だけでなく、ミューズも思っただろう。月人だって思ったかもしれない。それでも止める術はない。きっともう手遅れで、無駄な抵抗だとしか思えなかった。

「まさか、ご家族の方がご存じないとは」

あーあ、と自棄になって声を出してしまいたい。ミューズが聞きたくなかっただろう、あるいは両親に聞かせたくなかっただろう、決定的な一言。暗に彼女は、自分の発言が事実であると認めてしまっている。それに気づかないほど動揺している。

「もう帰って! 帰れって言ってるでしょ!」

ミューズが大人としての体裁を保てなくなっていく。もう聞きたくないよと、駄々をこねる子どもと同然だった。私はそれを止めることもできず、どこまでも腑抜けな自分に甘えて固まるばかりだ。

「永島さん、素敵な企画をありがとうございました。申し訳ありませんが、返事は後日とさせて下さい」

月人が普段の様子と変わらぬまま、永島さんに頭を下げる。回数を競っているかのように永島さんは繰り返し頭を上下させ、謝罪の言葉を吐き続けた。内容が聞き取れないほど早口で、それでも続ける以外にないのだろう。月人に付き添われて店を後にする。

その姿を見送るお父さんも、腕を組んでふんぞり返ったお母さんも、何か言うべきかと視線を彷徨わせるゴマ君も、結局誰も一言も発しなかった。ミューズの、紫煙を吐き出すような深くて長い、苛立ちのこもったため息だけが響いている。席に戻ってきた月人を迎え撃つよう、ミューズが立ち上がった。

「どういうことなの。あの人、月人の何を知ってるの。どこで知ったの」

「待てよ、僕が知るわけないだろ」

「そんなのおかしいじゃない。家族も知らない話を、どうやって赤の他人が知るの」

「それが、他人の方が知っていたりするんだよ。今の世の中って」

ミューズと月人が一斉にゴマ君を見る。お母さんも、気だるそうに一息遅れて視線を向けた。お父さんだけが、微動だにしないまま詰まった咳払いをした。ゴマ君は続けるべきか迷いを見せたけど、今さら止まれないと観念したように話し続けた。

「SNSでちょっとした噂になってるんだよ。月人くんがその、女性に興味が無いんじゃないかって。僕は適当な噂を流すヤツが許せないから、噂の根本が誰なのかまで遡ったよ。そいつは月人くんの高校の同級生だって名乗ってた。でも同級生だからって、本当のことを言っているかどうかなんて分からないし、結局のところ噂は噂、大して話題にもならなかったんだけどね。ただ、最近月人くんのファンが増え始めてから、その辺の過去の噂をほじくり返して言い合う奴らが出てきたんだ。噂を信じる誰かと、否定したがる誰か。ネット上の書きこみで言い合いになるたび、今度は関係ない誰かにまでその様子が伝わっていく。そんなやり取りが繰り返されていつの間にか、確たる証拠もないのに月人くんがそういう人だっていうのは既成事実みたいになっていったんだ」

「ずいぶん詳しいじゃん」

ミューズが冷たく言い放つ。

「別に、知りたくて知ったんじゃないよ。最初は月人のファンのやり取りを追っていったら出くわしただけで。それに僕は、くだらない噂に過ぎないと思っていたし」

ミューズと月人を代わるがわる見つめ、ゴマ君は言葉を選んでいった。

私から見ればまだ、感情を露わにしているミューズを相手にしている方がマシに思えた。お父さんとお母さん、そして月人は堅い表情のままでその口からいつ何が飛び出すのかまるで分からない。

「とにかく、月人くんのファンの間で勝手に広まっていった話なんだ。それをあのバカな広報が、鵜吞みにしてベラベラ余計なことを話していったってとこなんだと思う。月人くんが知らなくても無理はないよ」

話し終えたゴマ君が、誰かの返事を求めるように見回す。私と目が合ったと思ったら視線は素通りして、戦力外とみなされたようで空しかった。当然の行為なんだろうけど。結局、誰からも反応はなく、耐えきれなくなったのかゴマ君が見えないゴールに向かって言葉をつなぐ。

「そもそも深刻に考える話なのかな? だって噂だよ? 本当のことじゃなければ否定してしまえばいいんだから。月人くん自らの言葉で、ファンに向けて説明したっていいと思う」

「月人」

割り込むお父さんの声に、全員が息をのむ。多分、頭のどこかでみんなお父さんがどう出るかを待っていた。勝手な話だけど、優しく微笑んで全て許してくれる役割を期待した。

「別に、何も言わなくていい。今までずっと黙っていたのなら、これからも黙っていればいいんじゃないか。人に言いたくないことなんて、誰にだってあるだろう」

否定しなきゃダメだよ、とゴマ君の微かな呟きが聞こえる。精いっぱいの異議も、実の親子の会話の前では無力でしかない。

いつの間にか、月人が公に対してどう振舞うかが話の焦点になっている。本当に同性愛者かどうかは、月人がすぐに否定しなかったことで答えが出ていたのかもしれない。

いつもお父さんが立つキッチンスペースまではずいぶん距離があるのに、冷蔵庫か何かのモーター音が響いてきて沈黙を強調する。開店中なら会話のすき間を埋めるのはピアノジャズの軽い音色で、それにどれほど落ち着きをもらっていたか、思い知らされた気がした。

「違うよ」

お父さんの隣で、俯いたままの月人がようやく答えた。

「僕は近いうちに話そうと思っていたんだ。言いたくなかったわけじゃない。だけど」

急に声を詰まらせ、髪を撫でかけ、掴む。月人の柔らかそうな髪が、痛々しく張りつめる。

「なんて言えばいいか分からなかったんだ。僕は普通じゃない。孫の顔を見せてやることもできない。人として失敗作なんだよ。ゴマ君がいくら応援してくれたって、僕は野球が好きじゃないしプロになんか絶対なりたくないんだ。というより、なれないんだよ。僕がそう説明したら、どうしてかって聞くだろう? それをいちいち答えられるほど、僕には勇気がないんだ」

まくし立てる月人の話は、道筋立ったものなのかもよく分からなかった。ただ、月人の痛み、葛藤はよく聞こえる。だから誰も、彼の話を遮らない。責めるべき犯人が立ち去ったこの場で、月人にしてやれる数少ないことに違いなかった。

「そうやって言えない毎日を過ごしていたら、先を越されたってだけだよ」

いくらか冷静になった声色で月人が言う。その横でお父さんが立ち上がり月人を見下ろした。

「いずれにせよ、今日話すつもりじゃなかったんならゆっくり考えればいい」

なあ、と言い聞かせる声は、宙に浮いて消えた。お母さんも立ち上がり、

「バカな息子と娘だよ」

と唐突にミューズの名も添えて嘆いた。ミューズはといえば、言い返す気力もない様子でバックヤードへ引き上げていく両親を眺めていた。月人とミューズ、ゴマ君と、この場になんの貢献もしない私が残される。ガランとした店内に四人。お母さんが座っていたイスが空席になって、より一層なずなの薄暗さが際立った。

話し合うでもなく、帰るでもなく居座り続けているのは、願っているからだろう。誰かが、この救われないストーリーに一矢を報いてくれる。なんでもいい、今日のアクシデントを前向きにすり替えられる何か。大きく事実は変わらなくとも、一筋の明るい展望をもたらしてくれる何か。でもそんな策は存在しないこともきっと分かっていて、時間切れを知らせるタイマーが鳴ってくれないかと有り得ないことも願っている。

私は足りない頭で、何か打てる手はないのかと模索していた。もし私が誰よりも人のことを理解できる、アンテナとやらを本当に持ち合わせているのなら。今使わなくていつ使うというんだろう。月人は、ミューズは、ゴマ君は何を考えている? 何が起これば、この状況が好転する?

「僕は、確かに噂には聞いていたよ」

ゴマ君が呟く。うつろな視線が集まる。

「その、月人くんがそういう趣味というか、スタイルっていうの。そうなんじゃないかって、書きこみは自然と目に入るぐらいはあった。さっき僕は、ただの噂だと思って信じていなかったって言ったけど、本当は少し違う。正確には興味がなかったんだ。男が好きだろうが女が好きだろうが、野球をする上では何の関係もないわけで」

言葉を切ったゴマ君が、月人に向き直る。

「関係ないって思ってたからこそ、さっきの月人くんの話にはショックを受けたよ。同性愛者だから野球選手になれないって? そんなの何の理由にもなってないじゃないか」

「だから、それについていちいち答える気は」

「答える勇気が無い、だっけ。納得いくかよそんなの」

微かに声を上ずらせてゴマ君は吐き捨てた。こみ上げる感情と、抑えようとする自分自身の衝突に震えている。

「悪かったね、ずっと月人くんの言う通りだった。僕が間違っていた。確かに月人くんは一度もプロになりたいとも、なれるとも言ってなかったし、それを無視してバカみたいにはしゃいでたのは僕の勝手だ」

早口になり、話す手振りも大きくなっていく。痛ましささえ感じさせるゴマ君の動揺ぶりを、どうすることもできず私たちは聞いていた。

「でも僕だって冗談で言ってたわけじゃないんだよ。本気でプロを目指すべきだって思ったんだ。本気で、月人のことを応援してたんだ」

「知ってるよ」

ミューズが呆れと、親しみをこめて苦笑いする。

「本気じゃなきゃここまでしないって。実家まで辿り着いちゃったんだから」

ゴマ君は一瞬迷ったような間を空けてから、口元をまた強張らせた。

「それが、全部ムダなことだったんだ。ムダどころか、月人くんからすれば迷惑で仕方なかっただろう。僕がしたことは夢の押しつけで、勝手で無知で、くだらない。どうしょうもないバカだ」

「やめてくれ」

月人が静かに、感情を押し殺すように言う。

「もうそれ以上はやめてくれないか。悪いのは僕なんだよ。期待に応えられない僕なんかのせいで、誰かが傷つくのはたくさんだ」

言い終わると月人は頭を抱え込んでしまった。精いっぱい自分をかばい、全てが通り過ぎるのを待っているようだった。それがきっと、ゴマ君を余計に逆撫でしたのかもしれない。

「あのさあ、男を好きな男っていうのは、オカマってことになるのか? だからそんな風に、ウジウジしてばかりなんじゃないの?」

ゴマ君に似合わない、荒い口調だった。いつもゴマ君を軽くあしらうミューズですら、警戒と怯えの色を浮かべている。

「別にもうどっちでもいいんだけどさ」

吐き捨て、ゴマ君が立ち上がる。亀のようになってしまった月人を見ないまま去ろうとする。二歩進み出たところで、足を止めた。

「なんか言い返すぐらいしろよ」

今度こそゴマ君は去っていった。私は止めることも月人を支えることもできず、自分がいかに役立たずな存在か思い知らされていた。やっぱりアンテナなんか無い。たかだか一人で出かけたぐらいで、浮かれていた自分が滑稽でうすら寒い。誰かを思いやるより先に、自分のことばかり浮かんでくることも、何もかも嫌だ。

 

十四

ひと昔前までは、顔の見えない場所にいる相手の気持ちを知るために大変な努力を要しただろう。目当ての相手が出るとは限らない家の電話を頼るのか、手紙でもしたためて悶々とするか。それが打って変わって、手のひらの中で全て成り立つのが現代、のはずだ。

ではいまだに、ミューズもゴマ君も月人も、誰一人どうなったのかを知らずに一週間も手をこまねいている私はなんなのだろう。私の手の中にあるスマホは、どうでもいい世間の声を無限に集めるのに必要な情報は何ひとつ仕入れてくれない。

いっそ、手紙の時代の方がよかったのかもしれない。指先ひとつでできるはずの行為だからこそ、私は弁明のしようがない。つまり、一週間経過しても何の連絡も情報もなく、孤立無援のような状態に追いやられているのは紛れもなく私自身が悪い。頭では分かっている。あんな誰も望んでいないタイミングで、重大な秘密が公にされた後だ。月人やミューズは落ち込んでいても不思議ではないし、ゴマ君はあの荒れようだったうえに、そもそも私の連絡先を知らない。その後の状況を知る手がかりがまるでないがために、ああでもないこうでもないと想像しては、ただひたすらに不安ばかりが募っていった。

姉に相談をしたのは三日ほど前だ。本当は相談するつもりはなかった。相談すれば、私があの場で何もできなかったことを窘められると思った。あるいは、その前に私が月人の前から逃げ出したことをぶり返して、さらにお互いが苛立つ結果になる気がして避けていた。

でもそれも、姉から月人と会ったのか尋ねられ、説明をしているうちに結局一部始終を話していた。話しているうちに、姉から窘められることなど些細な問題な気がした。

姉は窘めなかった。代わりに

「そうやってあんたが不安になってても、誰も得しないでしょ」

と涼し気に言ってコーヒーを飲んでいた。

あの日の永島さんという広報を交えたやりとりと、姉から言われた言葉とが頭の中で延々繰り返された今日、私は立ち上がった。部屋のパソコンデスクから離れ、出かけるために服を着替える。最低限に身なりを整え、鏡を覗き込む。もう、何もしないでいるのは限界だった。知らずにいる不安が大きくなりすぎて、知る怖さを随分前に飛び越えていた。

心の中で姉へ言い返す。不安だって、役に立つことがあるよ。スマホとポケットティッシュとリップクリームと手帳を掴み、バッグに放り込んだ。なずなへ向かうことしか考えられなかった。自分の目で確かめたいと思った。ミューズに呼び出され、不安いっぱいでなずなの前に立った時のことが頭をよぎる。

自分でも不思議だった。ミューズという知り合いの実家の店とはいえ、私にとっては数回行っただけの喫茶店だ。それが、なぜか特別な存在に感じている。どうか壊れないでと、切実に願っている。なずなの黒板に絵を描きたいと思った時もそうだった。どうやってあんな大それたことを思いついたのだろう。

私はなずなのカウンター席についた。目の前には主にお父さんが水仕事をするスペースがあるから、自然とお父さんの定位置のようになっていた。もっとも、私が見てきた限りだとそこにお父さんがいるからといって会話をしているお客さんは多くはなかった。カウンター席が埋まる優先順位はテーブル席の次で、他の席に座り損ねた一人客が新聞を読んでいる印象が強い。

「この間は、変な話に巻き込んでしまったね。あっちの広い席が空いているけど、ここでいいの?」

お父さんは意外そうに尋ねた。私が頷くと、小さくヒゲを揺らして笑顔を見せた。私自身、この席に座ったからといってどうするのか考えがあるわけでもない。ただ、言葉を伝えられない私にとって、できる限りの意思表示でもあった。その後、お変わりはありませんか? 学生のミューズはともかくお母さんまで姿が見えないのは、たまたま不在にしているから?

心の声を差し置いて、私はメニュー表からブレンドコーヒーを指す。できるだけお父さんの目を見て、横柄な印象にならないよう努力した。

コーヒーが運ばれ、考えてみれば久しぶりに一人で味わっていた。誰かといるときと違い、なかなか冷めないコーヒーをすすっては、私の求める何かが無いか店内に気を巡らせる。なずなの店内はお母さんとゴマ君がいない以外は変わらなくて、何も知らなければ疑問にも思わなかっただろう。でも私は、一週間前のことを知ってしまっている。わずかな店内のレイアウトの違いさえ意味深に見えるほど、過敏に情報を集めていた。

お父さんは以前と変わりがないように見えた。落ち着いていて、だからこそ私からすれば情報が無くて焦る。あれからみんなはどうしているのか、無性に知りたい。

話しかけてしまおうか、自然とそんな考えが浮かぶ。先週、電車の中で車掌さんと話せたことを思い出す。そうだ、あれと同じように、声を出して話してしまえばいい。

今だってきっとできるのだ。自信とともに、あの時と同じ妙な焦りが湧いてくる。喋って、本当にいいのだろうか。何かをずっと怖がっていたはずじゃないのか。何を怖がっていたんだっけ。恐れるものの正体が分からないことが、新たな恐れを生む。話せばもう後戻りできない。何から何に戻れないのかも分からないのに、ただ怖くて踏み出せない。

コーヒーカップを口につけると、中身が無くなっていた。店に来てから、ほんの十五分かそこらだろうか。もう一度、お父さんに話しかけるか考えてから、やっぱり私は店を出た。お母さんもミューズも月人もゴマ君も。結局顔すら見ていないことに後ろ髪を引かれても、他に選択肢が思い浮かばなかった。

 

 

十五

改めて情けない話だけど、ミューズから連絡が来たときは嬉しかったし、それ以上に安堵した。

私がなずなに出向いた日の夜、誰からも連絡が無かったことへの動揺ぶりからも、自分が邪な期待をもっていたことに気づかされていた。結局のところ、私は自分がお父さんに話しかけるよりも、お父さんが家族に私の来店を話してくれることに賭けたのだ。

一日、二日と経って期待することを投げた頃に、ミューズからのメッセージが来た。

『うちの店以外のところで会えない?』

お父さんから話があったのかは分からなかった。

なずなから離れたところがいいというミューズの希望で、一つ隣の駅前から数分歩いたファミレスで落ち合った。オレンジジュースを一口飲んだミューズが、先日の件と呼び出したことを詫びる。

私のその後を気遣って声をかけてくれるけど、私はといえばミューズが用意しているだろう本題ばかりが気になっている。上の空の私に気づいてか気づかないでか、ミューズは近況を切り出した。

「あれからゴマ君、一度も来てないの」

やっぱり、というのが率直な感想だ。なずなでゴマ君を見かけなかった時に、そんな気がしていた。

「連絡したら返事は来るんだけどね。ただ、そっとしておいてほしいって。変だよ、私ら家族よりもショックを受けてるなんて」

家族、という言葉に思わず反応した。見開いた私の目に気づいたのだろう、ミューズがそちらに話題を向ける。

「いや、正直分からないんだけどね。うちらの家はあれから、誰もあのことを話さないから。親父は多分、あの時に言ったそのままなんだよ。月人が話したいなら話せばいいし、話したくないならそれでいいって思ってる。おっかあが、あの母親までが何も言わないってのは意外なんだけど」

なずなにいる時と違い、親父、母親と言い直す姿によそよそしさを感じた。おどけて、おとう、おっかあと呼ぶ姿が今となっては名残惜しく思える。

「もしかして逆かな。言葉にできないぐらい、ショックってことかな」

自問自答して、ま、知らないけど。とあっさり疑問を片づけた。

「月人も変わった様子はないよ。何も言わないし。普通に仕事行ってるし。ただ」

ただ、と言いかけてミューズは唇を尖らせた。含みだけもたせて、早々に話題を変えてしまう。私はそれを見ているしかない。

「ひとまず、月人のことはいいの。それより、今日来てもらったのはもっと別の話」

言葉を止めて、ミューズはオレンジジュースが入ったグラスに手を伸ばす。飲まずにただ眺めて、右手から左手へ短い距離を弄んだ。今この場でどうするべきか、グラスに助言でも求めているみたいだった。

「先に教えて。あんたが、戸村がこの話をしたいかどうか。もし戸村が蒸し返したくないなら、私は忘れるから」

ミューズが言わんとすることが理解できて、私は思わぬ選択を迫られる。私の答えは、ミューズが言い終わり、なずなより薄いコーヒーに口を付けて離すまでの間に決まった。

「私が昔、戸村にしたことの理由を知りたいかどうか。それをまず教えて」

戸村にしたこと。ミューズのためか、私のためか濁されたその言葉。水浸しの私、逃げ場がない私、結菜ちゃんを探す私。惨めな私が次々浮かんで、その背景にももっと小さな、でも確実に私を追い詰める数々が埋もれている。

私は頷いた。知りたい、と意思をこめた。もう、人の気持ちを知らないままで過ごすのはたくさんだった。私と同じように頷いてから、ミューズは話し始めた。

「分かった。じゃあ、話す」

もう一度私は頷いた。

「月人が同性愛者だなんて、私はとっくに知ってたんだよ。だって兄妹だよ? 普通気づくじゃん」

私は戸惑った。どうして急に月人の名前と、同性愛者の件が出てくるのか、理解が及ばなかった。

「っていうのはウソ。夢にも思ってなかったんだよ。私たちが中学生になる前ぐらいまでは」

胸がざわつく。中学生になる前、というのはミューズから私への仕打ちが始まったころでもあった。私は思わずミューズを見つめた。

「隠したって仕方ないから、モロに言うよ。私は見ちゃったの。いつも遊びに来てた月人の友達と月人が、キスをしてたの。男同士でよ。最悪でしょ」

ほんっとに、最悪。よほど思い出したくないのか、ミューズの呟きは記憶を振り払っているように見えた。

「月人はバレたって気づかなかったみたい。私、どうしたらいいか分からなくて、とにかく見つからないように逃げたの。私の方が悪いことしてるみたいに」

私は頷きかけて止めた。どういう顔で聞いたらいいのか、誰か教えてほしい。

「その時の相手、それまでに家で何度か見かけたことがあったんだけど。それが戸村と同じだったの。全く話しかけても喋らない、変な……ごめん、当時は変なやつって思ったの。私が挨拶しても頭を下げるだけで、一度も声を聞いたことがない。だから見ちゃったときも、月人は喋らない相手と部屋で何してるんだろうって、こっそり覗いちゃって。それであんなことに」

私の意識は、私と同じ症状だという男の子へ向いていた。半信半疑だったけど、病名が存在するぐらいだから世の中には一定数自分と同じ分類の人がいるのだ。二百人に一人、という確率を耳にしたことがあったけど、自分以外の当事者を知るのは初めてだ。

「今になってさ、やっとほんの少しだけ分かるんだけど。月人だって相手だって、何も悪いことなんてしてないでしょ。でもあの時の私は受け入れられなかった。小学校六年生で見たんだよ。正直、自分で改めて考えてもキツイと思う。とにかく月人も相手も、汚い、近づいてほしくないって思った」

私の記憶にある、一番最初の頃のミューズはいつも活発で男子も女子も自然と人が集まってくる子だった。だからこそ私だけに向けられる敵意が怖かった。明るい表向きの顔だけではやり過ごせないほどに、小学生には衝撃が大きい経験だったかもしれない。

「それで、最低最悪な私は戸村を見るたびに腹が立つようになった。頭ではなんの関係もないって分かっててもね」

私はまたしても、どんな顔をしていいか分からなくなる。正当な理由でも的外れな理由でも、もう何年も前の話だ。怒りを新たにするにも、理不尽さから解放されるにも、時間が経ちすぎていた。

つまり、戸村は八つ当たりでいやがらせをされてたってこと。そうダメ押しのようにミューズが付け加えても、私の心に熱は入らなかった。

「家にいると何度もあいつらを見かけてさ。どんどん家にいるのが嫌になった。両親にも話せないし。私が安心できるのは学校の時間だけだったの。それなのに、学校でも戸村を見るたびに思い出すのが本当に嫌だった。戸村からすれば、こんな迷惑な話無いよね」

口に出すほど、ミューズの声はしおらしく小さくなっていった。時折顔を上げる時は、自分にムチを打つように声をふり絞っていた。

「私が謝らないといけないのは、それだけじゃないよ」

彼女の指すものが、これ以上彼女自身を追い詰めるものではないことを祈った。

「戸村を月人に会わせたのは、月人が戸村のことを好きになるかもしれないって思ったから。昔の彼氏と同じ、喋らない戸村を見たら、月人の病気が治るんじゃないかって思ったの。私はあんたを利用したってこと。最低でしょ?」

最低だ。私にはむしろ、中学生がショッキングな出来事の憂さ晴らしにいじめをするよりも、二十一歳のミューズがしでかしたことの方が遥かに悪質に思えた。私に対しても月人に対しても、人の気持ちを無視した愚行だ。間違いなく苛立ちを覚えていた。それでも、なんの習慣だか私は自分の感情を隠してしまっている。

「私は、どんな方法を使ってでも月人を治したいの。今だってそう思ってる」

私がスマホを取り出すと、ミューズが注目を向けたのが分かった。たった四文字に集約されることになったのは、手が震えておぼつかないためだけではない。理由や前置きをつけない方が、ミューズの心を刺すだろう。ささやかでも、仕返しになればそれはそれでいいと思った。

『なんで?』

私の本心をこめた、四文字だけの画面をミューズに見せる。だって私には理解ができない。ミューズの言葉を借りるなら、『治る』ものではないだろう。あるいは治る方法があるとして、月人がそれを望むだろうか。ミューズにだって、それは分かるのではないか。十一歳の頃からずっと固執して、変えないといけないほどのことなのだろうか。

「なんでって、そんなの」

身をすくめそうな自分をとりなし、顔色も変えないように振舞った。ミューズが今にも爆発して、中学時代のように私を罵る気がした。それほどミューズの声は揺らぎ、何かを吐き出そうとしているのが伝わってきた。

「分かんないよ、私にも」

ミューズがしな垂れ、私も息をつく。自分の肩に入っていた力の大きさに驚く。何年経ったとしても、染みついた警戒心は簡単には解けないのだと思い知った。

「あんたは、戸村は治りたいと思わないの」

ミューズの問いかけは、私の心を読んだみたいだった。ミューズが月人を治したい、と口にするたびに私は考えて詰まっている。少し前なら、迷わずに治らなくていいと答えていた。それがいつからか、話せるようになりたいのかもしれないと考えるようになっている。相づちのひとつでも、打てるようになりたい。

私は首を振った。

「じゃあそうでしょ? 普通じゃないなら普通になりたいって、誰だってそうなんじゃないの。それを家族が願うのはいけないことなの?」

私は握りしめたままのスマホで、言葉を打とうとした。闇雲に打っては消して、予測変換の中に答えがないか探したりもした。あるはずもなくて、指を止める。

「ごめん、めんどくさいこと言って」

私をかばうというより、見限ったように見えた。ミューズは疲れを隠さず、宙を仰いだ。

「戸村もさ、治りたいんだったらそれ、止めれば?」

ミューズが私のスマホに目を向け言う。

「そうやって道具に頼ってるから、余計にしゃべれないんじゃない?」

違う、と言い返したかった。今だってもし自分で話すと想像したら、考えただけで正気が保てなくなりそうだ。スマホに『違う』と打とうとしたけど、指が動かない。つい十日ほど前、車掌さんとためらいなく話せた場面が浮かぶ。本当は話せるの? 自分の声が頭の中で響いた。頭に虫でも入ったような受け入れ難さを、大声で叫んでかき消したかった。

「ねえ、大丈夫?」

よほど顔色でも悪いのだろうか。ミューズが心配そうに顔を覗きこむ。私は一層見られたくなくて、手で覆った。

私はウソをついていたんだろうか。子どもの頃からずっと。一体誰に、何のために。自分にだろうか。自分を騙して、話せないとウソをついていた? そんなはずはない。じゃあなぜ。ぐるぐると渦に吸い込まれていきそうな気持ちの悪さ。吐き気さえしてきて、助けてほしい、切実にそう願った。

「戸村、もういいよ! 道具に頼ってるなんて言って悪かったよ。そんなつもりじゃなかったの」

隣から肩を抱くミューズに、私は助け出された。返事の代わりに、ミューズの肩に頭を預ける。スマホを使えばいいのに、そうできなかった。きっと今スマホを使ってもミューズは咎めない。分かっていても、私自身が嫌だった。もう、逃げたくない。自分の声で伝えたい。ミューズの目を見て、私は懸命に口を動かす。バカみたいだけど、何を言うかも考えていないのに声を出していた。

「あ、あ」

不格好な声。でも止めたくなかった。ミューズはまっすぐ私と目を合わせたまま、ただ居場所を貸してくれていた。言葉にしたい。伝えたい。思うほど、喉が締まっていく気がする。もしかしたら、絞り出せば何かを発せられるかもしれない。微かに顔を出す期待と、やっぱり隙間風みたいな音しか出せない声との間ではち切れそうになっていた。

ミューズの後ろ、空席が目立つ店内でありながら、トイレに向かうらしき女性と目が合う。はっとして私はミューズから離れた。ファミレスの席に横並びでくっついている姿が異様に映ったのだろう。女性は言い訳がましく、足早に離れていった。

「ごめん。余計なこと言って」

自分の席に戻るミューズに、私は首を振った。

余計なことなんかじゃない。おかげで、自分の中に押し込んでいた気持ちを知れたんだ。私は決意を固めることができた。胸に手を当て、浅くなった呼吸を必死に整えているとなぜだかいつかの姉の言葉が浮かんだ。

『あんたは、この世に二種類の人間しかいないと思ってる』

話せる人間と話せない人間。姉の言う通り、確かに少し前までの私はそう思っていたんだろう。でもミューズや月人や、なずなの人たちと一緒にいるうちにだんだん分かってきた。今のままじゃ私は、話ができない上にダサくて間抜けで意気地なしなやつだ。

 

 

十六

決心したことは二つある。一つを果たすため、私はまた懲りずになずなのカウンター席へとやってきた。二回目ということもあって、お父さんは特に意外そうでもなく私の希望を受け入れた。

本当はデザートを頼んでみたいと思うときもあるけど、収入は減り外出の機会が何となく増えている今、頼れるのはコーヒーチケットだけ。思えば、これが無くなるまでになずなの黒板に絵を描くと決めて早幾日。今日消費すればあと二枚になるわけだ。

我ながら自分の意気地の無さ、逃避癖とは二十一年付き合ってきている。機を逃せば、また私は逃げてしまうだろう。たとえ真っ暗な夜道だろうと、目をつぶって駆け抜けてしまうこと。それができれば、きっと私は先へ進める。できなければ、永遠に私は無力で無価値で無知なまま。

やることを決めているというのは、心に余裕と視野の広さを与えてくれた。カウンターの椅子はこうして改めて座ってみると、高くて足が床に届かない。椅子の足に爪先を絡めて、背伸びしてコーヒーを待つ。前回一人で来たときには明らかな椅子の高さの違いに気づきすらしなかった。前回の私と、今の私では別人だという気すらしてくる。だから、第一声を躊躇いなく出すことができた。

「コーヒー、いつも美味しいです」

予想していなかったのだろう。コーヒーを運んできてくれたお父さんは、分かりやすく口ごもった。一瞬、日本語を忘れたような間があってから答えが返ってくる。

「それはよかった。ありがとう」

思い出したように、にっこり笑ってヒゲが膨らむ。

「それとチョコレート。あれもすごく美味しかったんです」

これは想定の中に無い言葉だった。昨日の夜、頭の中で何度も繰り返したシミュレーションにないものが出せた。お父さんを目の前にしたら、チョコレートのお礼もぜひ言わなくてはと思い、実行できた。まるで会話をしているみたいだ。奇跡的だと、高鳴る胸に触れる。手の平の湿りに驚いた。気づかないうちに、両手が汗で濡れている。

「あのチョコレートはうちの自家製だからね。自慢の品なんだよ」

初めてここに来たときもそう説明されたことを思い出す。懐かしさと、途中から泣いて味が分からなかったことのむずがゆさが交錯して変な気分だ。

「私、このお店が好きです」

言葉にして、自分の思いを確かめる。

頭の中にいつかのなずなの風景が浮かんだ。チョコレート色の店内に、オレンジの灯りが揺らぐ。天井から下がる傘つきのランプが並ぶ中で、一つだけ煤けたような銀の蝋燭台が灯す火がある。どうしてその一つだけが他と全く違うのだろう。誰かからの贈り物だろうか。そこで、この風景が私の空想のものだと気づく。

私の記憶とイメージが混ざった店内だ。頭の中で創り上げた、私が一番好きななずなの姿。銀の蝋燭台が隠しているのは、驚きの真相かもしれないし、笑ってしまうようなくだらない理由かもしれない。隅にある五体のお人形にさえ、兄妹の健気な物語が隠れているのだから。分かるのは、きっとあの、みにくいアヒルの子のような蝋燭台も、このお店の人やお客さんから愛されているのだということ。

「ありがとう。ミューズの友達が来てくれるだけで嬉しいのに、そんな風にまで言ってもらえるなんてね。あの子はいい友達をもった」

お父さんが目を細める。今もまだ、私の頭の中では空想のなずなが思い浮かんでいた。奥にカウンターがあり、お父さんがコーヒーを淹れている。一番手前のテーブル席で、お母さんとゴマ君がこちらに向かって身を乗り出している。お母さんは肘をついて、ゴマ君は慌てたような苦笑いだ。ミューズは跳ねるように働いている。それは一枚の絵になっていた。コーヒーチケットとミューズへのお礼の手紙を握って、なずなを訪れた日。結菜ちゃんから見放された私を、無条件に受け入れてくれた場所。なずなのために、看板に絵を描きたいと思ったあの日だ。頭の中で、油絵の姿になって出来上がっていた。

絵の中では月人も立っている。この構図では、月人が座る奥の席は見えないから私に勝手に立たせられ、あの黒板を訝し気に見つめる役となっていた。ああ、これが私の一番好きななずなだ。まだ実現していない、ありえたはずの未来。守らないと、ずっと後悔する。

私はお父さんに向き直った。

「私、あの黒板の絵を手伝いたいんです」

私の視線の先に、今では文字だけのメニュー表となったあの黒板を見つけ、お父さんがメガネを持ち上げる。自分で作った黒板に目を凝らし、続けて私に向けて目を凝らした。

「それは驚いた。どうしてまた急に?」

急にではないんです、と順を追って説明するのは私にとっては無理難題だ。お父さんはきっと奇妙なものを見る目をしているだろうと思うと、視線が痛かった。とにかく言えることだけ言って、これ以上不審人物に映らないよう頑張る。

「絵は、得意な方だと思ってます。いつもこの店にお世話になっているので、お礼になればと。それに、描きたい絵があるんです」

これは、予定になかったセリフで且つ言わなければよかったと思った。もう手遅れなので、勢い任せで全て伝えてしまう。

「ミューズやお父さんにお母さん、ゴマ君と月人がいる、この店の様子を描きたいんです」

言ってしまった。シミュレーションと違って、現実の会話は難しい。

「それは賑やかでいい絵になりそうだ」

「だから、ひとつお願いがあるんです」

私の内なる計画の予定だったけど、もはや説明しないわけにはいかなかった。

「もしまた、みんなが揃うことがあったら、その様子を描かせて下さい。実際にお店にいるところを見て描きたいんです」

お父さんは俯いた。了承の意味の頷きではなく、何やら考えごとをしているようで、顎に手を当て小さく唸った。

「それは嬉しい話なんだけど、ただ、みんながまた揃うかは」

分からない、と言いたいのだろうけど、その先の言葉はなかった。

耳慣れたベルの音とともに、お父さんと同年代ぐらいにみえる男性客が入ってきた。迷わず入り口横の新聞を取って、以前ならゴマ君が座っていたあたりのテーブルへ座る。カウンターの奥からお母さんが出ていくのを見送って、お父さんは私と向き合った。

「ゴマ君のことなら、私がなんとかします」

ミューズに見るも無残な姿を晒して、私が決めたことは二つ。一つはお父さんに黒板の絵を描きたいと打ち明けること。絵は、なずなを愛するゴマ君もいて完成される。

「ゴマ君が望むかな」

お父さんの反応は芳しくなかった。私は早くも決意表明を取り下げそうになる。応援してくれるのではないかという、勝手な期待が自分の中にあった。

「この店を始めたばかりのころに、常連になってくれた若い女の子がいてね。看護師を目指す学生さんだったんだけど。毎日のようにここに来て、すごく頑張って勉強してたんだ」

唐突な語り始め。でも、お父さんの懐かしむ顔には続きを聞きたいと思える力があった。

「たまに差し入れと思って、勝手にデザートを持って行ったりしたもんだよ。そうすると、集中してただろうにきちんと教科書をたたんで、目を見てお礼を言ってくれる。なんとか看護師になれるといいなあって、つい応援したくなる子だった」

この店が始まった頃というと、お父さんも若かっただろう。お母さんとはもう出会っていたのかな、なんて野暮な想像をしてはまあいいかと頷く。

「その子は、ある日突然来なくなったんだ。毎日のように来ていたのが急に、だ」

「どうして来なくなったんですか?」

遠い過去のことと分かっていながら、私は幸せな真相を願って尋ねた。

「分からないんだよ。二度と来なかったからね」

「そんな」

「でもきっと、看護師になれたんだと思う。もう試験を受けなくてよくなったから、あの子は来なくなったんだ」

それはいくらなんでも寂しい結末じゃないか。私ですら、手紙を書くなりして結果を報告しただろう。憤る私の解釈は間違いなのかと思うほど、お父さんは微笑んで続けた。

「その子は特別印象に残っているだけでね、喫茶店という商売をしていると、そういうことは無限にある。そういえば、あのお客さんはあの時来たのが最後だって、いつもずいぶん後になって気づく。それどころか、来ていないことに気づかないお客さんの方が多いんだと思う」

私が不服そうにしていることに気づいたのか、寂しい話だと思うかい? と呑気な声をかける。曖昧な私の顔を尻目に、お父さんは続ける。

「でも僕は、それもいいんじゃないかって思うんだよ。この店に立ち寄ってくれる人がいて、離れていく人がいて、また初めて来てくれる人がいる。僕らが提供しているのは、そうやって来たいときに来られる場所なんだ。気を遣ったり、礼儀やつながりにこだわるのは、もっと別の大事な場所ですればいい。これは喫茶店を経営するうえでの、数少ない僕なりのルールだ。ちょっと大げさに言うと、ポリシーというやつだね」

お父さんは話ながら、時折顔を上げ店内を見渡した。お母さん一人で対応できないと分かったら、すぐに駆けつけるだろう。店内に向ける視線すら穏やかで、店の監督と私の相手を同時にこなしていた。

「だから、僕にとってみればゴマ君も同じでね。このまま来ないのも、またひょっこり顔を出すのも、ゴマ君が望むかどうかが全てだと思うんだ」

雲行きが怪しいと悟った私に、お父さんは確定づけることを告げた。

「この店の長として言えることは彼を、うちのお客さんをそっとしておいてほしいってことかな」

なぜ。と疑問を上げたところで、その答弁は完璧に為されていた。開店当初の話をつい最近のことのように明快に話すあたり、お父さんの中で繰り返された議論と答えに違いなかった。その口が指すポリシーは、私なんかが異議を唱えていいものではきっとない。

「ところが、そんなポリシーなんて見せかけの男らしさにこだわっている間に、自分の息子がホモになっちまったという笑い話だな」

ひゃっ、と私は生まれて初めて出した種類の声でのけぞった。首に、お母さんが持ってきたおしぼりの熱さが触れる。

「うちの男どもは馬鹿ばっかりだ。一人は男だかどうかも定かじゃないが」

お父さんが長きにわたって積み上げてきただろうポリシーをあっさりこけにし、カウンターでも肘をついた。椅子には座らないまま、私の顔を覗きこむ。首に当てたおしぼりを差し出され、お母さんの思うがまま受け取った。

「何を急に言い出すんだ。お客さんの前だぞ」

「馬鹿親父が、自分勝手なことばかり語ってお客の相手をしないからだよ」

お父さんは一瞬店内に目をやっただけで、何も答えなかった。話すのを放棄したというより、お母さんの主張を待っているようにみえた。

「あんな場に立ち会わせたんだ、他に言うべきことがあるだろう。あの後で月人を勘当したのかとか」

「そんなことは僕らの口から言わなくても」

「この子は知りたくて来たんだろう?」

お母さんと目が合う。私は思わず頷く。実の両親から言わせる後ろめたさもあったけど。お母さんのまっすぐな目はウソをつく方が罪深いと思わせる力があった。

「政治家もこの親父も変わらないよ。余計な話でお茶を濁して、説明責任とやらは知らんふりだ」

一瞬逸れたお母さんの目を追うと、テレビに失言を追及される政治家が映っていた。政治家とお父さんへ、裏表のない同じ温度の愚痴がぶつけられた。お父さんが観念したように頭を垂れる。

「大丈夫だよ。別に何も変わらない。そんな当たり前のこと、言うほどのことじゃないと思うんだけどね」

お客さんから呼ばれ、お母さんが振り返る。ゆっくりと離れていくお母さんは、最後まで「説明責任を果たしなさい」と訴えているようだった。

「月人がああいう秘密をもっていたとして、親に変わることなんてないんだよ」

同性愛者、という概念は人によって表現の幅があることに、この一連で気づいていた。差別的な意味を含めたり、あるいはフラットな呼称として選ばれるものもある。その中で、代名詞はより戸惑いを受けている人の使う呼び名に思えた。「あんな」とか「ああいう」とか。

「あとは? 他に言いたいことがあるなら、今全部言っちゃいな」

颯爽と戻ってきたお母さんが、通りすがりに口を挟む。いつもの、お父さんが働いている光景とは真逆だった。

「えっと、じゃあ」

せっかく後押ししてもらっているようなので話すことにする。

「私、無理やりゴマ君を連れてくるつもりはないんです。ゴマ君も、戻りたいけどきっかけがなくて戻ってこれないだけなのかもしれません。だから、ゴマ君に話を聞くだけでもしたいんです」

「いいじゃないか、反対する理由なんてない」

手を拭きながらお母さんがカウンター奥から出てきた。お父さんが目で制する。

「ゴマ君にはゴマ君の考え方があるんだよ。彼だっていい大人なんだぞ」

「あいつに考えなんか無いよ。勢いと見栄だけで生きてるんだ。あんなのでも、いてもらわなきゃ困る人間がここに二人いる。無意味に放り出しておくよりはここにいた方が有益ってもんだろう」

「二人?」

私が首を傾げると、お母さんは親指で自分の背中側、いつもゴマ君とお母さんが座っていた席を指さした。

「見てみな、あの不自然な配置を」

促されるまでは気づかなかったけど、確かに不自然だった。天井に設置されたテレビの前の、二人御用達席は空いているのに、その両側のテーブルには飛び石ながらお客さんの姿がある。先ほど入ってきた男性客も、テレビの真横に近い場所から首を痛めそうな曲げ方をして見上げている。まるで、予約席かのように真ん中だけが空いていた。

「避けられてるんだよ。常連がゴマオが来るかもしれないからって他の席に座るもんだから、初顔のお客さんまで深読みしてあそこを避けて座る」

迷惑そうにお母さんの鼻が鳴る。

「おかげで私があそこに座れないんだよ。客もいないのに座っていたら、サボりになるじゃないか」

どこまで本気か分からず、笑うべきか迷っていたけどお母さんの表情は未だ険しい。私は笑わないでおいた。

「僕にだって意地があるんだよ」

目は客席に向けたまま、お父さんは口だけ動かした。

「お客さんに必要以上にこちらから干渉しないというのが、僕の、この店のやり方だ。今までずっとそうしてきたじゃないか」

「本当に。どこまでダメなんだろうねこの親父は」

新しい来店者を告げるベルが鳴る。お母さんは一度お客さんに目を向けて、またお父さんに振り返った。

「ポリシーとかやり方だなんてのは、自分で壁をでっち上げているだけだろう。月人を見てみろ。性別のポリシーすら超えてるっていうのに。そんなつまらないもの、あの子の親ならぶっ壊して丸い頭になってみろ」

言い終わるとほぼ同時に、お母さんは入り口へと駆け寄っていった。一オクターブ上の、よそ行き声になったお母さんの切り替わりはたくましく見えた。

お母さんが立ち去ると、私とお父さんのいるこのカウンターだけ、打ち上げロケットから切り離された気分だった。窓の外みたいな店内を見据え、お父さんは息を漏らした。

「いろいろ、僕に言いたいことがあるんだろうなあ」

勝手な話だけど、お母さんを応援する側でいたつもりが、このときのお父さんの顔を見ると鞍替えしそうになった。それぐらい、萎んだ顔をしていた。

「ゴマ君のことを、お願いしていいかい?」

私はすぐ返事をしなかった。言葉通りの他に意味などないだろうに、もう一度、お父さんの意思を確かめたかった。

「月人のことまで引き合いに出されて、改めないわけにはいかないよ」

諦めた、とお手上げのポーズ。私が頭を下げると、お父さんはすまないね、と呟いた。そろそろ手伝わないと、後から何を言われたか分かったもんじゃない。とカウンター奥に向かおうとして振り返った。

「本当はどうしたらいいか分からないんだよ」

なんのことだか分からず、ただお父さんを見つめる。

「月人のことをね。どう付き合えばいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか、受け入れたらいいのか叱るのがいいのか、まるで分からない。ただ間違いないのはね」

お父さんは灰色の眉毛を寄せて目を細めた。

「何があっても、月人はうちの自慢の子どもだ」

それだけ言い残して、カウンター奥の定位置へ向かった。見送った私は、店内が落ち着いたときに会計をしようと手元のコーヒーカップを見つめる。今しがたの会話を思い出して、少し肩の荷が下りた気がした。懸命に自分の戸惑いを隠して立ち続けるお父さんと、言葉は激しいけど最強の理解者であるお母さん。あの両親だから、正直に打ち明けようと思えたんだろう。月人の考えはきっと正しいと思えた。

 

 

十七

『ゴマ君の連絡先を教えて下さい』

慣れないお願いごとなうえ、内容が内容だけに、どうしたって敬語になってしまった。他人行儀な文言には触れず、

『ゴマ君に確認してみるよ』

とだけ返ってくる。私が返信文を考えつくより先に、了承がとれた旨とゴマ君の連絡先が送られてきた。

『なずなにゴマ君を呼んでも大丈夫かな?』

ミューズの返信は、絵文字があまり無いことが多かったのだけど、このときばかりは驚き顔が振りまかれた文が返ってきた。

『どうしたの』

『意外な展開』

『別に、大丈夫だと思うけど』

『おとうとおっかあは、いつでも歓迎するはずだよ』

翌日の夕方、ゴマ君はなずなのあの、誰も座ることのなくなっていた指定席にいた。私がしたことと言えば、たどたどしいメッセージのやりとりを三往復ほどしただけだ。二つ返事でゴマ君はなずなに来ると明言し、実行した。ゴマ君を説き伏せるための台詞をあれこれと用意していたのが滑稽に思えたほどだ。

「すみませんでした」

お父さんを見つけるなり、ゴマ君は頭を下げた。お父さんはちょうどコーヒー豆を広げて作業していたらしく、カウンターの向こうで豆がこぼれ落ちる音がした。

「急にどうしたの、藪から棒に」

散らばったと思われるコーヒー豆はそのままに、お父さんは目を見開いた。

「どうしたのと言われると、その、僕は月人くんに酷いことを言ってしまったのでそのお詫びがしたいと」

「事情は知らないけどね。それは月人と話したらいいよ」

「では、何日も不在にして心配をかけたかと思うので、そのお詫びを」

「心配?」

使用済みの食器を重ねたお盆を手に、お母さんが通りかかる。お父さんと目が会った瞬間に、怪訝な顔をして首を振った。救えない下っ端を見るボスマフィアみたいだ。

「ゴマオは客だろう。客は客らしく座ってな」

ゴマ君は肩を落とし、私に目配せした。降参だよ、と言っているように見えた。

何も変わらず、お母さんはゴマ君の横でテレビを見上げ、また仕事をサボっていた。もっとも、お母さんの理論ではそこにお客さんがいる以上はサボっていないのだということだけど。

お父さんも変わらずゴマ君のためにコーヒーを淹れ、ゴマ君は少しだけ気恥ずかしそうに久々の一杯を受け取った。私はその光景がよく見えるカウンター席に居座り、お馴染みセットの一部にでもなったようにコーヒーを啜る。

「なんだか嬉しそうだね」

お父さんに呼びかけられて、コーヒーを飲むふりで顔を隠した。自分がどんなニヤケ顔をしていたんだろうと思うと、急に不安になる。

ああでもないこうでもないと、ゴマ君とお母さんが言い合う両脇で、今日も男性客が首を折り曲げてテレビを見上げる。あんな辛そうな恰好にも理由がある。なずなの絵に描くときに取り入れなきゃ、と遠目で見つめた。

私は当初の目的を忘れないよう、もう一口コーヒーを含んで目を閉じる。二つの決意のうちのもう一つは、これから成し遂げるものだ。もはや取り掛かるだけという土壇場にきて、迷いが生じていた。

ゴマ君にお願いするということまでは決めていた。問題は、そこにミューズも加わってもらうかどうかだ。加わってもらえばいい、と真っ当な主張をする自分と、ゴマ君と二人ですればいい、と楽な道を進もうとする自分がぶつかり合う。えてして、楽な道派の主張の勝率が高い。ミューズに声をかけるのが億劫になっている理由は分かりきっている。

『そうやって道具に頼ってるから、余計にしゃべれないんじゃない?』

あの時の眩むような動揺が怖かった。これから私は、スマホを使ってゴマ君とやりとりするつもりだ。ミューズが来ても同じ。お父さんたちとは違って、ゴマ君やミューズとは自分の口では話せないという確信があった。

どうやら私は、近い年代の相手と話すのが一番怖い。なぜだっけ、と理由を探そうとすると何かを思い出しそうになるんだけど、昨夜見た夢みたいに朧気で掴めない。理屈は分からないのに確信だけはあるというタチの悪さ。

きっと、ミューズは私がスマホを使ってももう咎めたりはしないだろう。頭では分かっていても、実際にミューズの前でスマホを使うのは怖いし、悔しい気もした。

私は別の場面を思い出す。お父さんを叱咤するお母さんの姿。自分の作った壁を超えろと、力強く言い放った。

思い出すたびに、元気が出た。娘と母に挟まれて、沈んだり蘇ったりしているのは不思議で面白い気がした。いつか、ミューズに自分の声で伝えられるといい。

「ただいま。おお、ゴマ君じゃん」

ミューズの顔は正直だ。裏表がなくて明るい。中学校時代の、クラスでの評判が今のミューズに似合うと思った。私にも笑いかけ、ミューズはゴマ君と話を始めた。実物のミューズを前にすると、思っていたよりもずっと容易に私の決心はついた。よし、と口の中で言って、真っ当な自分の思いに従うことにする。

お母さんが席を離れたところで、私は進み出ることにした。ゴマ君が気づく。

「あやちゃん、ちょうどこっちに誘おうと思ってたんだ。一緒に話そうよ」

ミューズが待っていたように近くのテーブルから椅子を調達し、二人掛けスペースに三つ目の椅子を並べる。追加した椅子に自分が座り、真ん中の席を私に勧めた。二人に挟まれ、どちらに向けて切り出すか迷った私は、どちらにも目を向けずスマホを出した。

『二人に、お願いしたいことがあります』

「なになに? また意外な展開?」

ミューズが目を輝かせる。ゴマ君と再会できた余裕もあってか、無垢な楽しさが伝わってくる。

『場面緘黙という私の障害について調べるので、一緒にいて欲しいです』

口で言うよりも、どういうわけか文章にすると堅苦しくなる。歯痒さをこらえ、二人に画面を差し出した。これが、私の二つ目の決心。

二人は顔を見合わせた。驚いたような、解釈に迷っているような。

「もちろん、いいよ。あやちゃんが良ければ付き合う」

ゴマ君がただ事じゃないぞというように、口を真横に結ぶ。

「私も。どういうものなのか、ちゃんと知りたいし」

ミューズも神妙な面持ちで頷いた。そうか、それだけの一大事か。私一人が浮ついている気がして、二人に申し訳ない気さえした。

『ありがとう。あの時、一緒に調べようって言ってくれて』

ミューズに画面を差し出した。野球場でミューズから治る方法を調べようと提案されたときは、心の底から自分の不甲斐なさと世の分からずやぶりを恨んだ。でもあの時、ミューズが提案してくれたからこそ私は今の考えに辿り着くことができた。そして、ミューズは待ってくれていた。一人で調べようと思えばすぐにできることを、私が受け入れられるようになるまで手を出さずに黙ってくれていた。

満足に説明できる気はしなかったので、私が打ったお礼の解釈はミューズに委ねた。ミューズは小さく笑い、うん、と頷いた。

「僕のパソコンを使って調べる? それとも本とかがいいのかな」

私は頷き、ゴマ君のパソコンを指さした。株の売買で使っているとかで、時々なずなでもノートパソコンを開いているところを見ていた。今日はカバンに入れられたままになっていたそれを、ゴマ君は私の目の前に差し出してくれた。ゴマ君の手早い操作で、画面はインターネットの検索ページに飛んだ。

厚意に甘え、私はキーボードをたたく。

『場面緘黙症』

それだけ打ち込み、検索をかけた。

三十万件というヒット数の表示。本当に世の中に存在している概念であり、名前なのだと知る。

その中から一つを選ぼうというところで、今さらこみ上げてくるものがあった。二十一年間、ずっと遮断して、無いものとしてきた情報だ。自分のことが見透かされていたらと思うと、怖くて仕方なかった。動物や花の図鑑のように、私の生態について書かれていてその制約から一生逃れることができないのではないか。あるいは、ただ話せないフリをしている狡い人間である、と書かれていたら。そんな風に考えると、やっぱり見ない方が正解なのではないかと思えてくる。知ったところで、障害が治るわけではない。

それでも。

スマホで言葉を伝えようとする私を、ミューズに咎められたとき。あの時の自分の間抜けな声が頭の中で蘇る。

「あ、あ」

喉から出てくる意味のない声を聞きながら、本気で思った。

変わりたい。

ようやく気づいた。私は、私のことを知るべきだ。

画面に並ぶ見出しの中から、一番私を納得させてくれそうな、堅苦しい見出しのものを選んでページを開く。

 

◎場面緘黙の定義

「他の状況で話しているにもかかわらず、特定の社会的状況において、話すことが一貫してできない」

 

出し惜しみするでもなく、いきなり核心が飛び込んできた。正解をCM明けまで引っ張るクイズ番組が羨ましい気さえする。一句ずつ、自分に当てはめて考えてみる。

前半の「他の状況で話しているにもかかわらず」とは、話ができる場面があることを意味する。私にとっては家族との会話がそれにあたる。後半の「特定の社会的状況において、話すことが一貫してできない」とは、何をどう頑張っても話すことができない場面が存在する、ということだ。

私は特定の状況で話せないというより、人生の九割で話せないわけだけど。そう考えると、自分の症状は場面緘黙という群の中でもより重たいものなのかもしれない。筋金入りの場面緘黙。緘黙オブ緘黙。力のない笑いがこみあげてくる。

一旦、私は体を起こして画面から離れた。どうやら、いつかの医師の診断は正しかったらしい。私は、このホームページにある場面緘黙の定義に一致している。医師の診察よりもインターネットを信じるのもおかしな話だけど、たかだか二行の文章で宣告されたからこその説得力があった。

私を挟んでいる二人は、一言も発しなかった。気を遣っているのか、真剣に頭を働かせているのか、可愛げのない文字が並ぶホームページから目を離さない。私の方が置いていかれそうな有様なので、次に見るべき項目を探す。

ひとまず、太字で定義が書かれている他は、学会における諸説や解釈の違いなどが大真面目に細かな字で連ねられている。どこのどなたが作ったページなのかは分からないけど、真摯に場面緘黙を扱っていると感じさせるに十分なトップページだった。私は画面をスクロールさせ、太字で書かれている情報から目ぼしいものを探した。

 

◎場面緘黙は、脳の損傷や先天的異常などの不可逆的・恒久的な器質障害ではなく、社交不安症の一つとして考えられる症状である。したがって適切な治療的介入を行えば症状の改善が可能である。逆に、積極的な介入が行われなければ、症状が改善されずに固定化し、成人後に社会的機能に重篤な悪影響を及ぼしかねない。

 

実はどういうわけだか、私は独り言なら人前でも話せてしまう。といっても、独り言を意図して言うのは不可能だ。誰かが横にいると意識した途端に、口から言葉を出せば、それが相手に届いてしまう可能性を無視できないのだ。だから私が人前で独り言を言うとしたら、人の存在を忘れるほど集中する対象があった時だ。

私はホームページの説明に目を滑らせ、独り言を漏らさないよう無意識に注意していた。

『治療を行えば症状の改善が可能』

『社会的機能に重篤な悪影響を及ぼしかねない』

口から出ないよう、頭の中に押し込める。十数年完璧にかけてきたブレーキが、うっかり外れそうになる程度には鮮烈な文言だった。

十数年? ふと疑問がよぎる。最後に話したのはいつだっただろう。直感として、十数年という年月が浮かんだ。考えるより先に、学校の授業の光景が思い浮かぶ。何年生だか何の授業だか分からなくとも、机が並んで私は縛られたように席にいて、息が苦しい。やってしまった、と強い後悔に駆られる記憶。なんだっけ、と思い出そうとするけど、心当たりが多すぎてなんの場面だか分からない。学校の記憶は大体どれも息苦しい。

私は適当に画面を進める。両脇の二人が、

「すごく詳しく載ってるんだね」

「学年に一人ぐらいはいる計算かな」

など当たり障りのないところを拾って感想をぽつりぽつりと漏らしていた。

画面に集中しようとしても、小学校時代の残像が頭から離れてくれない。それはいつの間にか、なんだっけ、からどうして? という疑問に変わっていた。どうしてそんな光景が今浮かぶ。なにもこんな、ミューズとゴマ君を付き合わせている時じゃなくても。私は荷物でパンパンのトランクを閉じるように、無理やり考えに蓋をした。

何かまた、強烈に私を惹きつけてくれる説明でもあればいいのだろうけど。出鼻に受けた衝撃ほど、揺さぶる事実は書かれていなかった。大体のことは、私にとっては経験のうちに知っていたことで、答え合わせにはなっても新たな発見ではなかった。

自分の意思で話さないのではなく、話せないということ。大人しい子で済まされ、発見が遅れる、あるいは見逃されがちであること。親のしつけや育った環境は関係ないこと。私に気を遣いながら控えめな感想を漏らす二人の間で、ですよね、と無味を噛みしめた。

「ねえ、ちょっとこれ」

ミューズが興奮気味に画面を指さしたのは、場面緘黙の経過について書かれた項目だった。なになに、とゴマ君がその行を読み上げる。

「成長に伴って症状が軽減し、話せるようになるケースも多い」

ゴマ君とミューズが遠慮がちに、だけどそうせずにはいられないといった様子で私の顔を窺う。希望の光を見つけたよ、と報告するようだったけど、私はさらにその先の行を見ていた。私の目線に気づいてか、ゴマ君が続きを読み上げる。

「成人になっても困難さが続くケースでは、慢性経過となりやすい」

「慢性経過って」

声に出してから、ミューズがあからさまに後悔の顔つきになる。言葉にしてその意味するところに気づいたのだろう。慢性経過、つまりダラダラと続いて治らない。

「そういうケースもある、って話でしょ」

打ち消すようにゴマ君が言う。

「そうだよね、戸村だってこれから頑張ろうってところだし。悲観したってしょうがないよね」

懸命に取り繕う二人が不思議だった。私は確かに、場面緘黙について知りたいとお願いしたけど、治したいと言ったつもりはないのに。二人には、この体質を治したいと変換されて伝わったらしい。私自身よりも二人の方が望んでいるように見えた。正確には、私が治りたいと望んでいることを望んでいるように見えた。慢性経過だなんて言葉は私にとっては「でしょうね」の範囲で、二人の反応の方がよほど意外だった。

二人は同じような、前向きを並べた台詞を代わるがわる告げ、私を慰める体勢へ入った。たぶん、私が何の反応も示さなかったのも良くなかったのだろう。文字を打って今日のお礼を伝えようとした頃だ。

「久しぶり」

割って入ることへの遠慮を含みながらも、涼しく撫でるような声。私たち三人が振り向いたのは同時だった。

「月人くん」

ゴマ君は言いたいことが溢れて止まらない、そんな力のこもった目になっていた。ほとんど立ち上がりかけてから、椅子ごと振り返る。

「この間は、申し訳なかった。僕が大人げなかったんだ。勝手なことばかり言って」

「こちらこそ。僕が期待に応えられないばかりに」

月人は力なくしな垂れた。その儚げな姿さえ絵になり、フィギュアスケート選手の立ち姿を連想させた。

「三人に伝えたいことがあるんだ」

「私も?」

ミューズが意外そうに眉を上げる。私も、恐らくゴマ君も、ミューズと月人の会話を恐る恐る見守った。二人が話すところを見るのは、あの広報に月人の秘密をぶちまけられて以来だ。

「そう。三人に」

ミューズと月人の間に、わだかまりがあるようには見えなかった。

「永島さんと話した」

あの女、でもなくクソ広報、でもなく永島さんと呼ぶあたり、月人は本当に大人で上品だと思う。

「何を話すことがあるの」

嫌悪感を露わにするミューズは、それはそれで正直で嫌いじゃない。

「あの話を受けることにした」

「なんでよ、頭おかしいんじゃないの」

ミューズほどではないにしても、私も問いたくなった。あの話。月人が甲子園のスターと対決する、のどかなイベント。ただし月人は同性愛者の代表として、世の同じ悩みを抱える人を勇気づけるだとかなんとか。改めて考えて、ミューズの苛立ちはきっと正しい。

「ミューズは何が不満なんだ」

「何がって、当たり前でしょ? まさかあの女の言葉に騙されて、本気でホモを元気づけたいとでも思ったの?」

「そのことなら話はついた。僕はただ地元クラブチームの一選手として出ることになった。永島さんも理解してくれたんだ」

「じゃあなおさら断ってよ」

月人はただミューズを見つめた。畳みかけるように、ミューズが早口になる。

「もう月人じゃないといけない理由はないんでしょ? 他の誰だっていいじゃん。それなら断って来てよ。なんで受けるなんて言うの」

「違う。永島さんはたとえ同性愛者の件が無くても、僕に依頼したいと言ってくれた」

長年ミューズの不の感情を見てきたせいか、私には爆発の瞬間が予想できた。来る、と分かったけど私にできるのは顔を見ないようにするぐらいしかない。

「そんなのどっちでもいいよ!」

喫茶店の店内で出せる中では、最大限の怒りの声だろう。何が当たったのか、テーブルの上のコーヒーソーサーが小さく音を立てた。

「分かんないの? 今以上に目立つようなことしたら、ネット上でどんどん噂が広まるんだよ? プロ野球の始球式で何万人もお客さんが入ってて、そのうちの一人でも月人の名前を検索したらもう終わりだよ。想像してみてよ。球場中のお客さんが指さして、あいつはホモだって笑うんだよ」

ミューズが月人を責めれば責めるほど、ミューズ自身が押しつぶされているように見えた。自分の言葉に傷ついて、それでも吐き出す言葉が止められない。

「僕は別にそれでも構わない」

動じずに言いきる。月人は月人で、簡単に答えを曲げそうにはない。

「私が嫌なの!」

とうとう喫茶店の中という配慮が取り払われた、悲痛な叫び。遠慮がちに様子を伺っていた客たちが、こちらに視線を集めてきている。

「自分のことしか考えてないじゃない。ほんとに馬鹿なの? 私たち家族はどうなるの。私は嫌だよ。私まで変に思われたくない。私は普通なのに」

横でゴマ君が、目立たないようにカウンターの方に気を配っているのが分かった。お父さんかお母さんに知れることを懸念しているのか、あるいは事の収集を期待しているのか。ゴマ君が安易に口を挟めない程に、兄妹は譲るまいと必死だ。

「僕にはこれしかないんだ、ミューズ」

「なんで? 野球なんて好きじゃなかったじゃん。そんなに目立ちたいの? 自分と、自分の家族をさらし者にしてまで?」

「もう決めたんだ」

「もういい」

月人が言い終わるかどうかというところだった。ミューズが力任せに立ち上がり、椅子が床を打つ音が響く。せっかくゴマ君が戻ってきたというのに、今度はミューズが。これではこの前と一緒だ。やっと、うまくいくはずだったのに。

「ま、座りなよ」

ゴマ君がミューズがいた席を指す。月人は言われるがままに座った。促されてというより、立っていられなかったのかもしれない。

「家族ってなると、そりゃややこしいよね。僕が月人くんに怒ってたのとは訳が違う」

言葉のない月人を見かねてか、責めてるわけじゃないんだよ、とゴマ君は付け加える。

「僕としては、月人くんのプレーが世間にお披露目されるなんて、始球式であっても嬉しいけどね」

身勝手な話だったね、とまた付け加え。ゴマ君も、誰の味方をしていいのか迷っているようだった。だってこの話題には、悪というものがいない。

「月人くんは、やっぱり試合に出たいわけ?」

いや、止めた方がいいって言ってるわけじゃないよ、とゴマ君。自分の全部の言葉に言い訳しているみたいだ。

「オファーが来たので。必要だと言ってもらえるなら、出るだけです」

中身は変わらなくとも、あからさまにミューズが去った余韻を引きずっていた。抑揚を失った説明。

「ゴマ君なら、どうしますか? 家族を巻き込んでしまうぐらいなら、やっぱり止めるべきだと思いますか?」

「僕? 僕に家族の問題を聞いても参考にならないよ」

手つかずになっていたコーヒーに口をつけ、ゴマ君は続けた。

「不思議に思わない? なんで僕が毎日ここに来るか。僕ほど来る常連客はそうそういないでしょ」

月人は同意していいのか迷ったそぶりで、小さく頷いた。

「僕、家に居場所がないんだよね。両親は株で生計を立てている僕を恥さらしだって思ってる。兄弟の中でも僕だけ定職についてないからって、家にいると一日中嫌味を言われる。だから、今日久々に来るまではネットカフェにこもっていたぐらいだ。あんなの巻き込んだとして、僕はなんとも思わない」

ゴマ君の口調は冷ややかで、どこを切り取っても家族への非難がこめられているようだった。

「そのクセ僕がテレビで野球を見てるとさ、父親が口を挟んでくるんだ。お、どっちが勝ってるんだ、なんてね。興味もないくせに」

「あれ、なんででしょうね。日本の父親は息子に野球の話をする義務でもあるのかな」

微かに月人が苦笑する。懐かしむような、ゴマ君を労わるような。病院で渡される男の子の育児マニュアルに書かれているのかも、とゴマ君も笑った。

「うちは頼んでもいないのにクリスマスプレゼントがグローブとボールで。みんなああやって、親の思惑通り野球好きになっていくんですかね。もっとも僕は、今だって野球が好きじゃないですが」

自嘲気味に笑みを浮かべる。やれやれと父に呆れる息子は、優しい顔をしていた。

「僕は違うよ。僕が野球を好きなことは、親には内緒にしてある。だから僕はどこのチームも応援しない。応援してた時期もあるけど、部屋にユニフォームとか置きたくなってこらえるのが大変だったからね」

思わずゴマ君を見てばっちり目が合った。反射的に見てしまうほど異様に思えた。

「僕のこと、ちょっと変なヤツって思った?」

どう返すかためらう私の代わりに、月人が口を挟む。

「それは思うでしょう。さすがに変わってますよ、野球を好きなことを隠すなんて。なんていうか、目的が分からない。親に知られたって構わないことじゃないですか」

「目的、か」

ゴマ君は宙に目をやり、何やら考える。自分から視線が逸れ、私は肩の力が抜ける。

「僕はね、早く大人になりたくてしょうがない子どもだったんだ。小学校のころなんか特に。同級生がみんな馬鹿に見えて、くだらないって見下してた。でもいくら僕が望んだって年をとるスピードは変えられないし、小学生は小学生。大人には勝てないし、相手にもされないって分かってた。早く二十歳になって、大人って認めてもらえるまで耐える以外にないんだって諦めてた」

「マセた子どもですね」

感心したように口元を引き締める。嫌味のない素直な反応は、ミューズの兄らしいなと思う。

「ところが、そこに神が現れた」

ゴマ君が得意げに指を立てる。思わず私と月人は、誘われるようにその指に惹きつけられた。

「松坂大輔だ。忘れもしない、僕が十歳のときに彼がプロ野球でデビューした。とにかくすごかったんだよ。十八歳が、大人たちをバッタバッタと三振に取る。当たり前のように歴戦のプロ野球選手をやっつける」

バッターの再現をしているらしく、ゴマ君は空振りする選手を体いっぱいで表した。天井を向いて仰け反るような空振りは、野球に詳しくない私から見ても痛快にやられていた。

「衝撃だったんだ。年齢なんて関係なく、松坂は自分の力で勝ち続けた。もう夢中だったよ。あんな風になりたいって真剣に思った。毎日自分の部屋で松坂の投球フォームのマネしてさ」

今度は投げるポーズ。早く大人になりたかったはずの大人が、子どもみたいにはしゃいでいる。一緒に手拍子でもして応援したくなる純粋さがあった。

「それでこっそり、少年野球チームの練習を見に行ったんだ。僕の嫌いなクラスメイトもたくさんいたから、バレないように遠くからみてた。そしたら僕の方へボールが転がってきた。僕よりもずっと小さい、たぶん二年生ぐらいの子が追いかけてやってくる。僕はちょっと驚かせてやろうと思って、松坂のフォームをマネして投げた。僕の剛速球がその子に向かっていく」

「けっこう可愛らしい小学生時代じゃないですか」

ゴマ君は静かに首を振り、小さく笑った。

「ところが、現実はそううまくいかなかった。剛速球のつもりで投げたボールは、僕の目の前に叩きつけられてどこかに跳ねていったよ。僕はその行方も見ずに逃げた。とにかく恥ずかしくて、誰かに見られていたらと思うと気が気じゃなくて。ああ、自分は松坂どころか、あのバカなクラスの連中や、僕より小さい子よりもずっとダメなんだって知った」

かっこ悪いでしょ? 私に目配せして同意を求める。私は首を振った。小学生のゴマ君がそこにいて、応援している気になっていた。

「それからは誰にも野球が好きなことは言わなかった。テレビもおちおち見られないから、データが僕の頼りだ。毎日こっそり新聞のスポーツ欄を見てさ。選手名鑑なんて宝の山だよ。成績があれば、十分その選手が活躍する姿が想像できる」

月人は腕を組んだまま、時折微笑んで聞いていた。ゴマ君の欲した野球の才能を、月人は持て余して野球が嫌いだとまで言う。なんだか、時が過ぎていくことと同じぐらいどうしようもないことってある。

「だから、目的だっけ。今から考えてみれば、親に限ったことじゃなかったんだな。僕は誰にもバレたくなかったってことだ」

ただね、とゴマ君は含み笑いを浮かべて手を叩く。

「そうだった。この話には続きがあるんだ。僕が、松坂という神を失った後のこと」

「神を失ったんですか?」

「そう。松坂大輔は僕が大学生になった年に、メジャーリーグに行ったんだ。それで、崇めるのをやめにした」

月人が私に視線を向けてくる。どういうことだろう、と疑問を乗せて。私に分かるはずもなく、同じように小首を傾げる。

「遠すぎてさ。距離じゃないよ? スケールというかな、現実感がなさすぎたんだ。家の神棚にいたぐらいの存在が、とうとうお月様か火星にでも行っちゃった、みたいな」

「それは遠い」

相づちを打つ月人は楽しそうだ。

「まあ本当は理由を探してたんだな。頭では分かってたんだよ。確かに松坂はすごいけど、自分は何してんだって。多分、神離れをする理由が欲しかったんだ。メジャーに行くことだしそろそろ終わりにしようぜって自分に言い聞かせた」

神離れ。誰かを崇拝するという経験がなかった私は、その感覚を想像しようと自分に当てはめてみる。不本意なことに、久しぶりに結菜ちゃんの顔が浮かんだ。結菜ちゃんは崇拝の対象というわけではなかったはずだけど、付け入るスキのない一方的なお別れという点では似ているかもしれない。

「それから十年後だ。第二の神に出会った。つまり、僕にとって十年に一人の逸材だ」

ゴマ君の視線に気づき、月人は疑いのこもった目で自分を指した。名探偵に的外れな指名を受けた時のような顔。

「僕は大学を出て会社に勤めたんだけど、すぐに辞めてさ。それがきっかけで親との関係も最悪になって。プロ野球の試合をスタンドで見ることができなくなったんだ。球場に行ったら知り合いにあったり、テレビに映って親に見られるかもしれないでしょ? 考えすぎだって頭じゃ分かってるんだけど」

分かる気がした。未知の場所にはミューズがいるような気がして、極力避けていた時期がある。見知った場所ならミューズと合わなくて済むと、根拠もなく信じていた。理屈と気持ちは違う。

「それで出会ったのが社会人やクラブチームのアマチュア野球だ。生で野球を見れて、お客さんはプロ野球と比べるとずっと少ない。プロ野球はテレビで見て、生で試合を見るのはアマチュア野球っていう風に使い分けるようになった」

「そんなきっかけがあったんですか」

「考えてみれば、親や職場の人間やら嫌いな人を避け続けたおかげで、僕は月人という選手に出会えた。こういうのなんて言うんだろう。好きこそものの上手なれ? 嫌い嫌いも好きのうち?」

「どれでもなさそうですね」

涼しく月人が笑う。

「とにかくさ、月人はカッコよかったんだよ。特に生き様かな。球歴なんて関係なく、実力で誰よりも目立っていたんだ。松坂が年齢なんて関係ないことを証明した姿とそっくりだって思った」

ずいぶん身近になった神様はそっけなく肩をすくめた。人違いですよ、としらばっくれるような顔。

「これは全て、最近になって思い出したことだ。月人くんに酷いことを言って、自分が恥ずかしくなって。ずっと考えてたんだ。なんで僕は持田月人という選手を応援しているんだろうって。何日も考えてようやく分かった。いつの間にか、僕は月人を応援しているんじゃなくて自分の夢や不満を肩代わりしてもらおうとしてたんじゃないかって」

時々ゴマ君が言葉を止めると、軽快に弾くようなピアノの音楽が聞こえる。ゴマ君には続けるよう励まし、私たちには耳を傾けるだけでいいと認めてくれているように優しい。

「考えがまとまって、でも今さらどの面下げて月人くんを尋ねたらいいか分からなくて。そんな矢先に、あやちゃんが一緒になずなに行こうって誘ってくれたんだ」

ゴマ君の指名に覚えがなくて、何かの思い違いかと思った。そうだったんですか、と月人が私に目をやって今日のこの場を指しているのだとようやく理解できた。

「ありがとう、あやちゃん」

「僕からもお礼を言います。ありがとう」

私は首を振った。私が頭を下げると二人も一緒になって下げて、妙によそよそしい光景だ。

二人は最近のアマチュアリーグへの嘆きで盛り上がり、ところどころ野球を知らない私に解説をしてくれた。そんな他愛のない時間が過ぎて、いつかの私にとってのチョコレートのように、月人が救いを見つけた顔になっていく。束の間の逃避でもいいと思える時間。でもきっと、私たちは三人とも気づいていた。逃避のあとには、答えを出すべき現実が待っている。

「月人くんが野球をする目的ってなに?」

現実について、立ち向かうための一歩を差し出したのはゴマ君だった。

「僕には、月人くんが野球に縛られているように見えるよ。家族を巻き込むのが嫌だって悩むのなら、今回の話だって断ればいいよね。月人くんの言葉を借りるなら、僕には月人くんの目的が分からない」

ファンとしては嬉しいけど、友人としては理解できないよ。と、最後は独り言のように漏らした。

月人は最後まで目的とやらを話さなかった。

家に着いたところで、月人からメッセージが届いた。

「二人で会いたいんだ」

私は了承した。本心では、メッセージを見た瞬間にブロックをかけたいと思ったぐらいだけど。自分でもその真意はうまく掴めない。ただ怒りに任せて指を動かしていた。源の分からない苛立ちとともに、今度は逃げないとだけ誓った。

 

 

十八

一旦家を出てから、数歩でトンボ返りをすることになった。カレンダーが九月に入ったことで、揚々と長袖のブラウスを着て出たのが大きな間違いだ。残暑というよりも新しくピークを迎えたような、まっすぐな日差し。半袖のシャツに着替え直して、数年ぶりの帽子でも合わせようかと鏡の前に立つ。結局帽子は置いていくことにして、陽炎に溶かされそうなアスファルトを睨んだ。

テレビで見た、高校野球の映像が思い浮かぶ。永島さんから月人と高校野球のスター選手との対戦案があって以来、自然と目が向くようになっていた。来る日も来る日も暑そうで、球児たちの白いユニフォームと同じ色のアイスを食べている自分が贅沢者に思えた。でもきっとテレビの向こうの彼らは、アイスなんかより泥にまみれていく白と焦げそうな黒い肌が勲章なんだろう。

高校球児にとっての天啓のような空の下、月人は球児に立ち向かう。きっと逆境だらけだっただろう、月人の生き様を象徴しているような気がした。

今日、私には私の戦いがある。

苛立ちを抑え、月人と会ったあの日。

相も変わらず、月人は私にだけ重要なことを漏らしていった。どうして欲しいというわけでもなく、ただ隠していた秘密を吐露した。

いつからか、私は心の中のどこかで月人を責めずにいられないでいる。あなたのせいでミューズが苦しんでいるんじゃないか。あなたが正直に気持ちを伝えるべきなのは、私ではなくミューズなんじゃないか。あなたがミューズとぶつかり合っていれば、私は中学であんな目に合わずに済んだんじゃないか。

本当は全部、分かっている。私はミューズを責めることができず、かといって昇華もできていない感情を月人に転嫁しているだけ。

うんざりなんだ。この兄妹に巻き込まれて、私一人で悶々とする日々は。

月人が主張を貫き通して出場を決めた、始球式の今日。

身支度をする間も、気づけば眉間にしわがより奥歯を噛みしめた。私は怒っている。何に、と言われれば内緒話ばかりの月人でもなく、意固地で感情的になりやすいミューズでもなく、「あんたそういうところあるよね」と私を見て呆れる姉でもない。

姉の台詞はつい先ほど、鼻息荒く身支度をしている時にかけらられたばかりの新鮮な言葉だ。

そういうところってどういうところ、と尋ねると彼女は答えた。変なスイッチが入ると止まらないところ、と。私は言い返せないまま、弾かれるように家を出た。ツカツカとカナで書けそうな足音で駅に向かう。家の前の薬局の角を折れ、大きな通りに出たところでようやく姉に仕向けるべき反論文がまとまる。

『お姉ちゃんに私の何が分かるの』

できあがってみれば、文というのも大げさな、ありきたりな一言。私は、たとえ相手が姉であっても言葉を十分に扱えていない。だから魔法のように言葉を使う彼女はいつも正しいように見えるけど、私にだって言い分ぐらいある。

改札を抜けてホームに立つと、野球チームのユニフォームを着た人を見かけた。今まで素通りしてきた景色だけど、今日は嫌でも目に留まる。球場へ向かうだろうおじさんは、持田月人という選手も見ることになるだろう。どんな風に映るのか、想像すると落ち着かない。

電車に乗り込むと、まずユニフォームの白が目に飛び込んでくる。その視線が全て月人に向けられるところを想像して、気が遠くなりそうになる。弱ったところに重なる姉の声。

「あんたそういうところあるよね」

うるさい、うるさい。変なスイッチは、私の意思で押しているんだ。くじけそうな自分を奮い立たせるために。私は、自分自身に怒っている。だって今日戦わなければ私の願いは叶わない。止まるな、進め人形ヤロウ。

球場に向かう人たちを見送り、私はいつもの駅で降りた。なずなへの足取りが重い。いなかったらどうしよう。知っているくせに意味のない仮定をする。いないはずはない。どこかで、いなければいいと思っている自分を叱り飛ばす。甘えるな根暗。

すっかり見慣れたドアを開け、出迎えたミューズと目が合った。ミューズは当たり前のようにテレビ前の特等席を指さした。

「来ると思ってたよ。あそこ、ゴマ君も約束通り来てる」

私が一緒にテレビを見に来たと思い込んでいるらしく、ミューズはそのまま去ろうとした。店内に入らず、入り口で止まっている私を不思議そうに見た。

「どうしたの? 座ったら?」

ミューズの反対を押し切ってまで月人が選んだ晴れ舞台の日に、彼女はここにいる。それが、ミューズの答えだと月人から聞いた。どうしても出るなら勝手にすればいい、私はもう関係ない。それが彼女の導きだした結論。私はまた怒りに燃える。ミューズは、この女は、何度私の前に立ちはだかればいいのか。私にとって、なずなは守りたい数少ない場所になったのだ。またそれをこの女の手で壊されるなんて。許してはいけない。

喋れなくたって、これが私の言葉だ。

私は思いをありったけこめて、手をかざした。何事かとミューズが身構える。

右腕を掴まれたミューズが、呆けたようにこちらを見ている。何か言われるより早く、私はその腕を引っ張った。

「ちょっと、なにすんの」

ようやくミューズが慌てた声を上げる。私は無視して引っ張った。だんだんミューズの抵抗と声に力がこもる。

「やめてったら、何考えてんの?」

困惑するミューズの姿に、奇妙な感情が湧いた。私は、楽しんでいる。きっといざミューズに抵抗されたら怯んでしまうだろうと、必死に怒っていると自分に言い聞かせて今日ここまで来た。だけど、その必要はなさそうだ。あのミューズにやり返していることに、爽快さを感じていた。ミューズが困惑と怒りでめまぐるしく顔色を変える様子が、可笑しい。

「ねえ、頭おかしくなったの?」

言いながら、ミューズはだんだん店の外に引きずり出されている。私の方が細いし背も小さいのに、負ける気がしない。

私は理解する。これで帳消しなんだ。ミューズが中学生時代に私にしてきた仕打ちは、今日のこの所業で帳消し。降って湧いた話にしては妥当じゃないだろうか。むしろ、私はきっと優しいぐらいだ。相場は知らないけど。

「私は仕事中なんだけど?」

この台詞で私が引き下がると思ったのだろう。同意を求めるようにミューズは店内を振り返った。私に向き直った顔は、明らかに混乱していた。その拍子にまた前へ進み、ミューズの後ろ手がドアから離れた。

「どういうことなの」

期待した増援が得られず、信じられないものを見る目で私に無駄な抵抗をしていた。仕事中の娘を無断で連れ出すほど、私は無礼じゃない。月人を通して、お父さんとお母さんに話は通してある。

もう、ドアを離れてしまえばミューズは大して抵抗しなかった。ぐんぐん進み、時々聞こえるミューズの抗議は一応している、といったぐらい。

「ちょっと戸村、ふざけないでよ」

「ねーえ、聞こえてるの?」

「なんなのよもう」

だんだん静かになるミューズの後ろから、駆け寄ってくる誰かの気配がする。そうそう、三人で一緒に行かないと。

「待ってよ、僕も行くよ」

慌てて店を出ただろうゴマ君が追いついてくる。二人三脚のようなスピードの私たちを、うっかり追い抜かしかけて止まった。

「月人くんを見に行くんでしょ?」

ゴマ君の口ぶりはいくらか弾んでいた。ミューズが行かないならと、なずなに居残る選択をしたゴマ君。試合開始前のイベントなんてテレビじゃ見られないと、当然知っていたはずなのに。

掴んだままの、ミューズの腕が強張るのを感じた。振り払われる、と掴む手に力を入れかけたけど、ミューズは強張らせたまま動きはしなかった。

「なんで私まで行かないといけないのよ」

「ねえ、あやちゃん。試合のチケットは持ってるの?」

私は首を傾げた。チケットは球場で買うんじゃないんだろうか。私の考えを見透かし、ゴマ君が答える。

「ダメだよ、日曜日のデーゲームは当日券じゃ入れない。僕が三人分なんとかするから、二人は先に行ってて」

ゴマ君はスマホを取り出し、手を振って私たちに急ぐよう煽った。有無を言わさぬ勢いで、私たちは駅を向かうよう指示を受けた。

「入り口で混むと厄介だから。まっすぐ球場に向かった方がいい」

スマホから顔を上げ、離れていく私たちに最後にそう呼びかけた。私は先を急ぎながら、地団駄を踏みたくなる。迂闊だった。チケットが無ければ話にならない。

「ねえ、本気で私を連れていく気なの」

ヒステリックに怒ってくれた方が、私の決意は揺らがなかっただろう。弱く出られると、つい許してしまいそうになる。それでも私は手を離さなかった。月人と最後に会ったときのことを思い出していた。月人に呼び出されて、久しぶりにタコス料理の店で会った時のこと。

「なんでよ。これって私たち家族の問題でしょ?」

ミューズが急に声色を落とし、私の目を見た。嫌というほど、答えろというメッセージを発している。

それでも私は手を離さなかった。怯んでいる時間はない。ミューズは何も言わなかった。ため息を漏らし、渋々ながら私の後を付いて来た。ミューズがもう抵抗をしていなくても、腕は掴んだままにしておいた。今日だけは、とことん私の思い通りにさせてもらうつもり。それで私たちの過去は清算される。

私だって、他人の家庭の問題に土足で踏みこんでしまっていると承知はしている。でも私の権利だってあるはずだ。なずなの客として、平和なお店を求める権利。それと、月人に押し付けられた役割を果たす権利。

月人から聞かされたのは、月人が初めて付き合った彼氏との顛末だった。ミューズが目の敵にしていた、私と同じ緘黙の男の子。私としては、この期に及んで昔話を始める月人が憎たらしかった。ゴマ君からまっすぐな憧れを受けてもなお彼に大事なことは話さず、こそこそ私を呼んで話を聞いてもらおうなど。だけど、その時ようやく分かった。月人が私にだけ打ち明け話をする理由が。

電車に乗り込み、四人掛けの席にミューズと向かい合って座ったところで掴んでいた手を離した。

「全くさ、犯罪者じゃないっての」

ミューズはとげを含んだ言い方をしたけど、本気で怒っているわけではなさそうだった。私は小さく頭を下げて、お詫びのつもり。

月人と元彼とやらは十五歳から四年間、大学に入って少し経つほどまで付き合っていたそうだ。その間、誰にもバレることはなかったと月人は言い切った。実際には一番身近なミューズに見られてしまっているわけだけど。私は白けた気持ちで聞きながら、ぼんやり隠れキリシタンの生活を連想していた。

「あいつは、死のうとしたんだ」

突然出た物騒な言葉に負けず、元彼とやらとの終わりはショッキングな話だった。自殺未遂。とはいえ切り裂いたのは手のひらだったらしく、やっぱり変わった人だったのかもしれない。

私は自分の手のひらを眺めてみる。どう切り刻んだってこれで死ねるという発想にはたどり着きそうにない。第三者から見れば滑稽な話も、当時の月人が受けた衝撃は文字通り食事が喉を通らないほどだったそうだ。

「手、どうかしたの」

ミューズが心配そうにのぞき込んでくる。今の私は敵と言ってもいい存在なのに、面倒見の良さが上回っている。私はゆっくり首を振って大丈夫、と表す。

「言っておくけど私、月人を見に行くことに納得したわけじゃないから」

ミューズの言葉に、私は落ち着かない瞬きを繰り返す。

「どうせ今からチケットなんか手に入らないよ。それで二人とも、諦めがつくでしょ?」

私は首を振った。負けたくない、頭の中はただそれだけだ。窓の外に目をやると、河川敷でキャッチボールをしている親子がいた。願わくば、あの子どもにとって野球が楽しいものでありますように。

元彼は命を取り留めたものの、直面した問題が二つあった。一つは、元彼に引きづられるようにして月人自身が心を病んだにも関わらず、打ち明けられる相手がだれ一人としていなかったことだ。十九歳にとって、同性愛を打ち明けその恋愛の悩みを相談するなど、途方もない勇気を振り絞るか、人生を捨てるぐらいのヤケになるぐらいの気力が必要だった。そして十九歳にとって、恋愛の悩みを誰にも相談できないことのストレスは耐え難い苦痛だったそうだ。

もう一つの問題は、相手が自殺未遂に及んだ理由だ。これが十九歳から今日に至るまでの数年間、あるいはこれからもずっと、月人を呪縛して離さない根っことなる。彼は、子どもを作ることができない事実を呪っていた。十九歳なんて、都合の悪い現実はさて置いて、即席麺みたいにお手軽な娯楽で茶を濁しておけばいいのに。彼はずいぶん先回りをして人生に絶望し、子どもを残せないなら生きる価値なんてないと結論づけたそうだ。

私は面食らって話を聞いていた。自分は生涯子どもを作ることはないだろうし、わざわざ死ぬつもりもないから、ちゃっかり死ぬまで一人で生きていくものだと思っていた。どちらかと言えば、緘黙症で人とろくに話せない自分こそ、生きる価値がないと思ったことはある。

今の私より三つ下の緘黙症の彼が積極的に死を選びにいった理由が、子どもを作れないからというのは、なんて前衛的でませた考えなんだろう。当時の月人は、私とは違いもっと単純な衝撃を受けた。自分の恋人が死のうとしたのだから当然だろう。

「後から思えば、本気で死ぬつもりはなかったんだろうね」

と月人は苦笑した。切ったのが手のひらという辺り、本当は当時でも分かったんじゃないだろうか。それでも彼が起こした抗議行動、やり場のない怒り、自分自身への不信感のようなものに、月人は飲み込まれたんじゃないかと思う。自分たちにはどうしようもできない理不尽な大波を前に、一緒にただ飲まれた。

これは月人の言葉の端々から私が勝手に想像したことで、確かめようはない。多分、月人自身も当時の自分の真意は掴めていないのではないだろうか。

私の隣でミューズは、そっぽを向くように通路側を眺めている。チケットさえ手に入れば、ミューズは球場に入ってくれるだろうか。

月人の考えを説明する術のない私が、こんな強硬手段をとるなんておこがましいことだと思う。月人に面と向かって頼まれたわけでもない。犯人が動機を自白するような明快な説明を受けたわけでもない。

それでも私は、正しいと信じている。

誰よりも人が考えていることを拾っているという、月人がいつか話した称号を信じるしかない。私なりに、あるのかも分からないアンテナとやらを使って考え抜いた結果だ。ミューズも、ゴマ君も、お父さんもお母さんも、月人も。全部の想いを受けて私は選択をし た。

私はまた、窓の外に視線を移した。家ばかりが続いて、人がいない街並って冗長だと知る。

大波に飲まれることにした月人は、彼と縁を切った。駆け引きなのか本気なのか分からない彼の主張をすべて受け、別れ、別れたあとも律儀に彼の提起した問題に悩んだ。子どもを残せない自分は、生きる価値がないのかと。

「でも大学時代は意外と楽しかったよ。僕にとっては男も女の子も等しく友達だから。周りの恋愛の悩みが全部他人事で、なんだかみんな僕に相談してくれて。何か助言ができるわけじゃないけど、仲良い相手がたくさんできたのは悪くなかった」

と、何事もなかったように語っていたけど、つまるところ月人は男性も女性もパートナーを作らないことにしたらしい。

考え事にふけっていても、耳はきちんと車内アナウンスをとらえた。調べておいた、球場の最寄り駅が繰り返し告げられる。私が顔を上げると、残念と言いたげにミューズがため息をつく。いつの間にか、電車内はユニフォームやグッズを手に持った客が大半を占めていた。一見通りすがりに見えた母子ですら、子どものリュックからメガホンがはみ出している。おかげで球場への道のりに迷うことはない。もはや、人の流れと逆行することが異端に思えるほど決まった方向へ進む。

私は電車に乗る前と同じように、ミューズの腕を掴んでいた。私がはぐれたくなくてそうしていた。いつの間にかミューズが私の前を進んでいて、名実ともにミューズが先導役になっている。

まだ駅の構内にいる時点で、球場が目と鼻の先だということは分かった。道が赤いチームカラーで舗装され、どこからか応援歌も聞こえてくる。一歩一歩進むたび、周りの子どもたちは意気が上がり、若い男性の仲間内では勝ちを期待する声が大きくなる。今日はさすがに勝つでしょ、いやどうせ逆転負けだよ。負けを宣言する声まで楽しそうなのだから不思議だ。私はミューズの腕ではなく袖に手を持ち替え、握りしめた。いつ以来だか分からない人口密度が不安を煽った。この高揚と注目を月人が浴びるのかと思うと、眩暈がしてしゃがみこみたくなる。

いつの間にか地下通路を歩いていたようで、駅の出口は地上へ向かう階段だった。先を行くミューズの首元を抜けて暖かい日が差してくる。眩しいと思う間もなく、お祭りの世界に出迎えられた。両脇を食べ物や応援グッズを売る出店が続き、まっすぐ視線を伸ばせば球場の外壁と、隙間から覗く客席が見えた。

「ちょっと、あの人何やってんの」

ミューズが訝しげに目を細める先に、人混みの中でそこだけ雰囲気の違う一団があった。パレードの中に物乞いが紛れているような。そばを通る人が、みなその一団の一人に目をやり、一歩離れてから通り過ぎていく。

ミューズが駆け出した。袖を掴んでいたおかげで私も出遅れずに後に続けた。

一団といっても、近づいてみれば四人だけだった。去ろうとする女性三人に、何やら縋り付いている男が一人。聞こえてくるゴマ君の声は、知らない人が聞けばそれは関わりたくないと思っただろう。それぐらい、なりふり構わず必死なようだった。

「頼むから、君たちしかもう頼れる人はいないんだよ」

相手の女の子たちは若くて、私やミューズと同い年ぐらいに見えた。無視して進む姿は完全に不審者への接し方で、日曜日の団欒から完全に浮いている。

「なあ、ちょっと待ってくれよ」

「ゴマ君、やめなよ」

ミューズに声をかけられ、ゴマ君はようやくこちらに気づいたらしい。その隙に三人が加速し、ゴマ君が慌てて一人の肩に手をかける。

「ちょっと、いい加減にしてよ」

手をかけられた女の子が振り向き、残りの二人がミューズを見て何かささやき合っている。

「ねえ、この人の連れ?」

すぐに一人がミューズに向かって声をかけてきた。

「連れっていえば連れかも」

「連れの人、ヤバイよ。何回断ってもチケットくれってしつこいの。やるわけないじゃん」

「くれって言ってないだろ。倍の値段を出すって言ってるじゃないか」

ゴマ君が割り込んで異を唱える。ミューズは女の子に答えずまっすぐゴマ君に向かっていった。

「行くよ」

暗い声。ゴマ君は食い下がろうと一言二言口を開いたけど、ミューズは続けることを許さなかった。もう一度「行くよ」と呟いて返事を待たず背を向ける。女の子たちはすぐさま球場の方へと去っていった。

「あれ、この前練習を見に行ったときに月人の応援をしてた子たちでしょ」

ミューズの言葉でようやく気付いた。月人が登場すると、ミーハーな声を上げていた三人組。距離があったから印象ははっきりしないけど、確かに似ていた気がする。

「マナーがなってないファンって馬鹿にしてたじゃん。今のゴマ君の方がマナーなんて言えた口じゃないよ」

「他にもう手が無いんだよ」

首を振るゴマ君は、おもちゃを取り上られた子どもみたいな顔をしていた。

「ネットの売買情報も調べたし、知り合いのチケット屋もあたったけどダメだった。あとはSNSを辿ってあの子たちを頼るぐらいしか方法がなかった」

言いながら、ゴマ君はもう三人を追って駆け出すところだ。

「しっかりしてよ。どう見たって無理だよ。プライドないわけ?」

ふらふらと足取りは三人を追いつつ、ゴマ君は振り返った。

「ある」

ミューズは表情を変えず、腕を組んで立っている。

「あやちゃんがここまでしてるんだよ。僕は物分かりがいいような顔だけしてミューズちゃんに何も言わなかったけど、あやちゃんは諦めなかった。引きずってでもミューズちゃんに月人くんの姿を見てもらいたいんでしょ。すごいよ。そんなすごい姿を見たら、何をしてでも実現しなきゃって思うのが僕のプライドだよ。約束通り、チケットは僕が何とかする」

ミューズが一瞬こちらを見た。お前が余計なことをするから、と睨まれるかと思ったけどそうじゃなかった。一度見ただけでまたゴマ君を見据えている。

「何とかするって、あてはないんでしょ」

「だからもう一度、あのトラトラトラトリオに頼んでくる」

不思議だけど、このときのミューズのため息は笑っているようにも思えた。怒り散らしていたお年寄りの口から、飛び出た入れ歯を見て耐える感じ。

「はいはい、もう降参しました。私の負けですよ」

ミューズが脇に抱えていたエプロンを広げ、ポケットの辺りを手で探り始めた。何事かと私とゴマ君は顔を見合わせる。ポケットから出てきた手に、私たちの視線はすっかり奪われた。高々と掲げられた手には、お札ぐらいの大きさの紙が三枚広げて握られている。

「私は出場者の家族だよ? そりゃチケットぐらいもらう権利があるでしょ」

自分の頬にチケットを当て、憎らしいぐらい明るく笑って見せた。

「はあ?」

ようやくゴマ君から、素っ頓狂な声が上がる。我が目を疑うとはこのことなんだろうけど、ゴマ君が疑っているのはチケットと笑顔のミューズのどちらだろう。私は理解が追いついていないけど、ミューズはそれなりに罪深い気がする。

「あの残念な広報さんが、家族三人分のチケットを事前にくれました。お節介と思ったけど、今となっちゃギリ結果オーライかな」

ミューズが得意げに話すたび、チケットがはためく。

「なんっで最初に言わないの」

ゴマ君が声を裏返らせる。そりゃそうだ。

「私は行くつもりなかったもん」

「じゃあなんで仕事中もポケットに入れてるの」

「それはまあ、なんでだっけかな。いつかポケットに入れて忘れたんでしょ」

からかうように笑みを浮かべ、球場に向けて走り出した。

「せっかく来た以上は、楽しもうよ」

こちらを振り返るミューズを、我に返ったゴマ君が追う。慌てたものだから、大柄な男の人にぶつかって頭を下げながらミューズを追った。遅れて駆け出す私に、前を行くミューズが振り返って止まる。

「そうそう戸村」

私を見て、何やら含み笑い。

「戸村がムリに連れて来てくれたおかげで、私財布がないの。今日のご飯代やジュース代、戸村のおごりね」

私は思わず目を見開く。それは困るとか、あなたが過去にした仕打ちも含めて五分五分じゃない? とか。いろいろな気持ちで。

「冗談だよ。でも、お金貸して」

財布にいくら入っているか思い浮かべながら、ひとまず頷く。そして実感する。三人で月人の晴れ舞台を見るところまで、こぎつけられたのだ。私の役目はここで終わりのはず。あとは、月人を見守るだけ。なんといっても、私とゴマ君のチケットは本当はお父さんとお母さんのチケットなのだ。二人だって、見たいに決まってる。本当はお店を休んででも来たかったのかもしれないけど、ミューズを差し置いて来るわけにもいかなかっただろう。ともかく、そのチケットを引き受けた以上、できるのは月人の姿を目に焼き付けることだ。焼き付けて、どれだけ立派だったかを二人に話す。それを想像するだけで、苦労した甲斐があった気がした。

頑張れ月人。私にそっくりな、大切なときに言葉を使えない人。あなたの思いの半分は私が届けたよ。

 

 

十九

慣れた様子の二人に導かれ、初めて野球場というものに足を踏み入れた。私一人だったら、自分の席がどこか探し当てるだけで諦めていたかもしれない。席と席の間の通路を歩く。人がすれ違うたびに気をとられ、座席の番号を確かめるどころじゃなかった。正面から来る人に道を開けたら、座席側から通路に出ようとする小学生を塞いでしまったり。二人はどんな方法を使っているのか、労する気配もなくおよその場所を見つけ突き進んでいった。

席に着くなり、ミューズは自分が座る代わりにエプロンを敷いた。

「なんか食べよう。飲み物は何にする?」

結局、お金はゴマ君が出してくれることになった。私は何度も首を振ったけど、ゴマ君いわくそれが社会人としての嗜みとかなんとか。女の子たち二人にお金を出させたなんて知れたら、お母さんに叩き出される。という台詞がダメ押しになって厚意に甘えることにした。

飲み物以外はその場の美味しそうなものに任せることに決まって、ミューズは意気揚々と売店を目がけていった。せっかく来た以上は楽しもう、という言葉にウソは無いらしい。

「あれで気を遣ってるんだよ、ミューズちゃんは」

私はゴマ君の顔を見る。

「自分は行かないって言い張っておいて、僕には試合を見に行けばいいのにってしつこかったからね」

私に気を遣って行かないのおかしいじゃん。とミューズの口調を真似る。全然似ていない。

「何回も言ってたなあ。罪悪感があったんだろうね」

私たち三人が身を寄せる席の前、荷物で狭くなった足場を老夫婦がまたいでいく。私は膝を抱えながら、お母さんの『よっこいせ』という掛け声が恋しくなる。

「それにしても、すごかったねあやちゃん」

急に名前を呼ばれることに弱い。つい、目を開いて大げさな表情になっている気がする。いつか指摘されるんじゃないかと微かに怖れている。

「なんとかしてミューズちゃんを連れて来たかったんだなって。勝手にか弱い女の子、みたいに思っていた自分が恥ずかしいよ」

私はゴマ君の手を握ってやりたくなる。もちろん、話を止めたいからだ。さすがにミューズにするのとでは訳が違うと分かっているので、実行はしないけど。自分のことを面と向かって評されるのは御免だし、褒められるのはもっと御免だ。大体、あれは全く褒められた行為じゃない。

「あの頑固なミューズちゃんを根負けさせたんだ、大したもんだよ、ほんと」

話題を変えたくて意味ありげに周りを見た。ゴマ君は気づく様子はなかったけど、幸い言葉を終えたところのようで私の話題は無事終わった。

周りを見渡すと、席の七割ぐらいが埋まってきたかというところ。ゴマ君いわく、試合が始まってから来る人も多いぐらいで、私たちのように試合開始前のイベントから見てやろうと構えているのは案外少数派なんだそうだ。

地響きだと思ったそれが、振動ではなく音なのだと気づく。ゴマ君につられて振り向くと、球場中の注目をさらった音の正体を見つけた。私たちの背後、オーロラビジョンから開催宣言のような高らかな音楽が流れ始めた。背後といってもかなり見上げる必要があって、でも体ごと向き直れるほどの広さはなくて。ずっと続けていたら首が痛くなりそうな姿勢になる。画面には試合のダイジェストらしきものが、テンポを上げていく音楽に合わせて目まぐるしく入れ替わっていた。

「出場者の家族として招待してもらってるんだから、てっきりバックネット裏か内野だと思ってたよ」

「そういうもんなの? 外野席って楽しくて好きだけど」

何やら嘆くゴマ君に答えたのは、ちょうど調達を終えたところのミューズだった。後ろのオーロラビジョンを見上げながら、ゴマ君の隣に座った。私の頬に冷えたオレンジジュースを当てて、手渡してくれる。持田家の人は、熱いものや冷たいものを持つと人の肌に当てたがる性分なのかもしれない。礼を言うゴマ君に合わせて頭を下げる。

いつの間にかオーロラビジョンの映像はひと段落し、アナウンスの明瞭な声が響いていた。自然と目も耳も、そちらに意識を奪われる。

「本日のスターティングメンバーを紹介します」

今日出場する選手たちの名前が読み上げられていくらしい。選手たちの顔写真が一人ずつ映し出されていく。そのたびに私たちより十列ほど下段の客席から、ラッパや太鼓で応援歌が演奏される。球場の紹介に対するアンサーソングのようで、客席にも球場スタッフが紛れて指揮をとっているのかと思った。こんなお祭り騒ぎが私の知らないところで毎日のように開催されていたというのは、それなりに衝撃的だ。異国の地の路上で突如始まった、民族舞踊に出くわした感覚に近いかもしれない。

「試合開始前に、本日は二名のスペシャルゲストにお越しいただいております。まずは今年の春の甲子園で、見事全国制覇を果たした江南高校のエースピッチャー田町くんです」

予想していたよりもずっと、唐突にイベントが始まった。隣の二人の反応を気にする余地もないほど、球場全体の客席が色めき立つ。知っていて待っていたらしい親子連れも、知らずに驚いた顔のおじさんも、表情は多種多様であっても期待という感情は一致していた。私にとってはローカルニュースで話題になっていたな、程度の認識でも、世間ではすっかりおらが町の誇りらしい。

すごい人気だねー、とゴマ君から出た呑気な声は強がりにも聞こえた。心の中では月人との差に怯えていても、口に出してはいけない。月人ならきっと大丈夫。根拠のない願いは、嫌な予感とも言い換えられた。

声援を一身に浴び、おらが町のヒーローは小走りで進み出た。スタジアムの真ん中、芝生の真緑の上で白いユニフォーム姿がなおさら目立った。帽子に触れ軽く頭を下げた彼に、球場中から拍手と歓声が飛び交う。すり鉢状の客席から、その一番底にいる彼に向かって何万という視線と期待が降り注ぐ。もうすぐあそこに月人が立つ。先ほどから離れない嫌な予感と相まって、私は軽い眩暈を催していた。

「今回はドリームマッチという企画ですので、田町くんには真剣勝負を見せて頂きたいと思います。それでは、もう一名のスペシャルゲスト、対戦相手となるバッターをご紹介します」

誰? もしかして現役選手? そんなわけないって、OBでしょきっと。えーOBでもすごいね、楽しみ。

私たちの背後から若いカップルの話声が聞こえる。かと思えば、四方で声が打ち消し合いながら、隙間を突いて単語が耳に入る。芸能人とか? 市長は勘弁。面白そう。

「危うく、この流れで同性愛者代表の持田選手です、って紹介されるところだったってわけ? あの広報、ふざけんな」

ミューズが吐き捨てる。最大限深く頷き、同意を示した。世間知らずな私は今になって合点がいったけど、ミューズにはこの光景は想像通りだったのだろう。広報さんの意図はともかく、これでは月人の存在は見世物か、良くて噛ませ犬だ。

「バッターはこの方です。地元アマチュアチーム期待のホープ、ミライスポーツの持田月人選手」

球場に短い静寂が訪れる。あっという間に疑問へと変わっていった。誰? 知らない。ショボくない? 芸能人呼べよ。

先ほどの高校生の彼と同じように、月人も颯爽とバッターボックスへ駆ける。所作に違いがあるわけでもないのに、月人の姿を見ても拍手や声援が起きることはなかった。むしろ、時間を追うごとに批判的な声が増す。

本当に誰だよ。要は一般人じゃん。

特に、私の斜め後ろあたりからの雑音は聞くに堪えなかった。酒の入った中年男性が、これ見よがしに大声を張っている。

「誰も知らないヤツを出すなー。金返せよー」

反射的と言っていいだろう、ゴマ君が即座に振り返る。ミューズが今にも立ち上がりそうなゴマ君の方を掴み、なんとか食い止めた。

「せーの」

中年がいる段の反対側あたりから、何やら呼吸を合わせる声が重なった。大きな吸気を感じた次には

「月人さーん」

あの三人組の女の子たちだった。声量で負けないよう、最初の一声を合わせたのだろうけど、我慢できなくなったのか以降は三者三様の声援を飛ばしていた。

「がんばれえええ」

「打てええ」

「負けないで!」

たった三人の不揃いでか細い声援は、量で勝る批判的な声を確実に塗りつぶした。

なに、意外とファンがいるんだ。若いねえ。スター候補生だったりして。

眉間に皺を寄せていた人たちが、あやふやな苦笑いに変わっていく。見たか、と自分が何をしたわけでもないのに舌を出してやりたくなった。

「やるじゃん、トラトラトリオ」

ゴマ君が呟き、我に返ったように声を張る。

「月人、打てえええ」

つられて、周りの何人かが、拍手を添えてくれた。

「あれはさすがに、真の野球ファンと認めざるを得ないよ」

肩をすくめた後、気を取り直すように芝生へと目を落とした。中年からのヤジが飛ぶこともなくなっていた。

「なんでこうまでして目立ちたいのかな、あのバカは」

ミューズが毒づく。組んだ腕が、苛立ちや不安を懸命に押さえつけているように見える。

「目立ちたいっていうのは違うんじゃない? 本当に目立ちたいのが目的なら、とっくにプロを目指してる気がするんだけど」

「お金も貰えないこんな試合に、他になんの意味があるのよ」

ゴマ君が遠巻きになだめても、ミューズの声から棘は消えなかった。私たちの視線は自然と月人を追っていて、場内のお客さんは投球練習をする主役を見つめていた。

ここから見える月人は小さく、つい数日前にタコス屋で向かい合っていた相手という実感が湧かない。バットを振る月人の周りには誰もいなくて、見ているこちらが心細い。目を閉じ、私は最後に会ったときの月人の姿を思い出していた。

 

「野球をしている目的はなんだって、ゴマ君から聞かれた時ね。正直に言うと、全部話してもいいかなって思ったんだ」

でも、と続きを口にすることをためらう。もったいつける月人の癖は嫌いだ。それが彼なりの配慮から来るものであっても、同性愛という情緒形成を捻じ曲げそうなややこしい生い立ちが原因であったとしても。何も話さない私に言えた義理はないと分かっていても、嫌いだ。

「話してしまったら、僕は特別じゃなくなってしまう気がして」

 

恐る恐る、まな板の上のモルモットみたいな扱いの月人に目を向けた。将来有望な高校生の練習フォームに合わせ、バットを振っている。高校生がヒーローなのだから、彼は悪役。消去法ってすごい。月人を知らない球場の人たちは、満場一致で納得していた。

「僕が授かって生まれたものは、僕が今やらなきゃ消えてしまうから」

なんの話だっけ、と思ったことを覚えている。話が繋がっているようないないような。はっきり言えよ、と自分を棚に上げた文句を口にも出せずにただ待った。

「僕ができるのは、応援してくれる誰かの特別なヒーローになることだ」

多分、月人の中でも正確な言葉として扱うのは初めてなんだと思った。二十数年脳みその中にあって、でも正体の分からない念の名前。それを探そうと、パズルみたいなバラバラをどうにかたぐり寄せているのだろう。ヒーロー。その生き方を選んだから、彼は誰にも本当の姿を見せなかった。唯一、私なんかを本音を晒す相手として選んだ。

「誰かが僕を必要としてくれて、応援してくれるなら」

月人が小さく息を吸い込む。次に言葉を発するまで、私まで息を止めていた。

「生きる意味がないだなんて、言わせない」

止まっていた秒針が大きな音を立てた気がして、私は球場に目を戻した。ゴマ君のスマホのシャッターが切られた音だった。月人がバットの両端を持ち、大きく伸びをしながら進んでいる。対峙する高校生エースは、自分の練習に集中しているのか二人の視線が合う様子はない。

「お待たせいたしました。田町選手の準備が整ったようです。ここからは二人の真剣勝負を、私も実況しながら見守らせて頂きたいと思います」

「実況付きだって。気合入ってるね」

ゴマ君はミューズに向けて言ったのだろうけど、ミューズは黙ってストローに口を付けていた。買ってきたばかりのジュースの中で、氷の崩れる音がする。

「さあ初球はどんな球種から入るでしょうか」

急に始まって、文字通り固唾をのむ私たちと周りの客では大きな温度差があった。さっきまで高校生スターに色めき立っていた背後のカップルが、ねえこれ見て、とささやき合う。その視線がピッチャーでもバッターでもなく、手元の何かなのが気配で分かる。

「おおっと外れましたボールです。力のこもったストレートが高めに抜けました。これは緊張感もあるでしょう」

誰かが拍手をし、遅れて見逃した人がメガホンを相づちのように叩く。うん、うん、聞いてるよ。聞いてるったら。あの三人組すら見ていなかったらと思うと不安で、振り返れば彼女たちは身を寄せ合って小さくなっていた。気後れしたわけでなく、手を組み合わせ唇を結んで戦況を見守っていた。

「うわ、マジで?」

後ろのカップルの、男の声がした。私は反射的に眉をひそめている自分に気づく。男の声の質感に、覚えがあった。好奇と悪意を秘めた、誰かを蔑む直前の声。

「あいつホモってことかよ。キモ」

私とゴマ君とミューズは、三人同じ場面を思い出しただろう。この試合に出ると言った月人に、ミューズが振り絞った言葉。

『一人でも月人の名前を検索したらもう終わりだよ』

何もこんなに早く訪れなくていいじゃないか。それも、こんなに近くで。お願いだから待って。誰に言えばいいのかも分からない懇願を、頭の中で繰り返す。

「だから言ったんだよ」

ミューズの声は、喉がちぎれるんじゃないかと思うほど感情を抑え込んでいた。

「二球目、これは際どいところですがボールの判定。持田選手もよく見送りました」

一球目よりもまとまった拍手が送られる。劣勢になりつつある高校生を盛り立てる意図が感じられた。拍手の間も、ミューズは険しい目を変えなかった。これ以上、余計なことが起こりませんように、という私たちのささやかな願いは簡単に破られる。

「無名のホモと対戦とか、田町くんがかわいそう」

「あとで襲われたりして」

発生源が分からない声や嘲笑が、スマホ片手に点々と聞こえてくる。混ざる笑い声が全て月人に向けられている気がする。なになに? と、ざわめきに気が付いた人がまたスマホを手に取る。火事が広がり、思い出の品が朽ちていくのを見せつけられる拷問みたいだった。

「ここでストライク! 鋭い一球が内角に決まりました。これはアマチュア界のプリンスでもさすがに手が出ません」

もう、勝負の行方に関心を向けている人はほとんどいないのではないかと思った。高校生スターへの注目すら凌駕し、月人のレッテルで楽しみ始める声が増していく。

「もう、やめちゃダメかな」

ミューズの暗い声がする。目だけは月人から離していないものの、本当に月人を映しているのか分からない。虚ろな口が、もう一度繰り返す。

「やめちゃダメ? これ以上ここにいるの、正直辛いよ。私だけ外で待ってるから」

ゴマ君は何か言おうとして、かけるべき言葉を見つけられない様子のまま頷いた。私は、迷っていた。ここで私ができることを、するべきかどうか。

「四球目、これも入りましたストライク! 持田選手まだ一球もスイングしていません。ボールを慎重に見極めているようです。ですがカウントはツーボールツーストライク。持田選手、追い込まれました」

実況の声に力がこもり、勝負が佳境に入っていることを告げる。こんな遠くのスタンドのざわめきなど、夢にも思っていないだろう。

「じゃあ、終わったら連絡して」

私は立ち上がった。後ろの席の客が、鬱陶しそうに私を見上げている。私は無視して立っていた。ミューズとゴマ君が、何事かと私の動きを窺っている。本当は、まだ迷っている。でももう、後には引けない。月人の思いを伝えられるのは、私しかいない。

「月人は」

口を開いた瞬間、頭の中がめちゃめちゃにひっくり返されたような気がした。何かを思い出せと、私が私自身に警告している。アラートに振り回され胸が狭く苦しくなる。

なぜか浮かんだのは、小学生の頃のクラスメイトの顔だった。一人、二人、三人、次々浮かんでくる顔から六年生の頃のクラスだと分かる。

「すごいね、あやちゃん」

「すげーじゃん戸村」

まるでリレーで一位をとったような扱い。そうだった、だから私は、年齢が近い相手と話すのが怖くなったんだった。

結菜ちゃんが熱で学校を休んだ日、クラスで飼っていたカメの餌の場所が分からないとちょっとした騒ぎになっていた。前日の餌やり当番だった結菜ちゃんが、決まった餌置きの場所に戻し忘れたらしい。私は、これは伝えないといけないことだと思い、深く考えずに口を開いた。

「靴箱にあるよ」

前日、一緒に帰るとき。結菜ちゃんは間違えて餌をランドセルに入れたまま帰ろうとしていたことに気づいた。教室に戻るべきなんだろうけど、次の日の朝に戻せば問題ない、ということで自分の靴箱に入れたまま帰ったのだ。

私が称賛されたのは、発言通り餌が見つかったからではない。人前で話せない病気とされていた私が、初めて喋ったからだ。

「ねえ、今日しゃべったって本当?」

「すごいね、喋れたんだね」

靴箱にあるよ、と口にして以降、私は再び一言も喋ることができなくなった。注目が怖くて苦しくて、何よりも嫌だった。人間ならできて当たり前のことをして褒められたこと。なんとかもう一度喋らせようと猫なで声を作るクラスメイトの期待に、応える術もないこと。自分でもどうやって開くのか分からなかった鍵が、より強固になるのを感じた。

実況の声が遠くに聞こえる。ゴマ君とミューズは私を見上げたままだ。今さらになって理解した。私は、あの日から同じ年代の相手と話すことが何よりも怖くなったのだ。私が喋ったとき、二人はどんな反応をするだろうか。足の震えをなんとかしようと、爪先に力をこめる。開いた口から、うまく声が出てくれない。私は目を閉じ、開いた。壊してしまえ、と頭によぎる。何を壊すのかは分からないけど、多分大事なものが壊れてしまう。一度思えば踏ん切りがついた。そうだ、壊せ。今度こそ息を吸って声を張る。

「月人は何かを残したくて必死なんだよ! ミューズが見届けないなんて、絶対ダメだよ!」

二人はあっけにとられ、大口を開けていた。

あーあ。やってしまった。次の瞬間、私は何を言われるんだろう。六年生の時の惨めさが、意地悪に口角を吊り上げ押し寄せてくる。もう戻せない。壊れてほしく、なかったな。

私の耳に届いたのは、言葉ではなくどよめきだった。疑うような、昂るような。おいおい、おいおいおい。耐えきれずに誰かが出した声が響く。その声に意味なんてなくとも、叫ばずにいられない、そういう衝動がいくつも重なる。

思わず私は一点に目を向けた。誰に指示されなくとも、その場にいる全員が同じものを目で追っていた。冗談か何かのように、空へ突き進んでいく白球。こっちに来る、と誤った予測をしたのは一瞬だった。私たちの頭上をさらに超え、振り返った先の階段にぶつかった。跳ねて無人の客席に当たり、その度に椅子を叩き壊していそうな鈍い音を立てた。

私とミューズとゴマ君は、お互いに顔を見合わせた。何を発するべきなのか分からず、ただ視線を合わせるのが唯一できることだった。私たちの代わりに、周りが正しく反応する。

あらゆる音が一斉に唸りを上げた。歓声、拍手、メガホン、太鼓、指笛を鳴らしている人までいる。それだけでは足りないとばかりに、次々と人が立ち上がった。一人立って目立っていたはずの私は、あっという間に周りに飲み込まれた。ゴマ君とミューズも手を叩きながら立ち上がる。なんとか背伸びをし、月人の姿を探した。ベースを一周する月人は、手を上げ歓声に応えている。実況が何やら興奮して声を張っているようだけど、湧き上がる歓声に負けていた。

「見た? 見た?」

興奮を隠さずミューズが声を上げる。

「見た、といえば見たかなあ。打球はばっちり見たよ」

苦笑いをする間も、ゴマ君は叩く手を止めない。

「あいつ、やるじゃん」

「だから言っるでしょ。月人くんは天才なんだって。ね、あやちゃん」

ゴマ君が目配せしてくる。私はついつい癖で頷く。

「戸村は? ちゃんと見れた?」

私は首を傾げる。正直、打った瞬間は見ていない。「ちょっと、誰も打ったところちゃんと見てないじゃん」

笑うミューズの目に、涙が浮かんでいた。赤く潤んだ目を腕で拭う。それでも足りないらしく、何度も手を当てた。今度こそ見逃さないよう、歓声を一身に浴びる月人を見つめた。

「戸村」

目を向けると、ミューズはなおも月人の方へ目を向けたままだった。私も倣って月人を見る。

「ありがとね」

田町くんと月人が握手を交わし、また歓声が大きくなる。私は、自分の足の感触を確かめた。まだここにいて、何も変わらず時間を過ごすことができている。一度失うことを覚悟した何かが、きちんと残っていた。狐につままれたような感覚。初めて会った時、ゴマ君が力説していた姿が浮かんだ気がした。全てをふっ飛ばしてくれる魔法、か。なるほど。

月人は間違いなく、特別な存在として賛辞を浴びていた。何万もの視線の先の記憶に、彼が生きてきた証を焼き付けた。

 

 

二十

通常、周囲の雑音というのは気に留めることもなく認識することもない。本当は飛行機が飛んでいたり、壁が軋んだり、時計が進んだりとひっきりなしに音が鳴っていても自然にやり過ごしている。なのになぜ、あの姉が動く音というのはこうも頭に飛び込んでくるのだろう。私は見ていなくても正確に実況中継ができる。さあ玄関を開けて帰って来た姉が向かうのはリビングのソファーか、おっと立ち止まった踵を返して向かうのは冷蔵庫。何度目のトライでしょうか、今日もアルコールを浴びてしまうのか姉選手。

バタン。姉が冷蔵庫を閉じたのと同時に、私は何も描かれていないままのスケッチブックを閉じた。集中力の限界だった。かれこれ昼から二時間近くは机に向かっていたのだと、スマホを見て気が付いた。その間私がしたことといえば、無我の境地に入ったお坊さんみたいに一点を見つめていただけ。

こともあろうか煩悩界の頂点にいそうな姉に救いを求め、私はリビングに向かった。何気ない振りを装って、姉に声をかけてみる。

「私って変わったかな?」

すっかり指定席のソファーから姉が見上げてくる。目をいくらか瞬かせただけで、ひとまず質問に答えてくれる素直さは少しだけ尊敬している。

「変わってない」

適当に私が欲しそうな答えを返さないところも、ほんの少しだけ尊敬している。同時に、適当に私が欲していない答えをしているんじゃないかと心配になるけど。

「昔っから頑固で臆病で、変なとこでムキになって。あんたは昔っからのあんたのまんま。いいじゃんそれで」

どうやら私の質問の真意は伝わっていたらしい。

月人のホームランをミューズ達と一緒に見られたこと、私は少しずつだけど家族以外と会話ができるようになってきていること。先日お話したこれらの件を踏まえて、私は変わったのでしょうか? と、本来あるべき前置きが省略されたとは思えない明瞭な返事だった。

「私は変わりたいと思ったんだけど」

姉の前のテーブルには、何も置かれていなかった。てっきりお酒かお菓子があると予想していたのだけど、初めてと言っていいほど姉の前の空間は片付いていた。

「どっちでもいいじゃん。変わっても、変わらなくても」

不貞腐れた私の声を、姉はいとも爽やかに受け流した。姉がふっと笑った鼻息で、私の抗議などどこかへ軽々飛ばされていってしまった。

私はといえばただ、むくれてみていた。人生において、むくれるという所作を使った記憶はなかったけど、思いつく限りの分かりやすさでむくれてみた。姉は年の離れた姪の駄々を見るような目で、ふっと噴きだした。

「変わったかはともかく、頑張ったんじゃない?」

むくれを萎ませ、私は息をつく。頑張った、か。初めてもらった姉からの敢闘賞。考えてみれば、ここまで長いようで短かった。永劫に続くと思われていた私と病との付き合いは、なずなと出会ってから瞬く間に終わりが見えてきている。

「なずなの皆のおかげだよ」

「今度、連れてってね。その喫茶店。イケメンくんとやらも見てみたいしそれに」

組んだ右足を猫のしっぽのように遊ばせながら、何やら名案を思いついたように姉が顔を上げた。

「嬉しいときに食べるデザートもいいもんだよ」

嫌なことがあったときこそ、美味しいものを食べるんだ。

結菜ちゃんの受け売りだった言葉を思い出した。そんな事細かに姉に話しただろうか、と思いを巡らせると確かに話していた。言わずにいられないほどなずなのチョコレートは美味しくて、それをお父さんに伝えられないこともミューズとの再会も全てが忌々しかった。

嬉しいときのデザート。未だ体験したことのないその味は、姉と一緒に楽しもう。

そうだね、と呟いて約束した。微笑ましそうに私を見つめる姉に、どこからか言いたいことが浮かんできた。

「お姉ちゃんも頑張れ、って思った。なんとなく」

私には自由奔放で無敵に見えていても、いつかの姉いわく酒に任せて解放感に浸りたいときがあるらしい。彼氏とケンカして飛び出してきて、飲んで寝て飲んで寝て。もしかしたら彼女は、私の知らないところでずっと戦いの中にいたのかもしれない。

「生意気にも私を応援しようというのなら、たまには私の愚痴をとことん聞いてからにしてもらおうか」

姉は微笑み、テーブルの向かいを指さして私に着席を求めた。

「聞かせてよ。でも今はやることがあるから、夜にでも」

「相変わらず頑固で我が道を行くのね、あやちゃんは」

「そうそう。私はどうせ変わってないからね」

二人して小さく笑った。こうやって二人で一緒に笑うと、私たちはけっこう似た笑い方をしていると思った。

 

本当は姉の愚痴とやらを聞いてみたいとも思ったけど、誘惑を断ち切って私は再び自分の部屋に戻った。

月人がホームランを打ったあの日から何度か、机と向き合い私なりの挑戦を試みている。大抵目の前にあるのは白紙で、たまに二本、三本と線を入れてみるのだけど、どう世界が転んだって私の思惑を映してくれそうにない。

はあ、と息をついてはデッサンの専門書を手に取り解決策を探すふりをしてみる。パラパラとめくるけど、ハナから頭では違うことを考えているので内容が頭に入るはずもなく、専門書を閉じた。一応私の部屋では、本の特等席にあたるブックスタンドへ戻って頂く。テレビの前で寝転んでいるだけの、家族から総すかん親父みたいな存在だったくせに。最近は私がよく頼るものだから仁王像のような貫禄すら感じて困る。

ようやく儂の必要さが分かったか。と睨みを利かせられている気がしたけど、そういう問題じゃないんですよ仁王さん、と内心ではやっぱり頼りない存在として認識している。

一週間経ってもなお、私の脳裏にはあの光景が焼き付いていた。空を舞い上がる一筋の白。何も聞こえなくなる一瞬。疑いから興奮に顔を変えつつある、一面の人。私たちは一個のボールを介して同じ時間を共有し、一人の選手を称えた。

私がやりたいのは、それを一枚の紙に収めること。正直、難しいことだとは思っていなかった。写実的な絵なんて何年も描いていなかったけど、中学の授業で描いた風景画はノープランでも様になっていたし。そもそも絵に正解なんてないのだから、絵画を難しいと感じたことがなかった。それが、今はこのザマだ。

なにせ今描きたい絵には正解がある。あの心揺さぶられた感覚を、なんとか再現できないものか。家族も友人もファンも、見知らぬ敵も、疑念も悪意も、すべて真っ白に塗り替えた魔法。それを私は、描こうとしている。

どうしたらいいでしょう仁王様、と再度ブックスタン            ドの神様に頼ってみる。人物デッサン辞典、と肌色にくすんでしまった背表紙に、だんだん仁王様の顔が浮かんできた気がした。

「まずはもっと身近な世界を描くべきじゃない?」

意外にも優しい口調で仁王様は諭した。そうですよね、分かりきったことをお聞きしました。私は反省して、身支度を始める。残りの枚数が分かりやすいよう、パソコンのモニターに貼り付けてあるコーヒーチケットも忘れずに。なずなの店名に、すっかり短くなった短冊の最後の一枚がくっついていた。

このチケットが無くなるまでに、なずなの絵を描く。誰かに必要とされたいと願った私が、自分で誓ったこと。そしてもう一つ思い出した、このチケットに込められた願い。

『ミューズちゃんはね、きっと仲直りがしたいんだよ』

ゴマ君の言葉が蘇る。ミューズがコーヒーチケットをくれた後で口にした、勝手な推測だ。今となっては、真偽はどっちでもよかった。

私は、私のしたいように動くだけ。

 

 

日曜日のお昼時。意外にもなずなは客足が途絶える時間帯だ。日曜日は朝からコーヒーを楽しむ優雅派と、午後に仲間内で長居するカジュアル派で分かれるらしい。昼時はちょうどその合間で、入り口から見えたのはサンドウィッチと新聞を交互に眺める男性客客ぐらいだった。

「いらっしゃい。カウンターに座る?」

「ううん。あっちでいいよ」

私の返事は聞こえなかったらしい。ミューズは私の視線に反応して、テーブル席へ促してくれた。

あれから、私は少しずつ口で喋っている。月人がホームランを打ったあの日も、試合を見ながらポツリ、ポツリとだが声で返事をするようにしてみた。ゴマ君が「かわいい声だなあ」と頬を緩ませると、ミューズが応援用のメガホンで頭を叩く。それを繰り返しているうちにゴマ君からも私自身からも、私が話しているという非日常感が薄れていった。

まだ大きな声や長い文章での会話はしないようにしている。本当はできるのかもしれないけど、なにせブランクが長い上に、ズレたことを言ったらどうしようという不安もモヤのように頭を重くしている。今はリハビリ期間、ということで許してもらいたい。

今日はゴマ君は来ていないらしい。お母さんも見当たらず、店はミューズとお父さんの二人で営業しているようだ。注文したコーヒーを持ってきてくれたミューズに声をかけていいものか迷ったが、ミューズは当然のように私の向かいに腰かけた。

「あれからさ、月人のファンが増えてるよ」

そう言って笑った。おとうとおかあがホームランを見れなくて悔しがっている、とも。詳しい話がなくても、素直に月人の活躍を祝う二人の姿が思い浮かんだ。

「よかった」

作らなくても、顔が勝手に喜ぶ。私とミューズは同じようなにやけ顔で、感情を分け合った。

「あのね」

久しぶりに外で話すと、鼻から息が抜ける感じがする。家ではそんなことないんだけど、声を出す力加減が分からなくなる。自分でも不思議だ。

「あれ」

私は黒板を指さした。もう一か月以上、お父さんの意図とは違った使われ方の板。今日も絵はなく、季節限定かき氷の文字がトゲで囲まれていた。強調のつもりなのだろうけど、線の先がところどころ尖りきっていなくて不気味なアメーバみたいな見た目になっている。

ミューズは不思議そうに黒板から私に目を戻した。

「一緒に描こうよ」

絵、得意なんでしょ、とまで言おうか迷って止めた。ミューズは瞬きをして、懸命に推測を利かせているようだった。中学の頃に思い至ったのか、あ、と声を出す。

「そういえば戸村、絵が好きだったね」

当然なんだろうけど、ミューズにとっては遠い過去の出来事でしかない。高校生になっても絵を描き、本当は学校で絵を勉強したかったことなど、知るはずもない。

「今も好きだよ」

ミューズがバツの悪そうな顔になる。そんな顔をする必要はないのに。ミューズが専門学校に行きたがったがために私が進路を変えたことなど、知りようがないことなのだから。ただ、ミューズが何かを察したのは確からしかった。

「ねえ」

続きを口にすることをためらう。なんで専門学校に行かなかったの? 聞いてもしょうがないと分かっているのに、続ける必要があるのか。知らないフリをして、ただ和気あいあいとあの黒板を仕上げたって、私たちは悪くない関係といえるだろう。でも。

「ねえ」

やはり、聞いておきたかった。だって今聞かないと、私はきっと、今後何度でも同じ疑問に苛まれる。

「なんで」

先を言えば、また何かが壊れてしまうだろうという脈絡のない予感がする。間が空く。ミューズが何か言うべきか迷っているのが分かる。どうやらまだ、自由に伝えたいことを伝えられる世界までは遠い。そりゃそうか。二十一年も付き合ってきた障害だもんなと妙に納得し、自分に呆れもした。

馬鹿だなあ。まだ私はミューズを信じることができないなんて。こんな質問ひとつで、関係が壊れるような相手ではないと分かっているはずなのに。

こんな私の言葉を、ミューズはまだ待ってくれている。恐らく彼女自身もどうすべきか定まらないまま、自分の口にブレーキをかけている。残念なことに、私はその期待に応えられそうになかった。声にしようとすればするほど、胸が押し迫っている感覚がする。心臓麻痺で苦しむ人みたいに、自分の胸元をかきむしってやりたくなる。思わずスマホに伸ばしかけた手を止めた。いつか、ミューズの前で無理やり声を出そうとしたときのことが思い浮かんだからだ。治りたいんだったら道具を使わない方がいい、それが彼女の提案だった。

「スマホ、使いなよ。無理しなくていい」

私の考えを読んだみたいに、彼女は過去の自分の提案を覆した。頷いて、私はスマホに打ち込む。

『なんで絵の専門学校に行かなかったの?』

前よりも迷わず打てるようになったのは、リハビリの成果だろうか。スマホを手渡すと、嘘のように息がしやすくなった。

「知ってたんだ」

ある程度予想していたのか、あるいは本当に意外だったのか。どちらとも悟られないまいとしたのか、静かに言った。

「私だって行きたかったよ。けどさ」

なぜかミューズは店内を見渡し、何を探すこともなく私に視線を戻した。

「月人を治したかったから」

「それって」

覚えたての相づちを入れると、ミューズは小さく頷いた。

「月人がミライスポーツに就職が決まってさ。おまけに野球をやるって言い始めて。もしかしたら、カッコいい月人が戻ってくるんじゃないかって思った。そしたら女の人の恋人ができたりさ。月人自身、そうなりたいと思ってるんだって勝手に勘違いして。そんな大事な時だからこそ、私はできるだけ家にいて月人を助けたいと思った」

私は早くも相づちを忘れる。頭の中で、高校三年生の頃のミューズを必死に思い出していた。

「でも今思えば、月人は小さい頃から男らしくはなかったのにね。生まれてからずっとああいうヤツで、死ぬまで変わらないって、そんな簡単なことに気づかなかった」

別に変わらなくてもいいのにね、と最後にミューズは付け足し、二人で五体並んだ人形の方へ目を向けた。初めて見た時も今も変わらず、縁から足を投げ出している姿は遊んでいるようにも見える。

「変わったこともあると思うよ」

ミューズの目が私に向けられる。私は人形を見ていた方が言える気がして、そのまま続けた。

「家族やファンのために頑張ったり、とか」

「なるほど」

私は横目でミューズの表情を確かめずにいられなかった。なぜだか、中学の頃のホース片手に蔑むミューズが重なる。私が会話をすることと、ミューズとの過去とになんの関連もないのに。理不尽さに潰されそうな瞬間が時々混ざる。

「戸村はどう? 変わった?」

そう尋ねるミューズからは、何の敵意も感じられなかった。憑きものが剥がれるように、ホースを構える姿もどこかへ消える。

「変わってないらしいよ」

咄嗟にそう答えた。らしい、というのはありがたい姉から頂いた意見なので。姉に言わせれば私は所詮、あんたってそういうところがあるよね、の範囲の中で生きている人間らしい。意外性も成長もない、それが私。

「こんなに喋れるようになったのに?」

「うん。お姉ちゃんから見れば、私は何も変わってないんだってさ」

「そっか」

口を尖らせ、ミューズは何やら考えている。自分の求める答えが落ちていないか、小さく唸って顔を上げた。

「戸村が変えたのは、世界かもね」

「世界?」

「そう。ついでに月人もね。戸村が声を上げて、月人がホームランを打った瞬間に世界を変えた」

大げさな言葉。身の丈に合わない言葉がくすぐったくて、思わず苦笑した。

「おかげでさ。少なくとも私は変われそうだもん。絵、描くよ」

ミューズはテーブルの上に身を乗り出し、耳打ちのポーズをした。視線の先に、お父さんが作業するカウンターがある。聞こえるはずもない距離だけど、私は耳を差し出した。

「私、絵を描くのが嫌になったって親に言ってあるの。だけど嘘なんだよね。自分を納得させるために、絵を嫌いになったって言い張ってただけ」

耳元から離れるとともに、本音らしき言葉を吐いた。

「だって悔しいじゃん。月人のために絵を諦めるなんて」

どこかの席で、陶器が落ちたような音がする。ミューズがいち早く顔を向けた先を追うと、男性客が立ち上がって足元の惨事を見つめていた。床にコーヒーが広がって、カップはおもちゃみたいに取っ手と本体ですっかり別れてしまっている。

「あーあ、百田のおっちゃんがやらかしたー」

からかうようにミューズが大きな声を上げる。百田のおっちゃん、と呼ばれた男性はなぜかテーブルからスポーツ新聞を手に取り、また置き直した。焦っているらしい。

「冗談だよ。ちょっと待ってて」

ひと仕事、と気合を入れるようにミューズが背中のエプロン紐に手をかける。向かう前で、急ブレーキをかけるように私に振り返る。

「今度、店が閉まった後でみんなでご飯食べるから。日にちをまた相談させてね」

「みんなって?」

私が尋ねると、ミューズは不思議そうに首を傾げた。

「みんなはみんなでしょ」

言い残し、罪悪感で固まる百田のおっちゃんとやらを助けに行ってしまった。よほど落ち着かないのか、男性は一旦座ってまた意味なく立ち上がった。ミューズがどう見ても汚れていない腿の辺りを、おしぼりでバンバン叩く。出た、持田家のおしぼり技。私はその光景を楽しみながら、残りのコーヒーを頂いた。

 

 

二十一

「ようこそ、ホームランパーティーへ!」

なずなのドアを開けるなり、ミューズの大声とそれをかき消すぐらいの破裂音に見舞われた。頭からイタズラっ子みたいな紙屑と火薬の匂いが降ってくる。まとわりつく紙屑を払い、頭を振った。耳元で紙のこすれる音がする。

「ホームランパーティー?」

「なんでもいいんだけどね。どうせなら、ただご飯を食べるだけじゃなくてパーティーにしちゃった方が楽しいじゃん?」

「そういうこと」

もう一発、駆け寄るゴマ君によってクラッカーが鳴らされた。ミューズにまで色紙が飛んで、ミューズがすかさず投げ返した。

「ゴマオ! あとで掃除しとくんだよ!」

お母さんの鋭い声。手は大皿二枚で塞がりながらも、危うげなくゴマ君に視線を向けた。

「そりゃ掃除はするけど、僕だけ名指しはひどいって」

初めて見る夜のなずなは、木の色の壁も相まってやっぱり薄暗かった。陽が入らずに店内の照明だけだと、ランプに灯したような温かい色の光に包まれる。その光の向こうで、壁に見慣れない装飾がされていることに気づいた。エメラルドグリーン色の、大きな真珠みたいな真ん丸が並び、横に波型の列をなしていた。

「パーティだからね。せっかくだから飾り付けしないと」

ゴマ君が胸を張る。ミューズがすぐさま

「風船足りないじゃん」

と指を指した。確かに、見えている範囲だけ飾り付けるにしてもあと三メートル分は足りない。

「大丈夫だよ、足りないなら間隔を空ければいんだし」

ゴマ君は最後尾の風船を壁の端に着け、空白の三メートルを埋めるよう手前の風船からずらし始めた。

「等間隔にしないとカッコ悪いからね。要は風船の数で壁の全長を割ればいいんだから……」

口から作戦を漏らしながら、ゴマ君はああでもないこうでもないと風船を動かす。手伝おうと風船に手を伸ばした私を、ミューズが止めた。

「ね、それよりさ」

ミューズが向いた先を見て、その意図を理解した。私は頷き同意する。後をついて歩き始めると、カウンターの奥からお父さんが出てきた。お母さん同様、両手に大皿を持っている。

「月人は間に合うかな?」

「さっき仕事が終わって、あと二十分ぐらいしたら着くって」

「よし、タイミングばっちりだ」

ミューズの返事を満足そうに聞き、お父さんはまたカウンターの奥へ戻っていった。舞台裏を覗く行為な気がして、私はできるだけ並ぶお皿の中身を見ないようにした。

あと二十分。ミューズを見ると、余裕ありと言いたげに笑みを浮かべた。ま、いけるでしょ、と軽やかな声が聞こえる気がする。

私たちは、あの黒板と対峙した。縦向きに置かれていたそれを、横向きに置き換える。この方が、広く空間を使える。構図を練る時間も惜しかった。打ち合わせることもないまま、チョークを手に取り線を入れた。私が顔を描き始めると、ミューズはその周りを彩るように小物を描き入れていく。視界の端で、馴染みのある品々が形を現す。コーヒーカップ、五体の人形、バットとボール、お皿に入った生チョコレート。ミューズの配置は絶妙だった。私がどこに誰を描くつもりか知っているように、重ならない位置に所せましと絵を並べていく。一つ一つの絵が可愛らしいだけでなく、それらが連なってお花畑を作っているように見えた。

私は、ミューズが空けてくれていたスペースに顔を描き続ける。始めはお父さん。顔の大半が髭で覆われていて、絵にするとふかふかの羊みたい。次はお母さん。餌を取り上げられたボス猫のような目。不機嫌そうで、でも口元は笑っている。その目が見据える先に、ゴマ君を描いた。冷や汗をかいてお母さんから逃げようとしている。茶色い髪を跳ねさせて振り返る様は、トムとジェリーが逆転したみたいだ。次に月人。月人は隣の大騒ぎに気づきもせず、澄まし顔で髪を梳いている。実際に月人が髪を触っているのは見たことがないけど、顔から上であの華奢な思考回路を描こうとするとこんな構図になった。最後にミューズ。右下の広いスペースに描こうとすると、ミューズから声がかかった。

「待って、そこは空けておいて。描くならここが空いてるよ」

指されたのは、てっきりミューズが続きを描くのだと思っていた空間だった。確かに、言われてみれば一人描きこめそうなサイズになっている。言われた通り、そこにミューズの顔を描く。ここはもう、ミューズの目鼻立ちそのままに描けば正統な美人ができた。なにせこの店の看板娘と言っていい存在なのだから、満面の笑顔で描く。ミューズらしい、大きく口を開けて笑う姿ができた。周囲の人も、一緒に笑ってしまう力をもつ顔。私たちはほとんど息をするのも忘れて、作業にのめり込んでいた。心地よい疲労と感覚で分かる。そろそろ、二十分経つはずだ。

「おかえり月人くん!」

クラッカーの音と続くお母さんの怒声で、月人の帰りを知る。私たちは顔を見合わせ、絵が見えないよう黒板をひっくり返した。ミューズが持ち上げ、カウンターの方へ運んでいく。

「なんだかずいぶん凝ってるね」

一人冷静に店内を見渡した。さっき描いたばかりの、イラストのすまし顔が現実になったみたいで可笑しい。

「はい、これを着けて」

着けてと言いつつ、ゴマ君は月人の背後に周り勝手に白いたすきのようなものを首にかけた。肩から斜めに、金色で縁取られた『本日の主役』の文字が光る。

「これはちょっと、センスが古くないですか?」

月人が苦笑いで、私に同意を求める。ひとまず私は頷いておいた。

「そんなことないでしょ。はい、お母さんはこれ。あやちゃんはこれ」

「どっから持ってきたんだ、これは」

タンバリンを手渡され、呆れるお母さんを笑っていたら、私は私で肩から何かを通された。嫌な予感がしてお腹を見ると、やっぱり『本日の主役』が光っていた。

「いらない」

「そう言わないで。せっかく二枚入ってたんだから、使っちゃおうよ」

ゴマ君は私の返事を待たず、月人をテレビがある下あたりに案内した。

すでにその正面のテーブルは四個くっつけられていて、大皿がいくつも並んでいる。ちらし寿司や唐揚げ、トマトやアスパラや肉をつまようじで一串にしたもの、輪切りのゆで卵がきれいに並んだサラダなど、家庭のパーティの範囲を超えた華やかな料理が並ぶ。

その周りに六席椅子が用意され、ゴマ君がお父さんとお母さんを座らせた。月人のいる側がステージかのようにコの字に並べられた椅子に私が案内され、その隣にミューズを座らせようとしたらしいゴマ君が首を傾げる。

「ミューズちゃん? 何してるの、みんな揃ったよ」

「ちょっとだけ待って」

不思議そうに一人一人を見回すゴマ君と目が合う。私もゴマ君と同じように首を傾げたところで、カウンター裏からバタバタと足音を鳴らしてミューズが帰ってきた。

「ごめん、お待たせしました」

私の隣に座った時には、早くもタンバリンは隅に追いやられていた。

「じゃあ料理が冷めないうちに。月人くんから乾杯の言葉をどうぞ」

ゴマ君が手を叩き、つられて私たちも拍手をした。隣のお母さんが、問答無用で私のグラスにビールを注ぐ。姉が酔って床にへばりつく姿が浮かんで、私もああなるかもしれないのか、と乾いた笑いが出た。甘んじて、お母さんのお酌を受けることにする。

いつの間にやら、月人を含む全員の手にビールが注がれていた。月人の咳払いとともに、再び全員が月人に目を向けた。

「急に言われて何がなんだかだけど、ええと。こういう機会をもつことができるとは思っていなかったので、嬉しい、です」

本当に急だったらしく、月人は片言のように言葉を途切れさせる。何を伝えるべきか、手探りの様子のまま続けた。

「あんまりマジメな感じになってもいけないかな。だから、サラッと言うよ。みんなの前でホームランを見せることができて、本当によかった。みんな、ありがとう!」

乾杯にもっていこうと声を張り、月人がグラスを高々と掲げた。呼応して、誰もがグラスを掲げようとしたときだった。

「はい、乾杯は待って!」

ゴマ君が月人の前に進み出て、制止を呼び掛けた。

「ゴマオ、なんのつもりだ」

眉をひそめるお母さんの口には、すでに白い泡がついている。

「ミューズちゃん、あやちゃん、僕たちは嘘をついてるよね」

お父さんとお母さんの視線を受け、私とミューズは必死で首を振った。なんのことやら分からないけど、妙な誤解をされてはたまらない。

「僕たちは、月人くんのホームランを見てない、そうでしょ」

お父さんとお母さんの視線に、月人の視線まで加わり私たちは逃げ場を失う。ミューズまで慌てて、声が裏返っているのが余計に三人の不審を誘った。確かにホームランの瞬間は見ていなかったけど、立ち会ったのは事実だ。こんな指摘のされ方をするような悪行ではないはず、と言い返したいがどこから説明したものか、言葉が出てこない。ただただ恨めしい顔で、ゴマ君の奇行を非難した。

「ついでに言うならお父さんとお母さんもだ、月人くんのせっかくの晴れ舞台を見ていない。なのに乾杯だなんて、呑気なことを言っていていいんでしょうか」

「確かにホームランは見ていないけど、今はその話の必要はないんじゃないか」

お父さんが助け船を出してくれた。こともあろうに、ゴマ君はお父さんの優しい促しを真っ向から否定する。

「ダメです。乾杯は、これを見てからでないと」

これ、と掲げたのは紙袋に入れられた四角だった。見覚えのある大きさと話の流れから、私は推測を口にする。

「DVD?」

「そう! これこそ世界でただひとつ、月人くんがかっ飛ばしたホームランの瞬間が収められた一枚なんです!」

誰もが顔を上げた。あり得ないという疑いと、もしかしたらという期待が渦を巻く。

「テレビでもやってなかったじゃん。どっから手に入れたのよ」

興奮気味のミューズを前に、勝ち誇ったようにゴマ君は両手の拳を握り天を仰いだ。

「今日のために、トラトラトリオに譲ってもらいました!」

「マジ!」

私もミューズみたいに叫びたかった。初めて人前で大きな声を出してみたいと思うほど、想像の外だった。ゴマ君がつけた変なあだ名の、あの三人組。

「どうやったの。お金でも積んだ?」

「いいや。聞いたら普通にくれたよ。コピーだけど」

「へえ。あの三人、動画を撮ってたんだ」

今度は月人が感心したように声を出す。

「そうなんだよ月人くん。あの日、あの三人も球場に来てたんだ」

「うん、来てたのは知ってるよ。声がよく聞こえたから」

月人が頷く。これは、あの三人が聞いたら卒倒してしまうかもしれない。

「ゴマオ! もったいつけるんじゃないよ。それは乾杯が終わってからでいいだろう」

お母さんのヤジを喰らい、ゴマ君が慌てて月人に手で先を促す。

「まったく、もっと僕を褒めてくれてもいいじゃない」

「まあ、後でゆっくり映像を見ましょう。ありがとうございます」

月人は小さく頭を下げ、再度ビールを掲げた。

「では、楽しみも増えたことですし、今度こそ乾杯」

「ちょっと待って!」

「どうしたの、ミューズちゃんまで」

自分を棚に上げ、ゴマ君がおいおいと異議を唱える。

「ごめん、後にしようと思ってたんだけど、お酒でワケ分からなくなる前の方がいい気がしてきて」

ミューズの視線の先に、椅子に根でも張ったようなふんぞり返り方のお母さんがいる。ミューズの制止が間に合わなかったのか、すでにビールの半分は消えていた。

「長くはかかんないから」

カウンターの方へ向かうミューズを、小走りで追いかけた。何だろうと顔を見合わせるみんなと違い、私だけ急激なのどの渇きがせり上がる。勢いで描いてしまったけど、反応を目の当たりにする段になって怖くなってきた。

黒板は二人で持つにはやや余るぐらいだったけど、私たちは大事に両手を添えて運んだ。何かが擦れるだけで、チョーク画は容易く台無しになってしまう。

まだ絵が見えないよう裏向きにして月人の横に並んだ。

乾杯を待たせていることもあって、ミューズはすぐ私に合図する。

「いくよ」

ひっくり返し、絵が月人たちの前にお披露目された。ミューズが

「私とあやで描いたのよ」

と誇らしげに言う。私は急に名前で呼ばれたことに驚いたけど、すぐに嬉しさの方がこみ上げた。

「これは、すごい」

間近で見た月人がため息に似た声を漏らす。どれどれ、とゴマ君、お父さん、お母さんと順に立ち上がって絵を囲んだ。

「ゴマオが似てるな、特に」

「お母さんこそそっくりですよ。どら猫みたいで」

「なんだって?」

ゴマ君をお母さんが睨みつけ、私の方が妙な緊張を覚える。幸い二人はすぐに絵の細部にも注目を移し、ミューズが描いた鮮やかなグッズたちを称賛した。

「あやちゃんもすごく雰囲気が出てていいね」

月人の言葉は、何かの勘違いだと思った。ミューズの顔あたりと私を勘違いしたのだろう、と。でもどうやらそれは違うらしい。

「本当だね。よく描けてるじゃないか」

お母さんが目を細める。覚えのない話題に戸惑っていると、ミューズが何か目配せを送ってきた。私は手を離し、正面に回って絵を見てみる。

絵の右下、ミューズが空けておくよう言ったスペースに、女の子の絵が描かれている。首から上と手だけだけど、その手はウェイトレスがお皿を持つように、この絵自体を支える姿にも見て取れた。それがどうやら私らしいことに、ようやく気が付いた。

「いつの間に」

「裏で、大急ぎで描いた」

屈託なく、ミューズは親指を立てて見せた。

「なんだかあやちゃんのお店みたいだね」

ゴマ君が微笑む。

「ほら、本日のもう一人の主役みたいだし、ちょうどいいでしょ?」

一斉に私のたすきに注目が向き、恥ずかしさが押し寄せる。たすきを外そうとした手は、まあまあ、と素早くゴマ君に止められた。タイミングを決めていたかのように、私たちは言葉を止めた。賑やかな時間を楽しみながら、本当は大切な人が足りないことに気づいていた。ゆっくり、割れ物に手を添えるように様子を窺う。

一人席に戻っていたお父さんが、メガネを外し、肩を震わせている。何度も手で目元をぬぐい、表情を隠すよう顔を下に向けていた。

ふっ、とミューズが薄く笑う。

「どうしたの? 私の絵が上手すぎて感動した?」

冗談で言ったのだろうけど、お父さんは噛みしめるように頷いた。何度も頷き、声を絞り出した。

「こんな日がくるんだなあ」

私たちは黙って、その感慨に聞き入った。もっと聞いていたかったけど、気を遣ったのかお父さんは大きく首を振り、どうにか感情を立て直そうとする。次に顔を上げたときには、目こそ赤いもののいつものお父さんの顔だった。

「それにしても、申し訳ない」

「何が?」

ミューズが首をすくめて尋ねる。

「せっかく描いてくれたのに、こんな黒板じゃすぐに消えてしまうだろう」

お父さんが黒板に向けて目を凝らすと、また涙が浮いたようで目元に手を当てた。

「なんだ、そんなこと」

ミューズは心底気の抜けた声で言った。安心して、と言い聞かせるように拳を胸に当てる。

「また描くから大丈夫だよ。ね?」

ミューズの視線に、もちろん、と意をこめて頷いた。頷いたあとで「あ」と声が出た。危うく忘れるところだったけど、寸でのところで喋るという行為を思い出す。

「もちろん、何度でも描くから大丈夫です」

お父さんが微笑み、髭の奥からありがとう、と掠れた声が聞こえた。

「さあもういいだろう、乾杯だよ」

「ああ、忘れてた」

月人が呑気に口を開ける。

「まったく、ゴマオが乾杯を止めるからこうなるんだ。飯が冷めるだろう」

「僕のせいですか?」

「月人、今度が本番だからちゃんと決めてよ」

耐えきれなくなったように、それぞれが思い思いの言葉を口にしながら席へ戻る。ゴマ君がお父さんの肩を叩き、何やら労った。お母さんはとうとうビールを飲み干し、私はミューズがたすきをより固く結ぼうとするので、なんとか逃れようと体をよじっていた。

「あー、なんだか誰ももう聞いていないようですけど、今日は楽しみましょう。乾杯!」

「カンパーイ!」

ちゃっかり耳だけは全員月人に注目していたようで、練習していたみたいに声がそろった。私がビールに手を向けた隙を狙って、ミューズがたすきの端を堅結びにしてしまう。項垂れる私を見て、月人が笑った。あとで月人も同じ目に合わせてやろうと思う。

笑い声やら、ぶり返してきたすすり泣きやら、いろいろと混ぜこぜになった景色を見て思う。

この光景を守りたいと思って良かった、と。

次は何を描こう。まだ、球場中が月人の打球に心を奪われたあの瞬間を描くことだってできていないのに。描きたいものがたくさんあって困る。

「ねえ」

私の声に、ミューズが振り向く。幸せたっぷりの、満ち足りた顔。

「なんでもない」

なにそれ、とミューズが首を傾げてから吹き出す。つられて私も笑った。お腹を押さえて、ミューズみたいに大きな口を開けて笑った。